近年、メディアで取り上げられる事が多い気鋭の若手の人気哲学者のマルクス・ガブリエルである。氏は1980年生まれであり、岩波新書「新実存主義」(2020年)を執筆時にはまだ30代と若い。マルクス・ガブリエルはテレビや雑誌らマスメディアへの露出が多い。通常哲学者はそこまで一般に広く知られる世間人気は出にくく滅多に跳(は)ねたりしないもので、哲学者とその哲学著作は専門の研究者や哲学専攻の大学生や哲学的思索好みの一部の人々の狭いサークルにてせいぜい熱心に読まれるのか通常であるから、近年のマルクス・ガブリエルの一般認知の浸透の世評人気の高さは、私には非常に興味深い。
これはマイケル・サンデルの分析哲学の共同体主義(コミュニタリアニズム)に基づく「正義論」哲学の世評人気の跳ね方を思わせる。サンデルの哲学ブームにて、学術的で硬派な普段はあまり売れないと言われる哲学書籍や彼の講義映像は売れに売れて、遂にはサンデル当人が来日して日本でも「ハーバード白熱教室」の出張講義イベントをやり、非常に人気で大盛況であったと聞く。そういった以前のマイケル・サンデルの哲学ブームの再来を思わせる近年のマルクス・ガブリエルの哲学人気である。
少し意地の悪い見方をすれば、「世俗人気の時代の哲学者ヒーロー」を無理に作ろうとして書籍や講義映像や人物の知的肖像のモデル・イメージまでまとめて一つのパッケージとして戦略的に売り出そうとする、どこか広告代理店の裏方のプロジェクトが元々あって、その戦略にて特定の哲学者や現代思想の人が周到に定期的に順次売り出されているような「実は仕掛けのキャンペーンありき」な故意の作為の闇を、前回のマイケル・サンデルのそれと今回のマルクス・ガブリエルの哲学ブームに私は多少は感じないこともないけれど。
現在、数多く邦訳されているマルクス・ガブリエルの哲学書籍は、今日の世界状況に対応した時事論と、「人間とは何か」を追究した原理論に分類できると思う。前者の時事論ならば、故国ドイツの戦争責任ら全体主義の克服や今日のコロナ禍を経験した世界の考察展望などである。後者の哲学的人間考察の原理論に関しては、氏の著書を数冊連続して読んで気付くのは、この人はドイツの哲学者だからカントから始まるヘーゲル、フッサール、ハイデッガー、アドルノ辺りが相当に好きで読み込んでいるに相違なく、そうしたカント以来のドイツ観念論の伝統の継承に基づき人間存在や認識についての現代的な哲学的人間考察を成しているのマルクス・ガブリエルに関する私の印象理解である。
岩波新書「新実存主義」は、後者の哲学的原理論の著作に属する。以下、岩波新書の赤、マルクス・ガブリエル「新実存主義」に話を絞り、その概要を述べるならこうだ。
「人間とは何か、人間にとっての世界とは」について、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」は次の二つの原理に依拠している。すなわち、(1)自然主義批判と還元主義批判、(2)構築主義への対抗である。
(1)の「自然主義批判と還元主義批判」について、ガブリエルは心を脳を同一視する立場、脳神経学や精神心理学による科学自然主義の人間理解を批判する。人間の心を脳と同一に見て、脳の各分野の機能を解明できたり、人間の心の動きを神経のシナプス反応によって説明できたとしても、それら自然科学的アプローチたる「心脳問題」への解明でもって人間存在そのものが分かったことには何らならないからだ。例えば、生物の遺伝子情報を解析する「ゲノム解析」が今日では盛んに行われているけれど、その科学技術が医学や生物工学の分野で有益であったとしても、そうしたゲノム解析にて人間そのものや人間の存在が解明されることはない。
こうした非自然主義の自然科学主義批判は、還元主義批判にそのまま連なっている。人間の心を脳と同一視して「人間とは何か」の人間理解をなそうとする科学主義的立場は、「脳」や「心」といった分析対象の措定を通して人間存在を個別実体の一つに還元させてしまう。人間とははるかに複雑な現象であり、「脳」や「心」といった言葉の概念一つで包括できるような何かではない。事実、人間に関する事柄は実体そのものでは存在しない。このことについて岩波新書「新実存主義」の本論記述では、例えば以下のようにある。
「新実存主義とは、『心』という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしないという見解である」「(新実存主義は)現代の科学的世界観の一部を生んだ枠組みの全体に揺さぶりをかける」(16ページ)
新実存主義とは、このような「自然主義批判と還元主義批判」の立場から、自然科学主義の実体主義ではなくて、人間主体と対象・状況との間での関係性の哲学である。本書にてしばしば展開される「新実存主義の存在論のコンパクトなモデルを提供してくれるもの」としての「自転車とサイクリング」(73ページ)のたとえがある。「自転車」という物(サイクリングに必要な道具)は、あくまでも「サイクリング」という事象(身体を持ってヒトが、一定の場所で、自転車を動かしていること)のために必要な物質的条件である。自転車はサイクリングの原因ではないし、自転車はサイクリングと同一ではない。あたかも「心」や「脳」が人間であることの原因ではないし、「心」や「脳」のあり様が人間存在と同一ではないことと同じように。そして、サイクリングが理論的・存在論的に自転車に還元できないのと同様、「人間とは何か」に関する人間存在への問いは理論的・存在論的に「心」や「脳」には還元できないのである。
(2)の「構築主義への対抗」については、そもそもの構築主義とは、私たち自身の重層的な言説ないしは科学的な方法を通じて一切の事実を構築しようとする認識立場である。例えばカントにおいて、それ自体として存在しているような世界(物自体)を私達は認識できない。ゆえに構築主義は、カントにおける認識論の「コペルニクス的転回」(「認識が対象に従う」対象世界の素朴実在論から「対象を認識が構成する」人間主体による構成的認識への転回)にて、カントに始原したものともいえる。構築主義とは、さまざまな解釈や表象を人間主体が構成して「現実」と解する真理相対主義である。
こうした構築主義に対し、ガブリエルは新実在論として「意味の場」という客観的な実在論の強調をなす。「意味の場」とは、「われわれの身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元」に連なる「精神」があること、この「精神」の次元において、人間は人間以外のものと区別され、人間は生物の自然種でありながら、それとは別の次元へと跳躍することができる。さらには、ガブリエルは「心的なものの存在論」にも言及する。存在の場として想定される宇宙や自然界とは異なる現実的裏付けがない、人間の精神が生み出した架空の想像世界(フィクション)についても実在性があるとする。あるいは心の中に浮かんでくる虚妄も、それがたとえ誤りであったとしても、それが実在しうることをガブリエルは説いている。これら構築主義への批判と表裏をなす人間精神の「意味の場の存在論」について、本書では次のようにある。
「人間が存在するにいたった自然の条件を、進化生物学の観点から説明できることは明らかだろう。われわれには一定の生物学的資質が備わっている。…しかし同時に、もうひとつべつの理解の次元がある。われわれの身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元である。私の立場の背景にある存在論─意味の場の存在論─が登場するのもその次元だ。存在するのはこの宇宙(さらにいえば、自然界)だけではない。宇宙と重なり合うようにして、人間の意味の場がある」(180・181ページ)
かつてマルクス・ガブリエルは、「なぜ世界は存在しないのか」(邦訳は2018年)と問題提起したことがあった。ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」における「世界は存在しない」の本意とは、(a)前述のようにガブリエルの新実在論にての「存在する」ということは人間精神の次元における「意味の場」の現象であるから、「世界」とは実在のすべてを包括する最大の集合を意味するのだとすれば、実在的視点は際限なく増加するため、そのような包括はできないということである。加えて、(b)こうした無限の意味の場をすべて包摂する意味の場の「世界」は、物理的に存在しないという意味での無世界観を唱えているのである。
(a)の内容にての「世界は存在しない」の無世界観は、一見、構築主義の真理相対主義のニヒリズムのように思えるが、人間が作り出す「意味の場」から物事の実在をとらえ直すガブリエルの新実在論は、「われわれの身体が姿を見せる次元、人間という意味の場の次元である。私の立場の背景にある存在論─意味の場の存在論」への志向であり、むしろ、ガブリエルの「世界は存在しない」は真理相対主義のニヒリズムに抗する克服の哲学なのであって、それは「実存は本質に先立つ」の、かつての実存主義を思わせる。ゆえにマルクス・ガブリエルの人間の「意味の場」から世界をとらえ直す哲学的立場は「新実存主義」とされる。
他方(b)の内容にて、人間が作り出す「意味の場」から世界をとらえ直すガブリエルの「新実存主義」の哲学は、人間の精神が生み出した架空の想像世界(フィクション)、さらには心の中に浮かんでくる虚妄も実在するものであるから、ここでは本来的な「世界」が仮にあったとしても、それは無限の意味の場をすべて包摂する意味の場の「無世界」なのである。つまりは、もろもろの客観的実物を存在させておく容(い)れ物や舞台装置のような宇宙や自然界といった次元での「世界」は、もはやない。ここにおいてガブリエルの「世界は存在しない」の無世界観は、「世界」を暗に宇宙や自然界と同一視する自然主義への批判になっており、世界や個物は必ずや実体の本質をその背後に有して実在しているとする本質(実体)主義の克服もなしている。
マルクス・ガブリエルという人は、「なぜ世界は存在しないのか」や「新実存主義」ら著作での哲学的人間考察や新実在論の原理論では、脳科学や遺伝子工学や人工知能(AI)に依拠した科学主義の人間理解に警鐘を鳴らす強硬な科学自然主義批判の非還元主義の立場に立つが、今日の世界状況に対応した時事論では、立憲主義や近代民主制システムらの社会科学も含む、近代の科学主義にかなりの信頼を置く方で、例えばアメリカのトランプ政権下での大衆煽動的な右派ポピュリズム政治や、世界のコロナ禍での似非(えせ)科学の流行を科学主義の観点から強く戒める言説をなす。こうした哲学的原理論と状況的時事論にて、科学主義に対する異なるスタンスを取っていることから、マルクス・ガブリエルの一連の著作に関しては「原理論と時事論」といった異なる次元での複眼的な読みが必要であろう。
「心と脳は同じものなのか。心はすべて物理的な理論で説明がつくのか。心と脳はなぜ『サイクリングと自転車』の関係に似ているのか。『世界はなぜ存在しないのか』で『世界』を論じた気鋭の哲学者がつぎに切り込むのは『心』。脳科学全盛の時代に、実存主義と心の哲学をつなげ、二一世紀のための新たな存在テーゼを提示する」(表紙カバー裏解説)