アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(421)マイケル・ローゼン「尊厳」

岩波新書の赤、マイケル・ローゼン「尊厳」(2021年)の表紙カバー裏解説は次のようになっている。

「 『尊厳』は⼈権⾔説の中⼼にある哲学的な難問だ。概念分析の導⼊として⻄洋古典の歴史に分け⼊り、カント哲学やカトリック思想などの規範的な考察の中に、実際に尊厳が問われた独仏や⽶国の判決などの事実を招き⼊れる。なぜ捕虜を辱(はずかし)めてはいけないのか。なぜ死者を敬(うやま)うのか。尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書が⽰す道とは」

なぜ今「尊厳」なのか。本新書の第一章は「『空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉』」となっている。人権言説の中心にある 「尊厳」という概念をして、「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」とは冒頭からなかなか挑発的な章展開だ。だが、そうした「尊厳」とは「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」に過ぎないという決め付けに本書の中で著者は反論し、最終的には「私たちは人間性に対する尊厳を尊重の義務を負う」という「尊厳」尊重の態度を貫いている。著者が「尊厳」という書籍を著すのには、「尊厳」という人権言説の中心にある哲学的概念が、何ら人々の間でその内容が吟味され深められておらず、逆に「尊厳」の概念を持ち出し語って振り回しただけで、人々が「尊厳」の言葉の前に平伏してしまう。もう誰も「尊厳」について本格的に議論したり、その内実を掘り下げて吟味したり出来ず、それが自動的に「人権言説の中心にある概念」で、各人にとって形式的で自明な「道徳的に正当な正義」であって「尊重され守られるべき義務的説教」と漠然と目されている。そういった「尊厳」という概念をめぐる今日的状況を指しての「尊厳」=「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」の言辞をとりあえずは冒頭にて紹介し、後に反論・批判する著者による刺激的な問題提起の構成である。

これは1990年代から2000年代初頭にかけての日本における人権批判の風潮と類似しており、かつてのそれを思い起こさせる。当時、日本の戦後民主主義社会にて長い間、自明の前提とされていた日本国憲法の三大原則の一つ、「個人の基本的人権の尊重」に対し、「本当に人権は先天的で自明な正当正義なのか。そこまで尊重して遵守されるべきものであるのか」の声が出て、テレビのあるニュース番組の公開討論にて、少年が「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問して、その場でニュースキャスターや評論家ら大人が即答できず絶句したまま番組放送が終了する事件もあった。そうして、この人権の正しさの自明性に対する疑いは、遂には人権そのものの否定にまで逆噴射したのであった。例えば「そもそも人権の観念は西洋由来のものであり、日本社会には馴染(なじ)まない」とか、「人権という『正義』を盾(たて)にして、労働運動や部落解放運動や在日外国人の権利保障を訴える左派の市民運動団体が自分たちの特権利益享受のために人権言説を利用しているから、人権思想の流布は、むしろ弊害」というような人権否定の言説が当時、多く流れた。もっともこのような人権思想そのものを過激に全否定する風潮は、先進国の中で日本だけであって、欧米では人権の全否定などすれば今も昔も、その当人は袋叩きにあって社会的に抹殺される。欧米社会にて人権それ自体を全否定するなど、暴言暴挙の愚行以外の何物でもない。人権の正しさの自明性に対する疑義から遂には人権そのものの否定にまで至るのは、恥ずかしくも当時の日本くらいであったのだが。

岩波新書のマイケル・ローゼン「尊厳」を一読して、議論の獲れ高を目指す功名心に著者が駆られているからなのか、「尊厳」というテーマについて、そもそもの定義や相互了解の基本事項を飛ばし、やたら「尊厳」に関する難題(アポリア)への急角度の突っ込みをやりたがり、しかし当然ながら、たかだが200ページ強の新書の限られた紙数では丁寧に論ずることなどできず、やはり中途半端に失敗しているように私には感じられた。

話が間接的で抽象的すぎる。より直接的に具体的に述べよう。先に引用した本書解説文に「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか。なぜ死者を敬うのか。尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書が⽰す道とは」とある。諸外国との戦争や自国の内戦にて、自分達の味方の同僚兵士を戦闘にて殺傷し、時に非戦闘員の民間人にまで戦時暴力を加えた敵兵を捕虜として捕獲した場合、憎き敵兵として「尊厳」に基づく人間的な扱いをせず、非人道的な報復の暴力を加え彼を辱めてよいか。また一般に人が死亡した場合、その人の遺体を手厚く葬ることなく、そのまま野ざらしにして放置したり動物に食べさせたりして、死者を敬わずにぞんざいに扱ってよいか。そうしたことは人間の尊厳に対する侵害となり、許されないのではないか。

「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」「なぜ死者を敬うのか」のこれら英国人のローゼンにより本書で挙げられている事例は、私たち日本人の日本社会の今日の問題に引き付けて、より分かりやすく以下のように言い換えてもよい。「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」については、凶悪犯罪にて服役中の、矯正や社会復帰を現時点で法的に絶たれている死刑囚や無期懲役囚に対し、彼らは終身もしくは死刑執行時まで刑務所にて衣食住の最低限の生活は国家から保障されるし、かつ心身の不調があれば医療刑務所にて適切に処置され治療が施されて、人間として尊厳を以て扱われる。だが、彼らは殺人などの凶悪犯罪により他者の生命や尊厳をすでに奪っているのである。「そうした他者の尊厳をすでに奪っている死刑囚や無期懲役囚に対し、彼らの尊厳は尊重されるべきかどうか」。また「なぜ死者を敬うのか」に関しては、例えば東日本大震災(2011年)の発生後しばらく、火葬場の多くが罹災し崩壊したため、多数の震災犠牲者の遺体は通常の火葬にされず、そのまま土葬にて葬られた。この報道を聞いて私達(少なくとも私)は、「死者が火葬によらず手厚く埋葬されていない」の非常に痛ましい思いを即座に持った。これはなぜなのか。ないしは、遺体処置の際に乳幼児の遺体の頭部にスーパーのレジ袋をかぶせた葬儀会社に対し、遺族が「精神的苦痛」のために葬儀会社を訴えた裁判の事例(2019年)が前にあった。「なぜ私達は、遺体がぞんざいに扱われ、手厚く葬られず死者に敬意が払われていないと精神的苦痛を感じてしまうのか」。

これら「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」「なぜ死者を敬うのか」に類する事柄は、まさに「尊厳」をめぐる今日の難題(アポリア)である。この議題でディベート(討論)をやれば、各人ともに立場が割れて必ず紛糾するテーマだ。皆が容易に結論を出せず答えに窮する。しかし、これは「尊厳」をめぐる相当に特殊な事例で日常的にはなかなかありえない究極の問題である。こうしためったにありえない例外状況に関し、いたずらに急角度で突っ込み議論するよりは、それ以前に本書のテーマである「尊厳」についての、そもそもの定義や相互了解の基本事項を確認しておくべきだ。事実、2000年代以降の現在の人類は、「尊厳」に関する例外状況のめったにあり得ない問題以前に、「尊厳」についての基本的な事柄を熟知し理解しているとは到底、言い難い。後述するように、近代以降の社会にて「尊厳」とは人間に対してのものであり、この「人間についての尊厳性の自覚」という思想に裏打ちされた法的な制度的表現が「個人における人権保障」とされる。にもかかわらず、今日でも人間の「尊厳」や個人の人権を安易に否定したり制限しようとしたりする人は多くいる。その程度の、誠に憂慮すべき「尊厳」をめぐる現在の人類の理解不足の様相であるのだ。

よって岩波新書「尊厳」には書かれていない事項も含め、議論の前提となる「尊厳」の定義や基本的な事柄を確認的に示すことで以下、本新書に適切に当たるための導入の案内(ガイド)としたい。

もともとの「尊厳」の定義はこうだ。

「尊厳とは、尊(とうと)く厳(おごそ)かなこと、気高く犯しがたいこと、またその様。気高く犯すことのできない権威をさす。人間の尊厳といった場合、当人の性別、人種、宗教、出自、階層、財産、容姿、能力、社会的地位などに関係なく、すべての人が尊重され尊ばれなければならない。この意味で尊厳において、あらゆる人間は平等とされる」

思想的な「人間についての尊厳性の自覚」は法的な制度的表現である「個人における人権保障」へ、そのまま連なっている。事実、人間の尊厳性についての自覚は、すべての個⼈が互いを⼈間として尊重する基本的人権保障の法原理をなし、例えば、1945年に調印・発効した国際連合憲章では「基本的⼈権と⼈間の尊厳及び価値と男⼥及び⼤⼩各国の同権とに関する信念をあらためて確認する」として、基本的人権と⼈間の尊厳が根本原理とされている。また1948年に国連総会で採択された世界⼈権宣⾔にても「すべての⼈間は、⽣れながらにして⾃由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」と定めて、人間の尊厳と基本的人権の尊重とが同様に基礎原理とされているのである。

岩波新書「尊厳」は、「尊厳」について近代以前の古代のギリシア哲学や中世のキリスト教世界の歴史的系譜から幅広く、著者が語りたいことをかなり奔放自由に述べているため、全体に「尊厳」に関する議論が拡散し、焦点が絞り込まれていない曖昧(あいまい)な読み味が残る。今日、私達が「尊厳」について考える場合、近代以降の「尊厳」にて、人間に対して適用される「人間の尊厳」に議論を絞って主に考察すればよいと思える。確かに古代ギリシアのキケロの時代から「尊厳」という概念はあったし、中世キリスト教世界にても同様に「宗教的寛容」に絡む「尊厳」の観念はあった。しかし「尊厳」の思想の画期は近代に入ってからなのであって、近代社会にて「尊厳」は人間に対するものになった。ゆえに今日でも「尊厳」を以て接せられるべきは人間であり、人間以外の動物や物や国家(政治権力)には何ら「尊厳」はない。

そうして岩波新書「尊厳」の中での、友人と著者との「じゃぁ、教えてくれよ。哲学者は『尊厳』について何が言えるんだい」「ええと、あまり知らないんだけど─たぶんカントかな」のやり取りに象徴されるように、近代の人間に対する「尊厳」はドイツ観念論の創始であったカントに求められる。実のところ、人間についての「尊厳」の自覚は、人間を「人格」と見るカントの哲学から始まっている。カント以前にホッブズにて、共同体や因習に埋没し圧倒されない判断行動主体の「個人」はあった。ホッブズ後のロックにて、主に所有権を有しそれが保障される権利主体の「人権」もあった。そしてロック以降のカントにおいて、初めてその人自体が「尊厳」を以て尊重して接せられなければならない「人格」が成立したのであった。カントにおいて、人間は欲望充足の因果律が貫徹する現象界に生きながら、しかし同時に叡智界(物自体)への「可想」をわずかに感得でき、道徳的「実践」をなせる自律的主体である「人格」であるがゆえに、動物とは異なり、人間は「尊厳」に満ちた存在なのである。

だから、近代以降の人間に適用される「尊厳」の概念について、より詳細に知りたければカントを参照すればよい。「尊厳とは、尊く厳かなこと、気高く犯しがたいこと、またその様。気高く犯すことのできない権威をさす」といった定義をより分かりやすく踏み込んでカントに即して言えば、「尊厳とは、目的と手段の思考において、いつ如何なる状況下でも、それを手段として用いないこと。絶えず目的として扱うこと」である。何となれば、カントにおいて彼の前期の「批判哲学」と後期の道徳論とを貫く人間性についての定式は、「自分の人格の内にあるものであれ、他の誰かの人格の内にあるものであれ、人間性を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱うように行動せよ」の、いわゆる「目的の王国」への志向であったからだ。それはカントにとって、いつ如何なる場合でも継続し反復して厳密に実践され守られるべき「格率」(自分で自分に課した厳格な規則)であった。

ここに至って、先に述べた「近代社会にて『尊厳』は人間に対するものになった。ゆえに今日でも『尊厳』を以て接せられるべきは人間であり、人間以外の動物や物や国家(政治権力)には何ら『尊厳』はない」の旨はより明瞭になる。近代以降の社会にて人間以外の動物や物や国家は、人間の生存や幸福のための、つまりは人間にとっての手段でしかない。それらは到底、それ自体が目的とはなり得ないので、それら動物や物や国家には「尊厳」などないのである。ただし、そのものに「尊厳」が見出せないからといって邪険にぞんざいに扱ってよいということにはならない。例えば動物は人間にとっての食糧や愛玩の対象となる手段であるから、動物には「尊厳」はないが、「尊厳」あるそれ自体で目的たる人間から最大限に「尊重」されて動物は丁寧に扱われ、繁殖され時に保護されなければならない。

カントにおいて人間は「尊厳」を有した「人格」の目的主体であるので、いつ如何なる場合でも人間を手段化することは許されない。人間の手段化は「尊厳」に反する倫理的・道徳的悪であり、絶えず非難される。例えば今日の労働問題で、長時間就業、低賃金ら劣悪な職場環境や過労死が倫理的に問題にされるのは、資本家企業が利潤の儲けを出すために不当に労働者を酷使して、人間を自分達の金儲けのための手段として使い倒しているからである。このことは、カント以後のマルクスの時代から「資本主義批判」として長く指摘され続けてきたことだ。また例えば、愛のない者同士の政略結婚が倫理的に非難されるのは、この場合の結婚が当人らの幸福追求の主体的目的に基づくものではなく、それ以外での世間体の確保や金銭的見返りの目的があって、結婚する当人ら人間が目的ではなく手段と化しているからに他ならない。

カントは「尊厳」を、いわゆる「目的の王国」論にて人間を手段としない戒(いまし)めに加え、そのような「尊厳」に関する言動そのものに対しても、「尊厳」についての言説や行動が手段にならないよう慎重を期した。カントの「自分の人格の内にあるものであれ、他の誰かの人格の内にあるものであれ、人間性を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱え」は、定言命法である。定言命法とは、仮言命法とは異なり、条件や仮定や限定が一切付かない。定言命法とは、私達が存在している現象界の自然の経験の因果律に左右されない、叡智界(物自体)から私に先天的に、経験の混じり気なく「純粋」に要請される単に「─すべし」という原理の格率である。他方、仮言命法とは「─ならば─すべし」という条件や仮定や限定が付いた、現象界の自然の因果律や経験に基づいた原則や規範である。

これは英文法で考えると理解しやすい。定言命法は「S+V」の主節のみである。他に従属節や副詞的挿入はない。だが仮言命法は、文頭に条件や仮定や限定の従属節が付く。また文中にも同様な副詞的挿入もある。つまりは、定言命法である「人間を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱え」は、何ら条件や仮定や限定が付かない。いつ如何なる状況下で、誰に対してでも必ず遂行されなければならない。その命題の内容そのものと格率の遂行自体が目的であるのだ。ところが、かの「人間を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的とて扱え」が、その格率自体の使われ方が仮言命法となるとき、例えば「もし他者から尊敬され、人間社会の公正な一員でありたければ」や「人として正しく生きたいと思うなら」や「緊急や異常時を除いて、状況の許す限りにおいて」という(時に極めて不純な)条件や限定が入って、ある目的に対しての手段として「人間を単なる手段ではなく、同時に目的として扱え」の格率が実際言説として発せられ現実に行動に移される場合には、その命題は定言命法の正当な内容であっても、格率の使われ方において、それはもはやそれ自体が目的ではなくて手段に堕(だ)している。一見、その人は人間の「尊厳」を尊重してそれ自体を目的とし倫理的に正しく振る舞っているようではあるが、実質は人間の「尊厳」を尊重の振る舞いは、「他者から尊敬され、人間社会の公正な一員でありたい」などの自身の目的達成のための手段的行為なのであるから、それは道徳的に見て明確に「悪」なのである。

カントは、こうした格率の内容と格率それ自体の実際の使われ方にまで分割して細かに考え、「尊厳とは、目的と手段の思考において、いつ如何なる状況下でも、それを手段として用いないこと。絶えず目的として扱うこと」の意味を一貫して追究したのであった。