アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(408)齋藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」

(今回は、ちくま新書、齋藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、齋藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」は岩波新書ではありません。)

明治大学文学部教授(教育学)の齋藤孝その人に対し、私は昔から一貫して否定的である。氏は異常に多くの自己啓発本を連続の量産で大量に出している。私は人並みか、ややそれ以上に齋藤孝の著作は読んでいるけれど、この人は書籍を出し過ぎである。どの本もだいたい以前に読んだことがあるような齋藤孝の自己啓発ネタの使いまわしである(苦笑)。「そこまでして重複内容の書籍を連続で大量に出版する必要や意味があるのか、齋藤先生!?」の率直な思いがする。

明治大学文学部教授で教育学専攻の齋藤孝の問題として以下の2点を即座に指摘しうる。

(1)氏の教育論がかなり俗っぽい自己啓発系の学習技術教授に異常に偏(かたよ)っているため、「どれだけ上手に出来るか」(方法知への矮小化)、「その教育教授により当人にどのようなメリットがあるか」(見返りや成果ばかりを求める教育)に終始し、成果主義や能力主義を越えた教育を展望できない。本来、教育には、結果としての成果・能力の獲得以前に、学ぶ過程で本人が感得し成長する契機を多分に含むものなのに、成果主義や能力主義そのものを越えた教育や、成果・能力獲得以外の所での教育における内的過程を志向展望できない。

特に個人が身につけ発揮できる能力で人を判断し、能力が劣る人間を不当に低く軽く見積もったり人格否定したりする、能力により人間を選別し差別する昨今の日本社会に蔓延(まんえん)する能力信仰や能力(万能)主義のそれを原理的に問題にし得ない。事実、あれだけ大量の著書を出していながら、現代の日本社会での能力信仰や能力主義の弊害の教育時事に触れる記述が齋藤孝の著作では、ほとんど見られないのである。

(2)成果・能力主義をウリにする齋藤孝の教育論は、その成果・能力の獲得が看板の「商品」になるため、商業主義の、いわゆる「教育の商品化」に安易に堕してしまう。事実、あれほどの自己啓発本を連続の量産で大量に出している齋藤孝は(当の齋藤本人は気付いていないかもしれないが)異常である。その内容も、自己啓発ネタの使いまわしで以前の齋藤の著書との重複は実に多い。にもかかわらず、大量に本を出し続けるのは、齋藤孝において成果・能力獲得が看板の能力(万能)主義に基づく氏の自己啓発本が、そのまま「教育の商品化」(より露骨に言って「正当な」教育本提供を介した金儲け)に直結しているからに他ならない。

今さら改めて言うまでもないが、教育を商品にして露骨に金儲けをしてはいけない。金銭を出して教育商品を購入できる富者の子弟だけが良質な教育を享受でき、他方、貧困にあえぐ家庭の子どもが適切な教育にコミットできない「教育の商品化」の格差状況は明らかにおかしいのである。教育は経済活動の資本の論理に安易に回収されない、人間の権利としてあり、当人の経済事情による貧富のあり様や所得階層に関係なく、どんな人にも皆に平等に良質な教育は提供されなければならないからだ。

齋藤孝の著作を連続して読んでいると気付くのだが、この人は現行の小中の公教育に対し、「教科知識の他律的な詰め込み教授ばかりで、どのようにすれば子どもが自律的に学んで自学できるようになるか、学びの技術やコツを学校では全く教えないではないか」の不満の怒りが一貫してあって、「だからこそ私がその学びの極意を執筆し書籍にして世に出すのだ」の強い思いが(おそらく)ある。そのため、その変な使命感で頭がいっぱいで視野狭窄(しやきょうさく)になり、教育学者であるにもかかわらず、結局のところ「能力信仰」や「教育の商品化」の今日の教育時事の問題を自分の事に引き付けて考えられないのだと思う。

さて、齋藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」(2001年)である。おそらく本書を購入して読む人は、「『できる人』はどこがちがうのか」を本書で知ることを通して、「どうしたら自分は『できる人』になれるのか」の下心をもって臨むであろうし、本書を企画販売の出版社の編集者は、そのように「自分は『できる人』になりたい」と潜在的に願っている読者に広範にアピールして本書は大ヒットで売れると一発当て込んでいるだろうし、本書を書いた齋藤孝も同様に、「自分は『できる人』になりたい」と常日頃から願っている人々に訴求して本書は広く読まれるであろう、あらかじめの計算で執筆し「『できる人』はどこがちがうのか」の書籍タイトルにしているに違いない。書籍を読む人と売る人と書く人の三者の皆が、「是非とも自分は『できる人』になりたい」の案外、下世話な思いで一致し共犯しているところに端から見て正直、私は苦笑したりもする。自分が実際に「できる人」になったり、他人から「あの人はできる人だ」と一目置かれたりするようになるのは、なかなか大変である。

ここで本書の目次を見よう。齋藤孝「『できる人』はどこがちがうのか」は全6章よりなる。

「第一章・子どもに伝える〈三つの力〉、第二章・スポーツが脳をきたえる、第三章・あこがれにあこがれる、第四章・『徒然草』は上達論の基本書である、第五章・身体感覚を〈技化〉する、第六章・村上春樹のスタイルづくり」

齋藤孝がいう「第一章・子どもに伝える〈三つの力〉」とは、「生きる力」の内実である、上達の普遍的な論理としての「コメント力(要約力・質問力)」と「段取り力」と「まねる・盗む力」の三つてある。「コメント力」は、ことば次元のものであり、「段取り力」は生活活動次元のそれてあり、「まねる・盗む力」は、からだ次元の「技化」の意識に属する。その他、頭で考え知識として学ぶだけでなく、呼吸法やリズム感覚など、スポーツを通じて「身体感覚を〈技化〉」して体得することの大切さも述べられている(「第二章・スポーツが脳をきたえる」「第五章・身体感覚を〈技化〉する」)。

齋藤孝の著作が本書で初めてな人は気にならないかもしれないが、私のように斎藤の著作をこれまで連続で読んで、その内容をある程度知っている読者にとっては、「身体感覚を研ぎ澄ます」話や「あこがれにあこがれる」話とか、「吉田兼好『徒然草』を介しての上達論」の話とか、「村上春樹に見られる自分独自(オリジナル)のスタイル作り」の話など毎度の定番の話で、どれも以前に齋藤の旧著で読んだことがあるような自己啓発ネタの使いまわしだ。

このようにほぼ同内容で異常に多くの自己啓発本を連続の量産で大量に出しまくる齋藤孝「先生」を、少なくとも私は、教育者ないしは人として、まったく信用も尊敬もできないな(笑)。