紀元前四世紀から五世紀頃、インドにてガウタマ=シッダルタ(ブッダ、仏陀)が開いた仏教は、後にアショーカ王の保護を受けて発展し、アジアの各地に広がったが、前一世紀から二世紀にかけて中国・朝鮮・日本に伝わった、いわゆる「北伝仏教」は、ガウタマ=シッダルタがインドで開いた本来の仏教とは明確に異なる。同じ「仏教」であっても、その内実はもはや別物である。
仏教の開祖であるブッダは、人間の誰もがこの世で避けることのできない「生老病死」の苦しみ(四苦)を見つめ、その苦悩の由来を人間の「我執」(自己や自己の所有物の永遠の存在に執着していること)に求めて、自分の内にある執着心を捨て去り、心の永遠の安らぎの境地たる「涅槃」(執着の炎が消滅し、永遠の平静と安らぎが実現した解脱・悟りの状態)の実現を説いた。こうしたブッダの教えに忠実であろうとした弟子たちよるブッダ本来の初期仏教(原始仏教)は、仏への帰依や祈願や呪術を熱烈に行う信者の信仰集団であるよりは、「仏陀」(真理にめざめた人。覚醒した者)を志向する、より冷静で理知的な宗教哲学を追究する人々の集まりの教団(サンガ)であった。
ところが、ブッダが開いた仏教が中国・朝鮮・日本の東アジアの各地域に伝わり受容されると、インド由来の仏教の本来性が変容し、「仏性」(すベての人が生まれながらに備えている仏になるべき素質)による人間の平等(「一切衆生悉有仏性」)の自覚にて「利他」による衆生の救済をめざしたり、「慈悲」(あらゆる生きとし生ける命に対する普遍的な愛)の円満の教えを説いたり、さらには仏教による個人の所属集団に対する共同体意識引きしめの観念的紐帯(ちゅうたい)のイデオロギーに変質したり、ついには死者の鎮魂や祖先崇拝や葬送儀礼の遂行、そこからくる一族の繁栄祈願や厄災回避の鎮護国家、個人の現世における健康長寿から死後の極楽往生に至るまで、人間集団や個人の欲望充足のための祈願呪術にまで変容して、東アジア各地に伝播し仏教は広く根付いてしまう。
中国・朝鮮・日本を始めとしてアジアの各地に伝播した仏教には、壮大な建立寺院や祈願の偶像崇拝のための造仏・仏画があるが、ブッダが創始のインドの仏教には、本来そのような壮大な寺社仏閣の建築や華麗な仏像・仏画の美術品などない。せいぜいあって仏塔(ブッダの遺骨を納めた塔)ぐらいである。インド発祥の本来の仏教は、人間の苦悩を見つめ、自分の内にある我執を克服して「真理に目覚めた覚者(仏陀)」になる普遍的・理念的人格をめざす宗教哲学が本道であるから、そうした即物的な寺院や仏像・仏画を建立し安置し所蔵して世俗的権勢を誇るようなものでは、そもそもない。さらには本来的な仏教は、現代日本の仏教のように寺院内で葬送儀礼に専従したり、所有の寺院仏閣や仏像を公開して観光事業に邁進するものでもない。
なるほど、宗教における信仰とは、どこまでも個人の内面の精神作用であり、「一体、自分は何を祈っているのか、何に向かって信仰しているのか」その宗教に傾倒している当人でも時にあやふやになる。ましてや他人をある宗教に誘導し強引に引き入れて熱心に信仰させるためには、人間の精神的内面以外での、何か形がある、あからさまに目に見えて分かりやすい即物、例えば仏閣偶像(参拝する寺院や崇拝・鑑賞する仏像や仏画)、伝統と権威ある形式的遂行の儀式(戒壇・授戒の制度など)、自身に厳しく課する修養行為(禅定や写経や念仏など)の外的装置が必要だ。そうして人は仏教を始めとする宗教に熱心に帰依しているつもりでいても、そういった信仰のための分かりやすい即物対象への形式的崇拝、儀礼遂行、修養行為の外的なものにばかり心奪われて、本来の精神的内面における信仰はなおざりになってしまう。結果、多くの人々にて信仰が外的で形式的で儀礼的な空疎で中身のないものに堕(だ)してしまうことはよくある。
前述のように、後に中国や日本に伝わった北伝仏教は、その伝播の過程で変容し、ブッダが開いたインドの本来的な仏教とは明らかに異なる。このことに関し、インド哲学と仏教研究専攻の渡辺照宏による、岩波新書「仏教」(1956年)や同岩波新書「日本の仏教」(1958年)にての「北伝仏教=似非(えせ)仏教」と告発する痛烈批判の記述が以前にあった。「今日、常識的に『仏教』と目されている日本の各宗派の仏教は実は仏教ではない。それらは仏教とは到底、言えない」「中国や日本の仏教はインドの正統的な仏教のアクセサリーであり代用品でしかなく、インドのブッダの仏教の純粋性を汚す」云々で、かつて渡辺照宏は東アジア各地に伝播した中国や日本の仏教を完膚なきまでに徹底批判していた。
以上のようなことを読みながらつらつらと私に思い起こさせる、岩波新書の赤、石井公成「東アジア仏教史」(2019年)である。
本書は、インドから東アジア各地に伝わった各地域の仏教史を古代から近代まで概観している。その「東アジア仏教史」の概説に当たり、これまで述べたような中国や日本の仏教に対する「北伝仏教=似非仏教」の告発批判の先行研究を当然、著者も知っていて、その指摘をやり過ごしたまま論述できないので、例えば以下のような、北伝仏教における「男尊女卑の儒教思想の持ち込み」や「インド本来の仏教にはもともとない、後に中国で作成された数多くの『偽経』の存在」を最初から率直に認める、やや分(ぶ)の悪い「東アジア仏教史」に関する概説記述になってはいる。
「『無常』や『縁起』の教えが示すように、仏教は国を越えた普遍的な面を多く含んでいるが、漢訳によって東アジア風に変化した部分も少なくない。たとえば、インドでは両親のことを『マーター・ビトゥリ』(母父)と呼び、『母は─ 父は─ 』と母を先にして語ることが多いが、漢訳経典ではほとんどの場合、これを中国式に『父母』と訳した。経典が漢訳された瞬間に、男尊女卑という儒教の常識が持ち込まれたことになる。…そればかりか、漢字で書かれ、読誦されてきた重要な経典には、実際に中国で作成されたものが非常に多いのだ。本書では、『偽経』『疑偽経』などと呼ばれたきたそれらの経典を、原文を引用する場合以外は『経典になぞらえて作成された文献』という意味で『擬経』と呼び、論書(経典の注釈など)については『擬論』と呼ぶ」(「偽経が開いた世界」)
しかしながら、後に中国や日本に伝わった北伝仏教は、その伝播の過程で変容し、ブッダが開いたインドの本来的な仏教とは明らかに異なる旨の「北伝仏教=似非仏教」論をいくら言い募(つの)って中国・朝鮮・日本の東アジアの仏教を超越批判してみても、それは建設的議論ではないし、仏教史研究の発展に何ら寄与せず、むしろそれを貧しくするものであるから、「ブッダが創始した仏教の本来性とは何か」の価値判断意識を保持しつつ、東アジア仏教の実質や歴史を冷静に見極めることも必要だろう。
岩波新書「東アジア仏教史」では、従来の日本仏教史にて北伝仏教が「天竺(インド)→震胆(中国)→本朝(日本)」の「東伝」の一方向のみの伝播で図式的に語られがちであったが、その逆流の東方から西方のインドへ向けての「西伝」の「逆ルート」の複雑な相互間の影響があり、また中国・朝鮮・日本だけでなく、東南アジアのベトナムや西アジアの東トルキスタンら、他地域への仏教伝播の影響も東アジア仏教史の独自の発展形成に大きな役割は果たしたとする。
それにしても、古代から近代までの東アジアの各地域の仏教の歴史を新書一冊の非常に限られた少ない紙数で足早に論じているため各項目に関し、そこまで深く考察しておらず、基本的な史実や人物・経典の羅列的説明が主で、日本仏教史を始め中国仏教の思想や歴史をあらかじめ知っている読者には読んでいて正直、高校生向けの学校の歴史教科書のような平板記述の退屈さも免れない。だが、本書の「あとがき」結語に「この本によって、東アジア仏教に興味を持つ人が一人でも増えることを願っている」とあるように、岩波新書の赤、石井公成「東アジア仏教史」は入門書の初歩的な位置づけであるのだから、その点は仕方がない。
「紀元前後、シルクロードをへて東アジアに伝えられた仏教は、⻄から東へ、また東から⻄へと相互交流・影響を重ねながら、各地で花ひらいた。国を越えて活躍する僧侶たちや、訳経のみならず漢字⽂化圏で独⾃に創りだされた経典、政治・社会・⽂化との関わりに着⽬し、⼆千年にわたる歩みをダイナミックにとらえる通史」(表紙カバー裏解説)