アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(419)吉田裕「アジア・太平洋戦争」(その1)

最近、気になるのは、日本近代史に関し政治的・人道的な日本の問題には、それを「アメリカや中国らによる日本を不当におとしめる謀略の陰謀」と解釈して自国の日本の問題責任をどこまでも回避し、他方で歴史的に日本の国や日本人が優れていた点は過大に評価し、ひたすら賞揚して結果、日本人の自国の歴史をただただ賞賛するだけの学術的にも常識的にも聞くに耐えない、現代風の俗な言い方をすればキワモノの「トンデモ歴史」の流布だ。

こうした、ひたすら日本人の自国の歴史をただただ賞賛するだけのような「トンデモ歴史」は実は昔からあった。保守論壇雑誌やその手の愛国右派の専用メディア・集会などで、そうした言説は飛び交っていた。ところが昨今ではインターネット環境の充実とSNSによる個人の情報発信にて、それら「トンデモ歴史」が一般の人に、特にあまり歴史を知らない若い人達の耳目に触れ伝播して、それら「トンデモ歴史」が「本筋の正統な歴史」と、にわかに信じ込まれるようになってきている。これは非常に憂慮すべき事態だ。

そのような日本近代史に関する政治的・人道的な日本の問題について、それを「アメリカや中国らによる日本を不当におとしめる謀略の陰謀」と解釈して自国の日本の問題責任をどこまでも回避し、他方で歴史的に日本の国や日本人が優れていた点は過大に評価し、ひたすら賞揚して結果、日本人の自国の歴史をただただ賞賛するだけの学術的にも常識的にも聞くに耐えない「トンデモ歴史」の典型事例に、アジア・太平洋戦争における対米英戦の太平洋戦争にての日米開戦をめぐる歴史解釈がある。

「アメリカ・ハワイへの真珠湾攻撃にて、当時から物量国力の圧倒差にて開戦必敗で到底、日本に勝機はないにもかかわらず、なぜ当時の日本人は無謀な日米開戦に踏み切ったのか。それはアメリカによるABCD包囲網での石油の対日輸出禁止の高圧的で一方的な外交圧力と、『ハル・ノート』にての実現不可能な無理難題な要求の突き付けにより日本は、もはや自存できず国際的孤立に追い込まれ、いよいよ追い詰められてやむにやまれず日本人は到底勝ち目のない日米開戦を余儀なくされたから。元から日本に戦争を仕掛けたい当時のアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトを始め米英の連合国側の軍事参謀や政治家らの戦争挑発の罠に日本は見事にはめられた」とする旨の歴史解釈である。

この手の「トンデモ歴史」を連発していた渡部昇一の著作、例えば「アメリカが畏怖した日本・真実の日米関係史」(2011年)にても日米開戦に至るまでの過程は、渡部により次のように解説されている。

「日米開戦以前に、アメリカは日本排除のためのあらゆる策謀を企てる。まず、アメリカ国内での日本人移民排斥運動から始まり、英国とのブロック経済圏化により、世界経済からの日本締め出しを図る。そして、ABCD包囲網により日本への石油をストップさせる。仕上げは、日本を追い詰めるためのあの脅迫的『ハル・ノート』の作成だ」(渡部昇一「アメリカが畏怖した日本・真実の日米関係史 」)

こういった荒唐無稽な「トンデモ歴史」に冷静に処するために、まずは太平洋戦争の日米開戦に至るまでの過程を以下の簡略な年表にて確認しておこう。

1931年9月・柳条湖事件、満州事変(1931─33年)
1932年3月・満州国建国宣言
1933年3月・日本が国際連盟脱退を通告(※ドイツの国連脱退は1933年10月、イタリアの国連脱退は1937年12月)
1934年12月・日本からのワシントン海軍軍縮条約廃棄通告(失効は36年12月)
1937年7月・盧溝橋事件、日中戦争(1937─45年)
1939年7月・アメリカからの日米通商航海条約廃棄通告(失効は40年1月)
1940年9月・日本軍の北部仏印進駐
1940年9月・日独伊三国軍事同盟(※これに対しアメリカは航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の措置)
1941年2月・ABCDライン(包囲網)の強化
1941年4月・日米交渉の開始(41年11月まで)
1941年7月・日本軍の南部仏印進駐(※これに対しアメリカは在留日本人の資産凍結、石油対日輸出禁止の措置)
1941年10月・東条内閣組閣
1941年11月・アメリカの「ハル・ノート」提示
1941年12月・日本軍のアメリカのハワイ・真珠湾攻撃により日米開戦、太平洋戦争(1941─45年)

太平洋戦争の日米開戦に至るまでの上記の年表の歴史的な読み方はこうだ。柳条湖事件(1931年)による満州事変(1931─33年)、そのうえでの満州国建国宣言(1932年)に絡(から)む日本の国際連盟脱退(1932年)に日米間の対立はそもそもの端を発している。事実上、日本の関東軍が成立させ支配した日本の傀儡(かいらい)国家たる満州国建国に対し、国際連盟理事会にての満州国からの日本の撤兵勧告と、後のリットン報告書に基づく対日勧告案の総会での圧倒的多数の採択に対し、国連常任理事国であり国連組織の責任的立場にあった当時の日本は、何と自ら進んでそのまま国連脱退の通告をしてしまう(1933年3月)。国連内での組織的懲罰で強制的な「追放」とは異なり、自らの主体的意思による「脱退」である。日本の国連からの離脱通告は、後の第二次世界大戦にてイギリスやアメリカら連合国側と対決する枢軸国内のドイツの国連脱退(1933年10月)とイタリアの国連脱退(1937年)よりも早い。国連常任理事国であった日本が責任放棄し、枢軸国の中でドイツとイタリアより早く一番に国連脱退して、国際連盟の集団安全保障体制を最初に崩壊させた当時の日本の国際的政治責任は果てしなく重い。

というのも国際連盟とは第一次世界大戦を終結させたパリ講和会議の後、1920年に発足し、連盟設立の主要な目的は集団安全保障によって戦争を防止し交渉と仲裁によって国際紛争を解決することであったからだ。より平易に言って「国際連盟は、第一次世界大戦への反省から将来に起こりうる第二次世界大戦を未然に防ぐ」という目的の下に設立された国際的組織であったのだ。そうして世界大戦規模の戦争防止のために国際連盟にて取られたのが集団安全保障である。「集団安全保障」とは、軍備により個別に国家の安全をはかるのではなく、潜在的な敵対国も含めた国際的な国家間の集団を構築し、戦争その他の武力行使を禁止して、また扮装の非平和的かつ非人道的処理を諌(いさ)め互いに監視し武力行使を相互に抑制しあうことで国家の「安全」を「集団」的に「保障」する国際政治体制、ないしはそれを志向する国際政治に関する考えのことである。

この集団安全保障に関し、「不当に平和を破壊した国に対して、その他の国々が集団で制裁する」という組織的な強制措置の面だけが主に注目され、今日、床屋政談レベルの一般的な新聞・ニュースでは平和を破壊した造反国や侵略国に対する経済的・軍事的制裁の発動の可否や制裁内容の是非ばかりが話題になりがちであるけれども、集団安全保障において前提となるのは潜在的な敵対国も含めた国際的な集団体制を幅広く構築し、しかもできる限り一国も離脱国を出すことなく、互いに監視し武力行使を相互に抑制しあう国家間での集団体制を維持していくことにある。

集団安全保障は、近代の国際政治の基本原則とされるもので、その始原はフランス革命下でのフランスに対する非革命国のヨーロッパ諸国による第一次対仏大同盟(1793年)の国際的な反動協調体制にあるとされる。この軍事同盟では対フランスにて関係各国が一国も脱落することなく同盟の集団体制を保って「対仏」の圧力をかけ続けなければ、この軍事同盟は威力を持って機能しない。対仏大同盟参加の内の一国でも日和見になり、フランスに対し軟化の宥和(ゆうわ)政策を取ってしまえば、革命下でのフランスに対する非革命のヨーロッパ諸国による対仏大同盟の国際的な囲い込みの反動協調体制はたちまち崩壊してしまうからだ。ゆえに近代の国際政治の基本原則とされる集団安全保障においては、「国際的な集団体制を幅広く構築し、しかもできる限り一国も離脱国を出すことなく、互いに監視し武力行使を相互に抑制しあう集団の体制を維持していくこと」が何よりも重要となる。集団安全保障にて最も大切なのは、その集団体制の枠組みから外れる離脱国を出さないことにあるのだ。

第二次世界大戦後に設立された今日の国際連合も、戦前の国際連盟と同様、集団安全保障をその機軸にしている。現代の国際連合にて肝要なのは、「平和を破壊した造反国や侵略国に対する経済的・軍事的制裁の発動の可否や制裁内容の是非」云々では当然ない。例えば比較的小国である現在、国連加盟国のイラクや北朝鮮が集団安全保障体制の枠組みから離脱し孤立し暴発して周辺国に侵略しないよう相互監視の抑制の牽制(けんせい)のため、同様に比較的大国である国連常任理事国のアメリカや中国やロシアが集団安全保障体制の歯止めなく暴走して、正戦論といった「正義の名の下での軍事圧力」の独断的制裁に走ることを相互監視で抑制するために、国際的な国家間での集団体制の維持が今日の国際連合では最重要である。それは現代の国際連合がその伝統に従い、集団安全保障という近代国際政治の機能原則を、かつての国際連盟から受け継いでいるからに他ならない。現代政治の最大の危機は、イラクや北朝鮮の小国が、あるいはアメリカや中国やロシアの大国が国連を脱退して、集団安全保障体制といった紐(ひも)付けのない孤立した自由な状況で暴発・暴走してしまうことである。

第一次大戦後に先の大戦への反省から「将来に起こりうる第二次世界大戦を未然に防ぐ」といった戦争防止を目的にし、交渉と仲裁によって国際紛争を解決することが設立の主眼であった国際連盟にて、集団安全保障の原則に基づき、その設立をアメリカ大統領のウィルソンが提案したにもかかわらず、伝統的な米国の外交方針たるモンロー宣言(1823年)以来の孤立政策を信奉する議会勢力から国連加盟をアメリカ本国で否決され、結果的にアメリカは国際連盟に不参加となった。しかし、不参加ながらアメリカ大統領・ウィルソンが提案の国連を通しての、第一次世界大戦と第二次世界対大戦の戦間期における、集団安全保障体制の確立・維持の努力へ向けての国際政治でのアメリカの立場は一貫していた。第一次世界大戦後の国際連盟の設立(1920年)と同様、1922年のワシントン会議にて討議の上で採択されたアメリカ主導のワシントン海軍軍縮条約(1922年)も集団安全保障の原理に依拠したものであった。

ワシントン海軍軍縮条約とは、第一次世界大戦後に日々エスカレートする欧米と日本の海軍力拡大競争(建艦競争)を停止させる目的で各国海軍の軍備制限を主に定め、軍拡競争に歯止めをかけるものであった。ワシントン海軍軍縮条約に対し、英・米・日の間で定められた主力艦保有比率の英米と日本に保有が許される比率の差(英米は5に対して日本は3の少ない保有比率である)の不均衡を不満に思い、問題にするワシントン海軍軍縮条約への批判言説は昔から根強くある。しかしながら、この海軍軍縮条約の主眼は、「日々エスカレートする欧米と日本の海軍力拡大競争(建艦競争)を停止させる」という国家間相互で監視し抑制しあう集団安全保障の考えに基づく「軍縮」にあるのであって、この意味でワシントン海軍軍縮条約は、国際連盟における「造反国や侵略国に対する経済的・軍事的制裁の発動の可否や制裁内容の是非」云々の話ではなく、潜在的な敵対国も含めた国際的な集団体制を幅広く構築し、しかもできる限り一国も離脱国を出すことなく、互いに監視し武力行使を相互に抑制しあう国家間での集団の体制を維持していくことで国際政治にて戦争防止の平和構築を志向する、集団安全保障の原理を国際連盟と共に共有していた。

ところが、前述のように、当時の日本は国連常任理事国であり国連組織の責任的立場にありながら、自ら進んでそのまま国連脱退の通告をし、国際連盟における集団安全保障体制を崩壊させ、第一次大戦後の世界における戦争防止の平和構築を積極的に無にし破綻させてしまう。日本の国連脱退は、後の第二次世界大戦にてイギリスやアメリカら連合国側と対決する枢軸国内のドイツとイタリアの国連脱退よりも早いのであり、繰り返しになるが、二つの世界大戦の戦間期に国際連盟の集団安全保障体制を最初に崩壊させた当時の日本の国際的政治責任は極めて重い。

実は日本の国連脱退の契機となった、日本の関東軍が成立させ支配した日本の傀儡国家たる満州国建国に対し、国際連盟理事会での満州国からの日本の撤兵勧告はあったが、後のリットン報告書にての「満州国の独立は認められない」としながらも、「しかし、満州事変前の状態に戻ることは現実的でない」として日本の満州国における特殊権益を認める、国連側からの日本に対する譲歩の歩み寄りはあった。それはアメリカは不参加であったけれども、イギリスを始めとする国際連盟主要国にて、常任理事国である日本に国連脱退されれば「潜在的な敵対国も含めた国際的な集団体制を幅広く構築し、しかもできる限り一国も離脱国を出すことなく、互いに監視し武力行使を相互に抑制しあう国家間での集団の体制を維持していくことで国際政治にて戦争防止の平和構築を志向する」という国際連盟での、かの集団安全保障の平和安定の原理が機能しなくなることをイギリスを始め主要各国は知っていたからである。だが日本は「満洲国が国際的な承認を得ること」という自国の要求にのみ固執し、1933年に国際連盟を脱退してしまう。

1933年の日本の国連脱退に続き、保有艦比率の米英に対する日本の少なさに不満を爆発させ、翌1934年に日本はワシントン海軍軍縮条約の廃棄通告をして同様にアメリカ主導のワシントン会議におけるワシントン体制の集団安全保障体制も日本は、みずから率先して崩壊させてしまう。ここに至って日米間の関係悪化は決定的となった。この日本の国際連盟脱退とワシントン海軍軍縮条約の廃棄通告を通しての、日本による度重なる集団安全保障体制のぶち壊しに端を発する日本とアメリカの関係悪化が、太平洋戦争の日米開戦に至る過程の第一ラウンドである。

当時の日本人も、そして(おそらくは)現在の日本人もその多くが、当時のアメリカ人らとは異なり、国際政治に関しては床屋政談レベルのお粗末さで、国際政治における集団安全保障の本来的意味やその政治機能の仕組みを絶望的なまでに何ら理解していなかった。ゆえに当時の日本人は、自国の軍備増強の念願や目先の戦争での日本の勝利の確保や大陸での日本の覇権拡大の衝動だけで動き、また後の時代の日本人も同様にそれら衝動のみにて先の太平洋戦争へと至る過程の歴史を読んでいるので、そのような多くの日本人は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期における国際政治下での集団安全保障体制構築の歴史的意味や、その集団安全保障体制を最初に積極的に崩壊させた以前の日本の国際的政治責任の重大さに気付くことは滅多にない。

(この記事は次回へ続く)