アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(394)江口圭一「1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか」(その3)

(前回からの続き)1941年12月8日の日本のアメリカ・ハワイへの真珠湾攻撃に始まる日米間での太平洋戦争は、なぜ起こったのか。日米開戦の回避を目指した日本とアメリカとの日米交渉が不和に終わり、太平洋戦争が勃発した主要な理由を以下に挙げてみる。

(4)「日米交渉でのアメリカからの『ハル・ノート』の提示以前に、日本は対米開戦の決意を固め、水面下ですでに戦争準備に入っており、『ハル・ノートはアメリカから日本への最後通告で無理難題の脅迫的要求』と故意に読み込むことで、『日米交渉決裂の原因は日本側にではなく、米国側にある』とするアメリカ責任の強調と、太平洋戦争を回避できない日本宣戦の正当化の口実として日本が『ハル・ノート』を外交政治的に積極利用した」

日米交渉の末日、1941年11月26日に「ハル・ノート」がアメリカから日本へ示された。「ハル・ノート」とは、日米開戦直前まで日米交渉に当たったアメリカ国務長官のコーデル・ハルの覚書とでもいうべき「ノート」である。日本の中国・仏印からの撤兵、汪兆銘政権(日中戦争での近衛声明に応じて樹立した、蒋介石の国民政府と対立した日本の傀儡(かいらい)政権)の否認、三国同盟の廃棄、中国を満州事変以前の状態に戻すことの要求を内容とするものであった。「ハル・ノート」はアメリカからの「対日最後通牒」と当時も現在でも理解され、「日米交渉大詰めの最終場面でアメリカ側から唐突に突如、突き付けられた高圧的で脅迫的な、とても日本側が受け入れることができない無理難題の最後通告」のように思われているけれど、実はそうではない。「ハル・ノート」は日米交渉が開始された際、以後、交渉に当たってアメリカの国際政策原則を「ハル四原則」(1941年4月)として日本に対しかつて提示したのと同様のものだ。その四原則とは以下である。

「(1)すべての国の領土と主権尊重。(2)他国への内政不干渉。(3)通商上の機会均等を含む平等の原則。(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持」

「ハル四原則」の外交上の政治的読み方はこうだ。(1)は、アメリカを始め欧米各国と日本がアジア・太平洋地域の領土分割の実質的な植民地支配に着手し邁進していた当時の国際政治下にて、各地域の利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接的な軍事行動(つまりは事変や戦争)以外での協調外交による侵出外交、いわば「穏健な帝国主義」のルールに基づいた日本を含む欧米各国の「門戸解放・機会均等」の支配行動の確認である。この意味で「すべての国の領土と主権尊重」というのは、アジア・太平洋地域に帝国主義的進出をなす日本を含む欧米各国にとっての「(支配)領土と主権尊重」なのであって、この原則には欧米列強に支配される中国や朝鮮や東南アジア諸国の人々に対しての「領土と主権尊重」の考えは含まれていない。

(2)は、先の(1)の日本を含む欧米各国のアジア・太平洋地域の領土分割の実質的な植民地支配に際し、目に見えた戦禍を伴わない、直接的な軍事行動以外での協調外交による侵出外交、いわば「穏健な帝国主義」のルールから、日中戦争での日本の軍事行動を伴う中国支配を「他国への内政干渉」と非難し、中国に対する日本の軍事政策の放棄(日中戦争の即時終結)を要求するもの。(3)は自由貿易の推進を促すもの。ハルは自由貿易論者であった。(4)も先の(2)と同様、「穏健な帝国主義」ルールから「平和的手段」に依(よ)らない日本の北部仏印進駐(1940年9月)を非難して、仏印に対する日本の軍事政策の放棄(仏印からの日本の撤兵)を要求するもの。ここでいう「太平洋の現状維持」とは仏領インドシナを指す。アメリカによる現時点での北部仏印からの日本の撤兵要求に加え、今後の日本の南部仏印進駐をあらかじめ非難し牽制(けんせい)するものである。

(※特に「ハル四原則」の「(1)すべての国の領土と主権尊重」は、後の「ハル・ノート」での「日本の中国・仏印からの撤兵」と共通する同義のものである。「日本の中国・仏印からの撤兵」を「アメリカによる日本の中国・東南アジアからの完全締め出し」や「日本のアジアでの全利権の放棄の強要」と勘違いする人が現在でも多い。ハル・ノートでの「日本の中国・仏印からの撤兵」というのは、日中戦争や仏印進駐といった日本の直接的な軍事行動による進出だけをアメリカが非難しているのであって、「戦争」や「進駐」による直接的な軍事行動以外での協調外交による侵出外交、いわば「穏健な帝国主義」のルールを遵守した上での日本のアジア進出支配は、アメリカは認めているのである。その証左に日米交渉を通して、アメリカは直接的な軍事行動に依拠していない日本の満州特殊利権の獲得や朝鮮・台湾の統治は、帝国主義的分割支配の正当な分け前として他の欧米各国と同様、日本に対しても認めていた。要は中国と仏印に関し、あからさまな軍事行動を介しての日本の進出を非難する帝国主義的支配に関する、やり方のルールをめぐる日米間での対立摩擦の問題なのである。日米交渉での「ハル四原則」や「ハル・ノート」を通して、アメリカは「日本の中国・東南アジアからの完全締め出し」や「日本のアジアでの全利権の放棄を強要」していたわけではない。この点は今一度確認されたい)

これら日米交渉開始時(1941年4月)にアメリカから日本へ示された「ハル四原則」の4つの原則は、日米交渉終盤(1941年11月)に示された「ハル・ノート」の内容とほぼ変わっていない。すなわち、「ハル・ノート」における日本の中国・仏印からの撤兵と汪兆銘政権の否認は「ハル四原則」の(2)と(4)に、中国を満州事変以前の状態に戻すことの要求は(1)と(3)にそれぞれ対応している。アメリカの日本に対する交渉姿勢や要求内容は、日米交渉開始時の「ハル四原則」から交渉決裂時の「ハル・ノート」まで大きく変わることなく一貫していた。ただ、日米交渉の進行下で、「ハル四原則」の(2)の中国に対する日本の軍事政策の放棄(日中戦争の即時終結)の要求を、日本が最初から無視して日中戦争の対中国戦線で長期化の泥沼に陥って和平の道を模索せず戦争継続し、また同様に「ハル四原則」の(4)の仏印インドシナに対する日本の軍事政策の放棄(仏印からの日本の撤兵)の要求を日本が聞き入れず南部仏印進駐を継続し、さらには米国からの事前の非難と牽制に反して、日米交渉中に日本が南部仏印進駐(1941年7月)まで果たしたため、両国の距離がもはや修復できないほどに開いて遂には交渉決裂に至ったのである。

その際、日米交渉の決裂による日本とアメリカの太平洋戦争開戦の責任は日本の方に重くあった。交渉時の日本には外交文書をまともに読み解ける人物がいなかったのか、戦時の日本は「外交オンチ」であったのか、日米交渉開始時に提示の「ハル四原則」の中の「平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持」に込められたアメリカの真意、米国側から日本へ向けた外交メッセージを何ら理解していなかった。この原則は「太平洋の現状維持」云々とわざとボカして地域名をあえて明記していないけれども、日米交渉の最初に提示された米国側の「ハル四原則」を並みの能力の外交交渉リテラシー(外交文書に関する読解能力!)がある人が読めば、これはアメリカが日本に対し、以前の日本の北部仏印進駐(1940年9月)を問題にし、かつ今後の日本の南部仏印進駐をあらかじめ非難し牽制する趣旨であることはすぐに分かる。直接的に「南部仏印」と文書に書かれていなくても、これまでの日米間のアジア・太平洋地域における外交問題を知る当事国の日本ならば、「平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持」と書かれてあるだけで、これは日本の「平和的手段」に依らない南部仏印進駐をアメリカが日米交渉の場で問題視し、暗に強く日本を非難していることは即座に理解できる。

ところが当時の日本は本当に外交リテラシーがないのか、日米交渉進行下にもかかわらず、北部仏印進駐に引き続き南部仏印進駐(1941年7月)までさらに進めて、「平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持」の米国提示の外交方針を完全無視して見事に日米交渉をぶち壊してしまう(笑)。それで日本にとってのみ誠に都合が良い安易な情勢判断にて、日米交渉にてすでに提示されていた米国側の外交方針の「ハル四原則」の「平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持」を日本が交渉相手のアメリカの原則意向に全くの配慮なく(例えば「北部仏印進駐の日本の兵力削減の代わりに、アメリカに補償を要求する」などの外交カードを切る海千山千な、したたかな交渉など当時の日本には皆無であった)、何の考えもなしに南進政策の断行で傍若無人に南進したので、当然のごとく日本の南部仏印進駐によりアメリカが対日姿勢を硬化させ、日本の南部仏印進駐に対しアメリカは在留日本人の資産凍結(1941年7月)と石油対日輸出禁止(1941年8月)の強硬措置に出た。

当時、日本は石油の75パーセントをアメリカから輸入しており、日中戦争ら各戦線はアメリカの資源に頼って戦争遂行していたため、日本の南部仏印進駐に対抗する、アメリカによる石油供給停止の経済圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。こうして日米交渉下にて「ハル四原則」を読み解くことが出来ない、完全に外交交渉リテラシーを欠いた当時の日本の南部仏印進駐が招いたアメリカからの石油対日輸出禁止を恨(うら)みに思う日本国内世論の高まりもあって、対米開戦の決意も辞さない好戦的雰囲気が、帝国陸軍を中心に日米交渉継続下にもかかわらず、アメリカが戦争を望んだというよりは、むしろ日本の方から激しくなっていったのである。

ところで、日米交渉下での「ハル・ノート」はアメリカからの「対日最後通牒」と当時も現在でも理解され、「日米交渉大詰めの最終場面でアメリカ側から唐突に突如、突き付けられた高圧的で脅迫的な、とても日本側が受け入れることができない無理難題の最後通告」のように思われているけれど、実はそうではない。前述のように「ハル・ノート」は日米交渉開始の段階で早期にアメリカより日本に提示された「ハル四原則」から連続するものであり、ゆえに「日米交渉大詰めの最終場面でアメリカ側から唐突に突如、突き付けられた」ようなものでは決してなかった。アメリカとの交渉にあたり、前から「ハル四原則」に準ずる「ハル・ノート」の内容は日本側には既知であったのだ。またハル・ノートが「対日最後通牒」であり、日本への「最後通告」という理解も歴史的に正しくない。ハル・ノートに関しては「本文書が日米交渉におけるアメリカからの日本への最後通告であり、本文書に基づく協議がまとまらなければ、以後交渉は打ち切り」といった旨の付記や、それに類する米国側からの非公式なアナウンスはなかった。

ならば、なぜ「ハル・ノート」が日米交渉決裂で打ち切りとなる米国からの「最後通告」になってしまったのか。それは日本がそのように見なして、「ハル・ノートは対日最後通牒」に是が非でも強引にしたかったからである。日米交渉の最中の1941年11月5日の時点で早くも日本は内々に日米開戦の決意を固め、日米交渉の実質打ち切りと12月初頭の開戦を決定して水面下で対アメリカ戦の戦争準備を進めていた。この12月初頭の日米開戦の日本側のスケジュールに合わせるために1941年11月26日に日米交渉の席でアメリカから提示された「ハル・ノート」を日米交渉決裂で打ち切りの契機と見なす必要が日本にあったのだ。ゆえに「ハル・ノート」を米国からの「最後通告」と日本が勝手に読み込んだのである。1941年11月26日に出された「ハル・ノート」を「対日最後通牒」にして日米交渉を決裂にしてしまえば、前々より準備していた12月初頭の対アメリカ戦の太平洋戦争開戦の日本側のスケジュールに合う。

ここのところは、よくよく冷静に考えていただきたい。1941年11月26日に日米交渉の場で「ハル・ノート」が米国側から出され、翌27日に大本営政府連絡会議は「ハル・ノート」をアメリカからの「対日最後通牒」と判断し、それから帝国陸海軍による南方のマレー半島上陸ならびにハワイ真珠湾への攻撃による日米開戦が12月8日である。「ハル・ノート」の俗に言う「最期通告」から日米開戦まで10日余りである。事前の綿密な作戦立案と多大な武器・弾薬装備の物資と人員の兵士を要する近代の国家主体の戦争にて、戦争準備にわずか10日足らずで開戦に漕(こ)ぎつけるなど軍事常識的に到底ありえない。これはアメリカからの「ハル・ノート」提示以前に、日本が日米開戦を決意し、事前に周到に対アメリカの開戦準備をしていたのである。事実、1941年10月中旬、開戦強硬派の東条英機が組閣の勅命を受け東条内閣の成立を経て、11月5日の御前会議にてすでに12月初頭の日米開戦の日程は決まっていた。そうして翌11月6日から帝国陸海軍は水面下にて戦闘体制に完全移行している。このことは11月6日に出された陸海軍内での当日の作戦司令書にて確認できる。「ハル・ノート」とは全く関係なく、日本の開戦決断はすでになされており、11月の初めより帝国陸海軍は日米開戦に向けて南方へ物資の移動および兵員の集結を秘密裏に進行させ、1ヶ月間かけて入念に戦争準備に着手していたのであった。

ここで注目しておきたいのは、「ハル・ノートはアメリカから日本への最後通告で無理難題の脅迫的要求」と日本が強引に読み込むことで、「日米交渉決裂の原因は、日本側ではなく、そのような無理難題の最後通告をしてきた米国側にある」とするような、日米交渉の決裂はあたかもアメリカに責任の非がある強調になったこと。また「ハル・ノート」は、日本が単に言い張っているだけで本当は日米交渉の決裂をもたらす「最後通告」ではないのだが、「ハル・ノートのような無理難題の脅迫的要求の最後通告をアメリカがしたせいで、日本は本当は日米間の戦争を望んではいなかったのに、やむにやまれす仕方なく対米開戦の決断を余儀なくされた。元から日本に戦争を仕掛けたいアメリカの戦争挑発の罠に日本は見事にはめられた」旨の、太平洋戦争を回避できなかった日本宣戦の正当化の口実として日本人が「ハル・ノート」を開戦前夜の当時から戦後の現在に至るまで、いつの時代でも一貫して外交政治的に積極利用してきたということだ。

最後に、日米交渉下にて日本がいつ対米開戦を決定したのか、1941年12月8日の日本によるアメリカ・ハワイへの真珠湾攻撃にて太平洋戦争開戦に至るまでの直近の日程を今一度書き出してみると、

1941年10月18日・東条英機が内閣総理大臣となり、東条内閣を組閣
1941年11月5日・御前会議にて日米交渉の打ち切りと、12月初頭の対米開戦の決定(※翌6日から帝国陸海軍は日米開戦準備のため戦闘態勢に完全移行)
1941年11月26日・ハル国務長官が「ハル・ノート」を提示
1941年11月27日・大本営政府連絡会議は「ハル・ノート」を「対日最後通牒」と結論。ここで日米交渉は決裂
1941年12月1日・御前会議にて12月8日の対米開戦を決定
1941年12月8日・帝国海軍によるハワイ真珠湾攻撃、ならびに帝国陸軍のマレー半島上陸により対米戦の開戦

対米強硬派で開戦論者の東条英機が首相になり、1941年10月18日に東条内閣を組閣。この東条内閣の成立を経て、1941年11月5日の御前会議(天皇親臨の下で重要な国策を決める最高会議)にて日米交渉の打ち切りと12月初頭の開戦が重要国策として決定された。翌11月6日より、帝国陸海軍は日米開戦準備のために水面下にて戦闘態勢に完全移行する。その後、11月26日の日米交渉での「ハル・ノート」のアメリカからの提示を受けて、翌27日に日本の大本営政府連絡会議は「ハル・ノート」を「対日最後通牒」と結論。この時点で日米交渉は決裂し、交渉は打ち切り。続く12月1日の御前会議で12月8日の対米開戦を決定。そうして遂に1941年12月8日の帝国海軍によるハワイ真珠湾攻撃、ならびに帝国陸軍のマレー半島上陸により対米戦の開戦となった。かくして日本は三年九ヶ月に及ぶアメリカとの太平洋戦争に突入していったのである。