アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(401)細⾕博「太宰治」(その2)

「太宰治全集」にて私には⼀時期、太宰と⻑兄で家⻑たる兄・⽂治とのやりとりがある作品箇所だけ、わざと選んで読み返す楽しみの趣向があった。太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。

「⽗がなくなったときは、⻑兄は⼤学を出たばかりの⼆⼗五歳、次兄は⼆⼗三歳、三男は⼆⼗歳、私が⼗四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして⼤⼈びていましたので、私は、⽗に死なれても、少しも⼼細く感じませんでした。⻑兄を、⽗と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯⽗さんの様に思い、⽢えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘(わがまま)いっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました」(「兄たち」1940年)

太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⾦⽊町⻑、県会議員、⻘森県知事、地元選出の国会議員を歴任し、⽗と同様に⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄・⽂治は本当は⻑男ではないのに、⼈には⽣まれながらの資質とともに当⼈が置かれた環境ならびに知らぬ間に背負わされた周囲からの期待と責務に応(こた)えるべく、⼈は⾃然とそのように成⻑していくものである。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

「私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう。その遺産と、亡⽗の政治上の諸勢⼒とを守るのに、眼に⾒えぬ努⼒をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯⽗さんというような⼈も無かったし、すべては、⼆⼗五歳の⻑兄と、⼆⼗三歳の次兄と、⼒を合せてやって⾏くより他に仕⽅がなかったのでした。⻑兄は、⼆⼗五歳で町⻑さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三⼗⼀歳で、県会議員になりました。全国で⼀ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛公とされて、漫画なども出てたいへん⼈気がありました。⻑兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。⻑兄の望みは、そんなところに無かったのです。⻑兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから⽇本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。⻑兄⾃⾝も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを⼀室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の⻑兄の顔は、しんから嬉しそうに⾒えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、⻑兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました」(「兄たち」)

⻑兄・⽂治とは違い、弟の太宰は⽂学者に憧れ作家を⽬指し上京して、⼩説家として⽣活できるまで⻘森の実家からの仕送りや津島家の財産分与を常にアテにしていた。また⾃⾝の薬物中毒や結婚や⼼中と⾃殺未遂の後始末にその都度、⻘森の実家は奔⾛した。⻑兄の⽂治が弟・修治の⽗親代わりであったのだ。左翼の⾮合法運動に⾜を突っ込んで学校を退学されそうになると退学処分回避のために実家の兄が裏から学校に⼿をまわす。薬物中毒になり、いよいよ⼿がつけられなくなると実家の兄が精神病院への⼊院を⼿配する。⼥性と⼼中の⾃殺未遂をやり太宰は助かり、しかし相⼿の⼥性は亡くなって修治が⾃殺幇助の罪に問われそうになると実家の兄が官権の警察と⼥性の遺族とに裏から⼿をまわして、またもや太宰の⾃殺幇助罪の起訴猶予に尽⼒する。太宰治は⽗親代わりの実家の兄・⽂治にさんざん迷惑をかけている。太宰は⻑兄に頭が上がらないのである。

そんな弟・修治と⻑兄・⽂治とのやりとりを描いた太宰治の短編に「鉄⾯⽪(てつめんぴ)」(1943年)という作品がある。「鉄⾯⽪」とは「恥知らずで厚かましい」という意味だ。太宰は兄の前では「鉄⾯⽪」である。⾃分からそう申告している。「この作品に題して⽈(いわ)く『鉄⾯⽪』。どうせ私は、つらの⽪が厚いよ」の太宰のボヤキである。以下、恥知らずで厚かましい「鉄⾯⽪」たる太宰と⻑兄・⽂治とのやりとり。

「⼩説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の⽼⺟が死んだので、私は⼗年振りに帰郷して、その時、故郷の⻑兄に、死ぬまで駄⽬だと思え、と⼤声叱咤(しった)されて、⼀つ、ものを覚えた次第であるが、『兄さん、』と私はいやになれなれしく、『僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経(た)ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯(しゅこう)させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。』兄は眼を丸くして、『お前は、よその⼈にもそんなばかな事を⾔っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。五年?⼗年?俺にうむと⾔わせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ。』『だって、』何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、⼀向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、蹴(け)られた⾜にまたも縋(すが)りつく婦⼥⼦の如く、『それでは希望が無くなりますもの。』男だか⼥だか、わかりやしない。『いったい私は、どうしたらいいのかなあ。』いつか⽔上(みなかみ)温泉で⽥舎まわりの宝船団とかいう⼀座の芝居を⾒たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狭い⾊男が、舞台の端にうなだれて⽴って、いったい私は、どうしたらいいのかなあ、と⾔った。それは『⾎染(ちぞめ)の名⽉』というひどく無理な題⽬の芝居であった。 兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」(「鉄⾯⽪」)

これはヒドい(笑)。まさに「売り⾔葉に買い⾔葉」である。そして最後は兄からの痛烈な罵倒の連続だ。「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという⾺⿅な事を考えているんだ。死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ」など、もう破れかぶれである(笑)。そうして「兄も呆れて、うんざりして来たらしく、『それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。』と⾔って座を⽴ってしまった」とまである。⻘森の実家に⺟の葬儀で帰郷の折りに実際に太宰と⻑兄との間で、こうした応答が本当にあったかどうかは問題ではない。たとえ、それが誇張の創作であっても構わない。ただ太宰が⻑兄との、こうした会話のやりとりを作品に書いて世間に公表することが重要なのであって、「鉄⾯⽪」という作品を介して、そこに込められた太宰治から⻑兄・⽂治への伝⾔たる裏メッセージが明らかにあるのだ。

太宰治、この男は実⽣活に無能で恐ろしく破綻しているが、しかし⼩説を書くのが案外、上⼿い。なかなか達者な⼩説を書く誠に⽴派な⽇本近代⽂学の⽂学者である。ただし、太宰は⻑編⼩説と完全虚構のフィクションが書けない作家であった。これを疑う⼈は「太宰治全集」を無⼼に読んでみたまえ。収録作品はほとんどが短編、⻑くてもせいぜい中編⽌まりの枚数しか、この男は書けない。確かに⻑編も希(まれ)にあるが、だいたい失敗している。太宰治は⻑いものが書けない。しかも完全フィクションの虚構も書けないから作品の内容は古典⽂学の本歌取(ほんかどり)やパロディ、他⼈の⼿紙や⽇記や⼿記を元にしたもの、そして⼩説の素材がなく、いよいよ困った時は⾃⾝の家庭の⽇常や来客交友のエピソード、⾃分の過去の思い出話、時に恥ずかしい「恥の思い出」も⾃虐の覚悟で蔵出しする。まさに⽂字通り「⾃分の⾝を削って作品をひねり出す」⽂学者の鏡のような(?)、「⽂学⾺⿅⼀代」とでも称すべき、⾃分を削ってのたうち回りながら泥⽔をすすって⽂学創作を続けた満⾝創痍(まんしんそうい)な「傷だらけの天使」ならぬ「傷だらけの太宰治」である。

フィクションの完全創作が出来ないから結局のところ、そのように題材に⾏き詰まれば⾃⾝のことや近親の家族や親族や友⼈達のことを⼩説に書くしかなく、作品創作に⾃⾝の⾝も⼼も、最期は結果的に⾃分の命さえも捧げてしまった太宰治であったが、他⽅でこの男はギリギリの所で⾃⾝の⾯⼦(めんつ)や世間体のイメージを相当に気にする所もあった。例えば「⾃分の恥の⼈⽣遍歴」を題材に作品を書く⾃伝的作品の場合であっても、最後には「⾃⾝を救う」イメージ回復の余地を巧妙に残すような「最後の最後に⾃分を守る」、そうした技術(テクニック)も太宰治には⼩説家の⼒量として確かにあった。「⼈間失格」などと⾔いながらも最後は⾃分があまりにも救いきれないほど憐(あわ)れで、みじめにならないよう毎度、⼿加減して乗りきり終わらせるテクニックは持ち合わせていた。太宰治の全作品を連続して読んでいると、そうしたフシは⼀貫して感じられる。

しかしながら「鉄⾯⽪」の作品だけは違った。これは別格である。「いつもの太宰治とは明らかに違う」と(少なくとも私には)思えた。⾃⾝の⾯⼦もプライドも捨てて全⼒で「相当に⾃虐的」とも思えるほど、あからさまに書いている。「最後には『⾃⾝を救う』イメージ回復の余地を巧妙に残すような『最後の最後に⾃分を守る』そうしたテクニック」、いつものあれが、この「鉄⾯⽪」にはないのである。何しろ太宰治「鉄⾯⽪」は、「よしてくれよ。いい恥さらしだ。⼀⽣お前は駄⽬なんだ。どうしたって駄⽬なんだ。…やめろ、やめろ、…死ぬまで駄⽬さ。きまっているんだ。…何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り」などと実の兄から直に⾔われた「⾃⾝の恥」を何ら隠すことなく臆することなしに恥ずかしげもなく全⼒で披露し書き抜く⼩説だから(笑)。

「鉄⾯⽪」は太宰治の秀作「右⼤⾂実朝」(1943年)の執筆時に同時に書かれた。「右⼤⾂実朝」は、太宰が「来年は私も三⼗五歳ですから、⼀つ、中期の佳作をのこしたいと思います」と意気込んで相当に⼒を⼊れて書いた渾⾝(こんしん)の⼊魂の作である。この時期の太宰治は「実朝をわすれず」と⽇常でも絶えず呟(つぶや)いていたに違いない。それほどの献⾝の作であった、太宰にとって「右⼤⾂実朝」は。事実、太宰の「右⼤⾂実朝」を読むと⾮常に優れている。⼤変によく出来ている。太宰治の全⽣涯の書き仕事の中で確実に五本の指に⼊ると私は思う、太宰治「右⼤⾂実朝」は。

太宰は近⽇中に発表の次作「右⼤⾂実朝」に相当な⾃信があったに違いない。そう、まさに今までさんざん迷惑をかけてきた、内⼼では愛想を尽かされ⾒捨てられそうになりながらも⻘森の実家からの援助や救援でいつも奔⾛尽⼒してくれた⻑兄・⽂治に対して「兄さん、僕はいまは、まるで、てんで駄⽬だけれども、でも、もう五年、いや⼗年かな、⼗年くらい経ったら何か⼀つ兄さんに、うむと⾸肯させるくらいのものが書けるような気がする、否(いな)、そうした作品が今書けた。それが今般の『右⼤⾂実朝』だ」というような太宰の⼼持ちである。「右⼤⾂実朝」のイントロとなる作品「鉄⾯⽪」を介しての太宰から兄への伝⾔の裏メッセージである。太宰治は渾⾝の⾃信作であった「右⼤⾂実朝」を誰よりも⻘森の実家の⻑兄に、まずは読んでもらいたかったに相違ない。そして誰よりも⾃⾝の⽗親代わりであった兄・⽂治に⾸肯し認めてもらいたかったはずだ。