アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(424)南博「日本的自我」

ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘して論ずる「××人論」という評論分野が昔からある。例えば「歴史があるイギリスの英国人は礼儀正しく、伝統を重んじて保守的である」とか、「ドイツの人はゲルマン民族の森の住人の出自の適性から、凝り性で職人気質で合理的」とか、「ブラジルの人は南米の熱帯気候に育(はぐく)まれ快活で陽気、にぎやかで騒々しいサッカー応援やお祭り騒ぎが大好き」など。

もちろん、これらの論は「あくまでも、ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘しているだけ」の大まかなものであるから、例えば「イギリス人でも礼儀正しくなく粗野で、伝統を重んじない革新的で新しもの好きな人」もいるわけで、同様にブラジルの人であっても、快活・陽気でなく、逆に「慎重で堅実・真面目、サッカーに全く興味がなく、にぎやかで騒々しいお祭り騒ぎが苦手な人」も多人数でなくとも、確実にいるに違いない。だから、こうした「××人論」というのは、よく指摘され議論されて書籍にもなり、聞いたり読んだりすれば「なるほど」と思い、即座に納得させられそうになるけれど、その「××人論」に該当しない人々も実際には少なからず存在するので、こういうのは案外、紋切り型(ステレオタイプ)な現実に即さない、「××人論」を熱心に語りたがる人々や執筆したがる著者にとっての単なる「自己満足な決めつけ」に終始する場合も多々ある。

もちろん、日本人に関しての、この手の「日本人論」は昔から根強くある。むしろ、日本人はこうした「日本人には××の特質がある」「日本人の性格気質として××ということが挙げられる」の日本人論が他民族や他国の人々と比べて、かなり好きな国民性である。そうした「日本人とは何か」の日本人論を日本の人達は、これまで連発し量産してきたのであった。

「××人論」は「あくまでも、ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘しているだけ」の大まかなものであるから、「確かに俺は日本人だが、その日本人の国民性たる特質は俺に関しては全く当てはまらない」の問題以外の所で、「なるほど、これは日本人論として日本人の一般的特性を上手く言い当てている」と妙に感心したり、逆に「これは表面的な捉え方で日本人の実像とは異なる日本人論だ」と反論できるものも様々にあって、これまでに長いあいだ指摘され広く流通し定着してきた日本人の国民性に関する個々の議論については、今更ながら再検討を要する。

例えば日本人論の代表的で定番なものに、「日本人は個の自覚が弱く人間個人の権利意識が希薄で、集団組織に個人が圧倒され、周りの同調圧力に容易に屈してしまう」というのがある。これに関しては、私の日々の生活実感からしても「なるほど」と納得する。確かに、日本人は個の自覚が希薄で人間個人の権利意識が弱い。すぐに集団組織に個人が献身させられて、全体のために個が容易に犠牲にされる。日本社会では、個人の権利を主張すると「集団組織の規律や秩序を乱すワガママ」とか、「個人の権利保障や行使を主張する以前に、集団の構成員としての奉仕の義務を果たせ」などと叱責されて、たちまち個は集団の内に取り込まれてしまう。

しかしながら、他方で「日本には四季の移り変わる豊かな自然があり、日本人は欧米人と比べて自然を愛(め)で大切にする、自然と人間とが対立せずに共生する優れた自然観を有している」の昔からある日本人論には、私ははなはだ疑問だ。確かに、日本人は日本式庭園を造園したり、身近な生活空間で花を生け鑑賞したり、草木を栽培し育てて楽しんだりする。また都心の都市部のコンクリート建築の間にも広大な緑地公園があったりして、日本人は自然に親しみ自然を大切にして、それと上手く共生しているように一見は思える。

ところが、日本人の自然保護への意識のなさや実際の自然破壊のあり様は、欧米のそれと比べても相当にヒドいものがあって、日本人ほど無神経に無節操に、宅地造成や鉄道・道路敷設のために自然の木々をなぎ倒して山林破壊したり、ダム建設で自然の河川を改変させたりする民族、国民を私は知らない。「西洋の文化では人間と自然とが対立しており、自然に対抗して人間が自然環境を征服する思考があって、西洋の人は自然を人間のために人工的に改変させる」云々とよく言われるけれど、それは俗説であって、そんな欧米人でも日本人よりは自然環境に配慮し日本人ほどの無神経な乱開発などやらない。今日、ドイツを始めとするヨーロッパ諸国は環境先進国といわれ、西洋人の方が日本人よりも、むしろ自然環境保護に関しては、人間と自然との共生を果たそうとする意識が非常に高い。

だいたい「日本人は自然を愛で自然と共生して自然を大切にする」なとと言われるが、それは「日本人が自分達にとって都合の良いように自然を無理に箱庭にしたり、勝手に自然を移動させたり、時に自然を自分本位に飾って改変して自然を消費し単に満足しているだけ」の見かけの上だけの「人間と自然との共生」もどきで、日本人が自然保護や環境保全の事を真剣に考え取り組んでいるとは到底、私には思えないのである。

こうした事例からも、これまでに長いあいだ指摘され広く流通し定着してきた日本人の国民性に関する定番な日本人論の議論には、今更ながら再検討を要する。

さて岩波新書の黄、南博(みなみ・ひろし)「日本的自我」(1983年)は、「日本人の特質や国民性とは何か」を扱った日本人論の新書である。本書タイトルの「日本的自我」について、著者は次のようにいう。

「かねがね筆者は、日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く『自我不確実感』の存在ということを考えてきた。その不確実感は一方では、弱気、内気、気がね、あきらめなどの消極的な面にあらわれる。しかしまたそれがあるために、思いやり、やさしさを生み、また不確実感を克服するために熱中、研究心、向上心、融通性などの好ましい行動傾向の入りくんだ複合をもたらしている…この多元的な自我構造が存在するからこそ、それにもとづいた多元的な角度からする、それこそ多元的な日本人論が次々に生まれるのである」

本書を読んで見事だと思うのは、著者が「日本的自我」を論じて日本人論を展開するにあたり、単に日本人の悪癖の問題を指摘して「だから日本人は島国根性が抜けずに駄目なのだ」と従来ありがちであった、日本人による自己反省の痛烈な日本批判に終始するのではなく、かと言って日本人の長所や美徳のみを拡大宣伝して「日本人は他国の人々と比べて素晴らしい。だから日本人よ、もっと己の民族、国民性に自信を持て」とただただ称揚するわけでもなく、「日本的自我」にまつわる複雑で多彩な日本人の一般的な自我構造を明らかにすることを通して、その考察に基づいた多元的な幅広い日本人論を本論にて展開できている所だ。

本新書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の南博は社会心理学専攻、京都大学卒業の後、コーネル大学大学院を経て、本書執筆時には成城大学教授の職にあり、一橋大学名誉教授でもあった。著者は「これまで三十年間に渡り日本人の生活と文化について、さまざまな角度から日本人の問題を取り上げてきた」という。岩波新書「日本的自我」を刊行時の1980年代には日本人論は日本の戦後社会にてかなり出ており、相当な蓄積があった。著者の南博は岩波新書「日本的自我」を執筆する時点で、それらおおよその過去の日本人論を参照しているに違いない。また南自身が、これまでに出した日本人や日本文化についての著作も数多くあった。

本書では日本人論にて従来、指摘されてきた日本人の特性、民族性や国民性の主要な項目や論点がさすがに、ほほ網羅で欠落なく挙げられている。例えば最終章での「(日本人の)意識の多元性」の節でも、「状況順応主義」「さすらい願望」「あきらめと代理満足」「根まわし」「ホンネとタテマエ」が、「日本的自我」の多元的特徴として一気に列挙されている。ゆえに、これまでの日本人論の成果や現状を把握し確認したい「日本人とは一般にどのような特性を持つか」を知りたい、日本人論が初学の読者に向けて、その概要が本新書を一読すれば分かるので大変に有用である。

ただその一方で、岩波新書の南博「日本的自我」の難点をあえて言えば、本書は日本人の民族性や国民性の各特徴項目を実に周到に、もれなく幅広く指摘できてはいるけれども、例えば「日本人がホンネとタテマエを使い分け、肝心な議論や自分の主張が求められる際にホンネを隠し、タテマエで無難に切り抜けて状況順応主義に陥ったり、タテマエになびいて大勢の集団組織の方に安易に同調してしまうのは、なぜなのか!?」などの、「日本的自我」の「自我不確実感」の由来やその精神構造を掘り下げて深く追究していない所だ。日本人の特性を幅広く網羅で指摘する広さの平板な議論が主で、その原因由来の深さへの考察が不十分なことが本書の難点である。この点に関しては、読者各自で日本人論の他書籍に当たるなどして補足し、日本人についての自身の考えを深めておくことが望まれる。

「戦前にくらべれば、われわれの⽣活状況はまさに⾰命的に変化した。しかしその⼀⽅で、⽇本⼈の精神構造はどう変っただろうか。本書は、⽇本⼈が共通してもつ⾃我不確実感に焦点をあて、そこから⽣じる⼼理的傾向─集団依存意識、格づけ主義、物真似ずき、定型化志向など─を、さまざまな行動パターンに則(そく)して分析する現代日本人論」(表紙カバー裏解説)