アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(399)藤間生大「倭の五王」

「倭の五王」は、中国南朝の宋の正史「宋書」に登場する倭国の五人の倭王、讃・珍・済・興・武をいう。421年から502年の間に五人の倭王が宋ら南朝と13回通交した記事が「宋書」などにある。この間、およそ1世紀近くに渡り、晋、宋、斉の諸帝国に遣使入貢し、また梁からも官職を授与された。珍は438年に「安東将軍」、武には478年に「安東大将軍」の称号が授与され百済を除く新羅、加羅らの軍事的支配が宋帝より承認された。

中国六朝(南朝六代とは呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史「宋書」(513年頃に完成)には、宋代(420─479年)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く斉の正史「南斉書」(537年)、梁の正史「梁書」(619年)、南朝四代(宋、斉、梁、陳)の正史「南史」(659年)においても宋代の倭王の遣使について触れられている。そうして478年の遣宋使を最後として倭王は宋代を通じて1世紀近く続けた遣使を打ち切っている。

倭の五王の遣宋の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に中国皇帝の威光を借りることで当時の倭(ヤマト政権)に従わない国内の諸豪族を抑え、ヤマト政権の国内支配を安定させる意図があったと推測される。倭王の国内支配がすでに万全であったため、倭国を代表してさらに国外の中国皇帝に積極的に遣使入貢したという見方と、倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して磐石ではなく、中国からの承認の後ろ楯を必要とするような、まだ脆弱であったと見る向きもある。また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における倭国の権益に関し国際的承認を得ることも、倭の五王による遣宋の重要な目的であった。

倭の五王の時代には日本にはまだ歴史書の文献史料が存在しない。そのため当時の状況を知るには同時代の中国の歴史書(「宋書」「晋書」など)と、後に編纂(へんさん)された日本の歴史書「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)を参照するしかない。だが「古事記」「日本書紀」は後の時代に天皇中心の律令国家の正統性を誇示するためにまとめられた歴史書であるから、いわば「記紀神話」として、特に天皇の出自・系統や治世の記述に対して、そのまま字句通りには読まず必ず批判的・内在的に史料批判の手続きを介して読まなければならない。

この点に留意して当時の中国の「宋書」「晋書」と、後の日本の「古事記」「日本書紀」とを重ね合わせて読むと、倭の五王はそれぞれ一体誰なのか、歴代天皇の誰に該当するか比定できる。一般に讃は応神か仁徳天皇、珍は反正か仁徳天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とされている。ただし、これには諸説ある。倭の五王の諸天皇への比定は、系図の続柄(父子・兄弟関係)や治世の時期や人物名の音韻変化・漢字表記のつながりなどから、各論者により昔からやられている。私は古代史の専門家でもない全くの素人だが、そうした私の素人目からしても「倭の五王と歴代天皇の該当」の議論は、どこまでも類推に過ぎないのであって、誰も決定的史料や絶対的な答えがないなかでの古代史研究者による暗中模索の状態であるため、「倭の五王が、それぞれどの天皇に該当するかについては誰でもいくらでも何でも自由に言える」の感慨を正直、持つ。倭の五王と歴代天皇の該当に関し各説あって、どんなによく説明されていたとしても必ずしもそれが決定打にはならないのである。ただし、この問題では「倭の五王は日本の歴代天皇に該当するのがほぼ確実なこと」が重要だ。「倭の五王がどの天皇であるのか」は、あくまで小さい各論でしかない。「倭の五王は歴代天皇の誰に当たるか」の細部にのみ拘泥(こうでい)してはいけない。

例えば、1968年に発掘された稲荷山古墳出土鉄剣には金象嵌(きんぞうがん)で115文字の銘文が刻まれており、「乎獲居臣(オワケノオミ)」なる人物が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に仕えたことが記されている。この「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が、後の日本の史書である「日本書紀」を参照すると「大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)」、すなわち21代の雄略天皇と「ワカタケル」で見事に読みが一致する。さらに稲荷山古墳出土鉄剣にある「辛亥年」は471年と読めるので、これを「宋書」倭国伝の記述に重ねて読むと、471年は倭の五王のうちの武の治世に当たり、かつ「日本書紀」の雄略天皇記述の「大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)」は、「宋書」記述の倭王の「武」と同じ「武」の漢字表記で一致するのであった。つまりは、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文と後の「日本書紀」の国内の国書と同時代の中国の「宋書」倭国伝の三つの史料を連動させると、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王=雄略天皇=倭の五王・武」となる。

とすれば、ヤマト政権の長と目される雄略天皇(ワカタケル大王、倭王武)は、雄略以前の天皇たる仁徳天皇陵とされる、国内最大規模の大仙陵古墳が所在の近畿地方を(おそらくは)拠点に、東は最低でも稲荷山古墳があった埼玉の関東地域まで、西は、雄略の倭の五王以前のヤマト政権の時代より倭国は何度も朝鮮出兵を果たしているのであるから、朝鮮半島に至るまでの出雲や九州北部を含む西日本一帯を広範囲に国内支配していたことになる。すなわち、中国に何度も遣使した倭の五王の時代には、大王(天皇)を中心とするヤマト政権の一元的支配が広く日本国内に成立しており、統一政権の存在を早くもこの倭の五王の5世紀に見ることができる。何となれば、421年から502年までの約80年間に渡って父子ないしは兄弟の続柄にある一族の長が連続して遣使を中国に出せたこと自体が、天皇を中心とするヤマト政権の数世代の長期に渡る一元的支配の安定的政権が当時国内に成立していたことの証左であるからだ。そしてそのことは、たまたま九州や出雲にあった地方の中小王権が地理的に中国大陸に近接していたため頻繁に宋に遣使をなし彼らが「倭の五王」であったのではないということであって、これは5世紀当時の日本国内にて、後の天皇家の系統である近畿のヤマト王朝以外にも九州王朝や出雲王朝らヤマト政権と拮抗する同規模の複数の王朝が日本列島各地に併存していたとする、いわゆる「多元的古代史観」をそれなりに否定できる判断材料にもなる。

ところで、倭の五王の前後を含めたより広い射程から不確かな伝承・神話は除いて、記述が比較的正確で信用できる同時代の中国の歴史書と後に発掘された考古学的遺物・遺跡に頼って日本古代史における確実な歴史的事実だけ主に拾って概観すると、

239年・邪馬台国の卑弥呼が使者を魏に派使。冊封を受け(服属して朝貢すること)、「親魏倭王」の金印紫綬を賜る。(※中国の史書「魏志」倭人伝にある記述)☆391年・倭人が海を渡って朝鮮出兵を果たし、百済・新羅を破り服従させる。(※高句麗好太王碑文にある記録)☆5世紀初頭から前期・大阪平野や奈良盆地の近畿の地域に、大王を中心とする諸豪族の連合政権である強大なヤマト政権が存在。(※大仙陵古墳(仁徳天皇陵とされる)や誉田御廟(こんだびょうやま)古墳(応神天皇陵とされる)ら、巨大古墳の考古学的発掘・調査によるもの)☆421─502年・五人の倭王が宋ら南朝に13回に渡り遣使入貢。倭王武に「安東大将軍」の称号を授与(478年)。(※中国の史書「宋書」倭国伝にある記述)

となる。そしてこの後は、後に編纂の「日本書紀」の記述であるため実際にあった史実かどうか真偽の程は不明だが、527年・磐井の乱(筑紫(福岡)の国造・磐井が新羅と結んで反乱。これを物部麁鹿火(あらかび)が鎮圧して、ヤマト政権の西日本支配と外交の一元化が完成したとされる)などがあった。

このように古代史を概観した場合、古代日本の支配者が「倭王─大王─天皇」と三段階に推移しており、このなかで5世紀の倭の五王は「大王」であり、前の3世紀までの奴国や邪馬台国の卑弥呼らの「倭王」とも、後の6世紀の継体天皇らの「天皇」とも呼称が異なるのは注目に値する。この三つの呼称の相違は、それぞれの支配者の出自・系統や統治の規模・形態の違いに由来するものと考えられるからである。奴国や邪馬台国の3世紀までの「倭王」と、後の倭の五王の時代の5世紀の「大王」との間での出自・系統の断絶の有無については、例えば「騎馬民族征服王朝説」の学説の妥当性を検討しなければならないであろうし、また倭の五王の時代の5世紀の「大王」と、後のヤマト政権の6世紀以降の「天皇」との間での支配組織の変化を知るには、日本史研究だけでなく世界史研究にも共通する、古代史における「英雄時代論」の歴史概念を用いるのが有効だと思われる。「騎馬民族征服王朝説」と「英雄時代論」についての内容を詳述すると長くなるので、ここでは述べないけれど。

岩波新書の青、藤間生大「倭の五王」(1968年)は、同じく岩波新書の藤間生大「埋もれた金印・女王卑弥呼と日本の黎明 」(1950年) と二冊で連続の本格的な日本古代史に関する新書となっている。藤間「埋もれた金印」は奴国や邪馬台国ら主に3世紀までの、「倭の五王」が続く後の5世紀の日本古代史に関しての内容である。倭の五王については、近年では河内春人「倭の五王・王位継承と五世紀の東アジア」(2018年)の方がよく読まれているようであるが、藤間生大「倭の五王」も古い書籍ながら今読み返してみても、日本古代史研究のなかなかの力作の良著だと私には思える。

「中国の『宋書』に記された倭の五王とは誰を指すのか。この数百年来の謎は、著者が駆使した方法と資料によって、初めて解かれ、五王が正確に各『天皇』と比定された。そして、これらの王とその歴史的環境を具体的に究明し、世界最大の墳墓『仁徳陵』を生んだ五世紀代日本の人間と社会構造を明らかにして、新しい古代史像を提供する」(表紙カバー裏解説)