アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(427)佐高信「戦後を読む 50冊のフィクション」

評論家でありジャーナリストである佐高信に関しては、廃刊になって今ではもうないが、以前にあった雑誌「噂の眞相」での佐高の連載「タレント文化人筆刀両断!」など私はよく読んでいた。私は10代の頃から岡留安則が編集発行の「噂の眞相」を定期的に読んでいたので。また佐高信と同様、本誌に連載を持っていた本多勝一の書籍も学生の頃から愛読していた。

佐高信という人は大学卒業後、郷里の山形にて高校教員をしていたが、教職員の組合運動にて学校体制側と激しく半目し、同時に独自に運動をやったため本来は連携すべき現場の県教組とも対立し孤立して、後に教師を退職。それから上京して経済系業界雑誌の編集者となり、次第に頭角を現す。そうして新聞の全国紙や週刊誌に政治経済記事を寄稿したり、テレビやラジオにメディア露出しコメントを出したり討論参加するようになって佐高信は全国的に顔が売れたのだった。

佐高信の政治評論の基調は左派で反権力である。この人は昔から一貫して戦後の自民党保守政権に対し非常に厳しい批判的立場を取る。そのことからして佐高信の政治評論の内容は、憲法第九条を保持の護憲と反戦平和、沖縄基地問題に関しては基地反対の沖縄市民を応援、過去の日本国の戦争責任追及、政治家と官僚と財界人の癒着と公的なものの私物化(裏金、利権、汚職ら)への攻撃と全容解明に向けての徹底追及、その都度、自民党保守政権から出される国民への統制強化の各種法案に対する反対などが主である。

そのため、佐高信の政治評論では前より自民党の岸信介、中曽根康弘、自民党在籍時代の小沢一郎らに対する厳しい批判があった。近年の2000年代以降では、同じく自民党総裁で首相であった小泉純一郎と安倍晋三に対する佐高信の姿勢・評価は特に苛烈を極め厳しい。その反面、昔から旧社会党やその後継政党には多分に同情的であり、反自民の野党を一貫して掩護(えんご)し応援して、自民党からの政権交代を常に願う所があった(ただし万年野党の日本共産党に対しては割と一貫して批判的である)。

前から佐高信の文筆と仕事を見てきて、この人は週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビやラジオへの出演ら時事的なその場限りの、いわゆる「消え仕事」が多いと私は不満に思ってきた。もちろん、その都度の時事論たる反政府のキャンペーン記事や発言、首相と内閣批判の世論形成の論幕は必要で時に重要な役割を果たすが、結局のところ、それらは一時的な政局の時局の「消え仕事」なのである。どんなに優れた週刊誌連載でも新聞記事でもテレビ・ラジオ内での鋭(するど)いコメントで皆の耳目を集めても、それは一時的な時事論としてその場限りで消費され、やがては人々から忘れ去られてしまう。近年まで佐高信が務めていた「週刊金曜日」の編集委員や時評の仕事も、一時的に人々に読まれるが、ゆくゆくは忘れられる。

佐高信は、週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビ・ラジオへの出演ら時事論以外の、後々にまで残る本格的な政治論や思想史研究や現代思想論の原理論的な仕事も平行してなすべきであった。それらは時事論とは異なり、後々まで残り、時に「古典」として人々に広く長く読み継がれていく。だいいち佐高信は至るところで、「市民」の概念から戦後民主主義を志向した哲学者の久野収の弟子であることを公言し、師の久野を慕(した)っているが、「おい佐高(怒)、お前は久野収の弟子を公的に名乗るなら週刊誌連載とか新聞や雑誌やテレビでの安易なジャーナリズム仕事の時事論だけでなく、『思想の科学』に掲載できるような原理論の思想史研究や現代思想論の本格仕事も同時にやれよ。マルクスか幸徳秋水あたりの本格研究でもやれ。佐高信よ、師の久野収に無駄に恥をかかせるな!」と私はかねがね思っていた。ある人の弟子を公言するには、その師に恥をかかせないために、弟子に当たる人は元々のそれなりの才覚の力量と日々の積み重ねの努力が必要である。弟子たる者は師匠の後継の重い看板を背負って、決して楽をしてはいけない。佐高信「タレント文化人筆刀両断!」などの週刊誌連載は簡単な仕事で安易すぎる。あんなゴシップ的売文は楽に書けて誰にでも出来る。そして安易で時事的な売文仕事は後々まで残らない。一過性で終わり、広く長く人々に読み継がれない。

ところが、佐高信は法学部の大学卒業後に高校教員になり、その後に経済系の業界紙の編集者になったことから政治学や歴史学や思想論の専門的な研究実績の研鑽(けんさん)を積んでおらず、そのためこの人は組合運動の扇動的なアジビラまがいの文筆か状況的な過激政治発言に結局は安直に流れ、そこに終始してしまうのであった(苦笑)。

このように全く駄目な佐高信であったが、その佐高の一連の著作の中で比較的よいと思えて、例外的に私には印象深い一冊があった。岩波新書の赤、佐高信「戦後を読む・50冊のフィクション」(1995年)である。本新書は以前に同じ岩波新書から出された佐高「現代を読む・100冊のノンフィクション」(1992年)の続編の姉妹本に当たるものだ。

岩波新書「戦後を読む・50冊のフィクション」は、そのタイトル通りの「50冊のフィクション」の紹介本である。一冊につき4ページと書評紹介文の字数は決まっている。それが全50冊で本書は総数200ページ程のコンパクトな書評紹介文収録の新書である。佐高信の日頃の政治評論の嗜好(しこう)や経済系の業界紙編集者を以前にやっていた彼の経歴出自からして、日本の政治家や官僚や経済人とその政財界の内幕をモデルにしたフィクション(小説)を佐高が好んで選択し取り上げようとするのは、よく分かる。例えば戸川猪佐武「小説吉田学校」(1980年)、石川達三「金環蝕(きんかんしょく)」(1966年)、城山三郎「官僚たちの夏」(1975年)らの経済政治小説だ。だが他方で、自称「本好き」や「趣味は読書」と公言する人達が好んでよく推薦する案外ベタな、常日頃から多くの人が読んでいるような、例えば松本清張「ゼロの焦点」(1959年)、村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(1980年)、宮部みゆき「火車」(1992年)ら経済政治分野以外でのミステリーや都市文学の定番作品を今更ながら取り上げて佐高信がわざわざ紹介し書評しているのも、なかなか面白い。

さすがにどの作品に関しても、わずか4ページの非常に限らた字数の中で時に抑揚をつけ、唐突だが読み進めていく内にやがては分かる意味のある頭の文章の入り方だとか、適切でテンポある小説本文からの巧(たく)みな引用だとか、必ずしも全てを語らない、絶妙に余韻を残す「いかにも」な文章の終わらせ方など、佐高信は上手い具合にまとめている。

だが本新書を連続して読んでいると、国家権力や企業組織や組合上層部らの腐敗・堕落の実態を小説という「フィクション」の形式を借りて、批判的に時に痛烈な皮肉を込めて描いていたり、それとは逆に、それら政治権力や企業や組合の体制に逆らって不当に虐(しいた)げられた人々や、独り奮闘しそれら日本の「戦後」社会の現代における組織の巨悪に立ち向かう人物をモデルにした小説作品に対して、書き手の佐高信が、様々な紆余曲折の工夫の文章展開を毎回凝(こ)らしながらも、結局は最後にそれなりの高評価の肯定の論調で締(し)める、佐高のお決まり書評紹介文は、どれも似たようなものであり、パターン化されていて単調で連続して50冊分を読んで正直、私はツラい感じもする。これも普段からの左派で反権力な、佐高信の政治評論の基調の味に由来するものか。

ただそれらの中で例外的に、単に「戦後」の日本社会にての組織や人間の腐敗・堕落に対する批判の一刀両断の全否定で終わらせずに、社会や組織の内でそのように生きていかざるを得ない人間の悲哀や哀愁にまで佐高信が触れ得たもの、例えば生島治郎「腐ったヒーロー」(1969年)の小説モデルとなった現実のプロレスラーの力道山、また例えば山崎豊子「不毛地帯」(1976年)での作中の主人公に対する悪役のモデルとなった実在の日商岩井の元副社長・海部八郎を介しての本新書での佐高信の書評紹介文は、なかなかの名作と思えて、私には読後も深く強く印象に残る。

「この半世紀に戦争が落とす影は長く濃い。徴兵忌避者、戦犯、女性たちはどう生きたか、戦争責任はとられたのか。また、変貌する戦後社会の課題は何か。政争、汚職、公害、企業主義などの社会問題、アジアとの関係、新しい世代の闘いなど、様々なテーマから同時代の姿に迫った問題作・名作の数々を、意欲的に紹介する迫力満点の読書案内」(表紙カバー裏解説)