アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(402)細⾕博「太宰治」(その3)

太宰治の本名は津島修治である。太宰は⻘森県北津軽郡⾦⽊村の出⾝である。太宰の⽣家は県下有数の⼤地主であった。津島家は「⾦⽊の殿様」と呼ばれていた。⽗は県議会議員も務めた地元の名⼠であり、多額の納税により貴族議員にもなった。津島家は七男四⼥で、太宰の上には⻑兄と次兄と三兄の三⼈の兄がいた。

太宰の⽗は、彼が学⽣の時に早くに亡くなっている。太宰治は七⼈いる男兄弟の六男である。太宰の上には本当は五⼈の兄がいた。だが⻑男と次男が早世したため、三男の兄・⽂治が実質上の⻑兄となり、津島家の家督を継いで家⻑となった。⽗と同様、⻑兄も地元の名⼠であった。⻑兄は家⻑として津島家を継いで⽴派に切り盛りした。太宰の上の三兄と下の弟は若くして病死しており、残された男兄弟は⻑兄と次兄と太宰の三⼈のみであった。太宰は家⻑である⻑兄を特に頼りにしていた。

太宰治が⽣前、誰よりも畏(おそ)れていた⻑兄・津島⽂治が弟・太宰治への⼼情を⽣涯に⼀度だけ告⽩した。津島⽂治は元⻘森県知事、元参議院議員(⾃⺠党)。昭和48年、参議院議員当時の談話である。

「太宰が死んでから、もう25年にもなりますか。これまでは随分と多くの⼈から太宰についての取材の申し込みがありましたが、全てお断りし、ノーコメントで終始させていただきました。実際、彼について話をするのが嫌だったのです。ほんとうに世間に多⼤のご迷惑をお掛けして申し訳ない、というのが私の偽らざる気持ちであり、とにかく、ああいう⼤将が⼀家から出てしまいますと⼀族の者は弱ってしまいます。仮に今、私が『おれの弟は⼤⽂学者で』などということを語りますと、さらに世間に迷惑を及ぼすことになると思うのです。かといって『おれの弟はとんでもない⼤バカ者で』と⾔ったところではじまりません。私が覚えていることをポツポツお話いたします」

「私⾃⾝は弟・修治の⼩説は、ほとんど読んでいません。読んだのは『津軽』と『右⼤⾂実朝』くらいです。いくら何でも『右⼤⾂実朝』には家のことや私のことは出てこないだろう、と思って読んでおりましたら、やっぱり出てきて閉⼝した記憶があります。私には修治のものを読んで家のことに触れた箇所が来ると、『あーまたここで弟にやられてしまった』などと思っていたものです。私個⼈といたしましては、⽇本の⼩説家で⼀番好きなのは⾕崎潤⼀郎さんで、とくにあの⽅の随筆は⽇本⼀では、と思っています。もちろん⼩説も繰り返し読みました。こう申し上げると⼈さまは、『⾃分の末弟を不良といったり、その作品を不良の⽂学というなら、⾕崎だって不良じゃないか』と、あるいはおっしゃられるかもしれません。しかし、実際に⾃分の⾝内から不良が出たとなると、⾃ずから話はちがってきますよ」

「とは申せ、修治とて何も最初から不良であったわけではありません。正直、私の五⼈の兄弟の中で、修治は学業は⼀番優秀でした。ですから親にしてみれば憎かろうはずはなく、とくに⽗の源右衛⾨は『修治、修治』といって、かわいがっていました。修治は⼩学校は無⽋席、成績優秀でとおし、⻘森中学でも成績はよく、弘前⾼校に⼊ったのですが、そこで何やら不良性が芽⽣えたようで、左翼運動にはしったり、『桃⾊』に狂ったりしたのです。でも⼤学に⼊るまでは体は丈夫で健康でした。それが⼤学に進んで、おおいに本格的な不良性を発揮し、胸の病気や、俗にいうところの『親不孝病』になったわけです」

「⾃分の⽣家のことを、ことさら⼤げさに⾔うつもりはないのですが、あの地⽅ではかなり名の知れた私の家から⼩説家というか、⼩説家という冠(かんむり)をいただいた極道者が出てしまったことは本当につらいことです。申し上げておきますが、私は何も⼩説家そのものや⽂芸⾃体が悪いなどというのではないのです。これでも当時の家⻑としては、かなり理解を持っていたと思います。しかし修治という男は、その理解をはるかに超えたところで⾏動してしまい、事件を起こし続けたのです。⾼等学校時代の修治は、幼い左翼思想に⼈並みにかぶれ、茶屋酒の味を覚え、戯作の世界にのめりこんでいったとはいえ、とにかく卒業はしてくれました。私は不明のいたすところで、そんな修治でも東京に出たら⾃分を修正し、真⾯⽬に⽂学なら勉強をしてくれると考えていました。結果は、もう皆さんのご存知のとおりの体たらくで、まことに若い家⻑の⼿に余る存在でした」

「左翼運動といい、初代のことといい、鎌倉の情死騒ぎといい、⼼配をかけっぱなしだった太宰でしたが、なんといっても驚いたのは⿇薬常習のときでした。誰からか修治が⿇薬中毒になっていると聞いたのかどうかは忘れましたが、仰天しました。あのときは、私は修治の⼊院の際に初めて脳病院というところに⾏って、その悲惨な患者の状態を⾒て、これは⼤変なことになったと慌てました。えーと、なんというか…看護⼈ですね、暴れる患者を取り押さえる⼈たちに修治を引き渡してきた⽇のことは忘れられない印象として残っています。以後も、まだまだいろいろな事件が修治に付随して起こり、その都度、周囲の⽅々に多⼤の迷惑をかけてまいりましたが、私はいつしか『修治は結局、畳の上では往⽣しない』と思い込むようになりました」

「太宰は私には⼿紙も⾃分の本も送っては寄こさないのですが、姉の『きょう』には、よく便りを送ったそうです。きょうと中畑君と私の三⼈が集まっては彼の⼿紙を読んで笑いあったものです。というのは、太宰の⼿紙というのは、『反省している』とか『⽴派にやっている』とか、まるで聖⼈君⼦にでもなったような⽂句が多いのです。ですから『修ちゃんの⼿紙は⼿紙じゃなくて⼩説だ』といって笑いました」

「きょうが嫁に⾏った先は私の家と四、五軒ほどしか離れていませんでした。修治はよくここへ遊びにいったそうですよ。私の家で⼀杯ひっかけていい気分になって出かけて⾏き、笑いながら話してくるらしいのです。きょうの話によればですねえ、ご機嫌になった修治は『紙ないかな』と⾔って、何か書くものを借りて字を書くらしいのです。そして『あと⼆⼗年もたてば⼤変な値打ちが出るから⼤事にしまっておけ』なんてホラを吹くそうです。彼⼥は、『今⽇は修ちゃんが来て、えらくホラを吹いて帰っていった。でも上機嫌でした』なんてよく話していましたね。よく⼈から、太宰の関係したもので何か残っていないか?と訊ねられますが、そのようにして書き散らしたものなら、まだ出てくるかもしれません」

「修治の疎開中のことで印象に残っているのは、よく印刷物がきていたことかな。なんといいますか、ファンの⽅からとか、雑誌社とか出版社からの連絡とか、まあ、毎⽇、驚くほど舞い込んでいました。『修治のやつ、えらくもてるんだな』と思っていましたよ。それともう⼀つ、若い頃はめったに⼈前で本を読まなかった修治が⾷事の前などに、⼀⼼不乱に、それもものすごい勢いで読書していましたな。必ず読んでいましたよ。私達が本を読む速度なんか⽐較にならないのではないでしょうかね。私が早稲⽥に⾏っている頃、兄弟中で⼀番読書好きだった修治に本を送ってやった記憶がありますな。修治からも、いつだったか、私宛に佐藤春夫先⽣の本を送ってくれたことがあったけねえ」

「太宰が死んでから⼆⼗五年間、私は沈黙してきました。桜桃忌も⾏かなければ記念碑も⾒に⾏っていません。墓にも⾏ってないです。太宰について⼈さまになにか申し上げるのが本当にイヤでした。そういう私が今になって弟は偉い奴だったというのも変だし、バカな奴だったといってもお答えにはならんでしょう。修治が⽟川上⽔に⼊⽔して⾏⽅不明になったと聞いた時、私はかねて覚悟していた『畳以外での往⽣』にいよいよなるんだな、とこう申し上げるのもなんですが、感慨ひとしおであったと告⽩しなければなりません」

「⾊々お話はしましたが、太宰の⼩説はやはり⾁親が読んで楽しいものでは決してないと思います。話を終わらせていただくにあたりまして、あらためて修治が世間さまに与えたご迷惑を深くお詫び申し上げます。また尊い命を失われた⽅のご冥福を⼼よりお祈り申し上げます。また修治が⽣前、お世話にな った幾多の⽅々へ、厚く御礼を申しあげたいと存じます」