アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(428)渡辺金一「中世ローマ帝国」

中世ヨーロッパ史専攻で、なかでも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に関する多くの論文や書籍や訳書を著している渡辺金一の岩波新書は、「中世ローマ帝国」(1980年)と「コンスタンティノープル千年」(1985年)の二冊がある。後出の「コンスタンティノープル千年」が箴言(しんげん)や問答体など多様な文体で初学の読者にも分かりやすい新たな書き下しの、まさに「新書」たるに相応(ふさわ)しい、都をコンスタンティノープルに置くビザンツ帝国に関する入門的な新書になっているのとは対照的に、前出の「中世ローマ帝国」は、大学紀要か専門の研究雑誌に掲載した学術論文を書店売りの一般新書なのにそのまま収めたような硬質な学術文章の岩波新書であり、本書は読んで難しい。

渡辺「コンスタンティノープル千年」に関する文章は以前に書いたことがあるので、今回は岩波新書の黄、渡辺金一「中世ローマ帝国」について書いてみる。

本新書のタイトルである「中世ローマ帝国」とは、より厳密にいって中世の東ローマ帝国、別名・ビザンツ帝国のことである。東ローマ帝国は東西分裂(395年)後のローマ帝国の東半分を支配して、首都の旧名であるビザンティウムが東ローマ帝国の別称・ビザンツ帝国の由来となっている。東ローマのビザンツ帝国(395─1453年)は首都をコンスタンティノープルに置いて、西ローマ帝国が5世紀末に滅亡した後も存続し、6世紀半ばに全地中海周辺の領域支配の回復にほぼ成功し、7世紀に帝国のギリシア化が進み、皇帝が宗教上の指導者を兼ねる(皇帝教皇主義)とともに西ヨーロッパに対して独自の東ヨーロッパの文化を形成した。だが11世紀からの十字軍運動以後に衰退し、15世紀にビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされた。

ビザンツ帝国は専制君主制、つまりは唯一の皇帝が支配する統治体制であった。4世紀から15世紀までのビザンツ帝国1000年余りの歴史で(数え方にもよるが)89人の皇帝が統治し帝国は続いた。東西の世界史の中でも一つの帝国が1000年以上滅びずに継続し、しかもその政体が皇帝による専制君主制であったというのは極めて希(まれ)で実に驚くべきことである。コンスタンティノープルを首都としたビザンツ帝国が千年統治継続の理由の一端は、本書「中世ローマ帝国」の実質的な続編にあたる渡辺「コンスタンティノープル千年」にて明らかにされている。

ここで岩波新書「中世ローマ帝国」の目次を見よう。本書は全四章よりなる。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国、第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合、第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み、第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」

私が読む限りでは、本新書は「ビザンツ帝国と中世の民族移動により現出した帝国周辺諸民族との主にキリスト教の宗教イデオロギーを絡(から)めた中世の東ローマ全体像の歴史概観」である。本書では一見、独立した論文が四本並べられ、あたかも無造作に収録されているように思えるが実のところ、それら全四篇の全四章は有機的に繋(つな)がっている。著者の渡辺金一は誠に優秀で周到な方で、全四章で「中世ローマ帝国」=中世初期の地中海世界の全体構造(ビザンツ帝国と帝国周辺諸民族)を概観できる本書記述になっているのだ。

すなわち、第一章と第二章の前半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、前者のビザンツ帝国本体の話である。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国」では、中世初期の民族移動の結果、ビザンツ帝国周縁部に出現し定住して、やがて帝国と関連を持つようになった諸民族(アヴァール部族のフン人、ゲルマン民族のフランク人やゴート人、アラブ民族のサラセン人ら)へのキリスト教改宗を通してビザンツ皇帝を家父長とし、彼ら周辺諸民族と諸国家の長たちを家人(子供や兄弟)とする擬制的親族秩序理念の形成という、キリスト教を介した帝国と周辺諸民族との宗教イデオロギー支配の実態を明らかにしている。

他方、「第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合」は、今度はビザンツ帝国の国内政治の話であり、「天上の帝国の模倣として地上にあるビザンツ帝国」という演出、その帝国の頂点に立つビザンツ皇帝を絶対的なものとして、「神の嘉(よみ)し給うものであり、神の終末論的な人類救済の要(かなめ)として」皇帝は定置される。そのような「キリストの模像としてのビザンツ皇帝」の支配イデオロギーは、宮廷儀式や法律文書前文や皇帝の演説らを通じて様々に形成され流布される。だが、他方で帝国の上からの、こうした皇帝讃美の政治神学に反する、人民の下からの対抗イデオロギーもあった。ビザンツ皇帝の退位失脚を願うもの、「国家に仕える者としての下僕の皇帝」という法体系による帝国権力に対する縛りや、法に基づく皇帝への忠告があった。このような一筋縄ではいかない、帝国側から演出される「帝王の光輝」と、人民側より突きつけられる「帝王の限界」の諸々の複雑なイデオロギーの対抗・錯綜の一側面が中世東ローマにはあった。

しかも第一章と第二章では、このビザンツ皇帝に関するキリスト教の宗教イデオロギーに関して、より具体的にコンスタンティノス七世(在913─959年)の治世に編纂(へんさん)された「帝国の統治について」「ビザンツ宮廷の儀式について」からの文献引用を介して詳述されている。ビザンツ帝国にて皇帝コンスタンティノス七世在位の10世紀は、7世紀に帝国のギリシア化が進み、ギリシア正教会の首長の任免権を持つことで政教両権を皇帝が握る、ビザンツ皇帝が宗教上の指導者を兼ねる皇帝教皇主義の成立を経てのビザンツ帝国の東ローマ文化の全盛期であった。当時、西ヨーロッパではオットー一世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立(962年)、同時代の中国は隋・唐帝国の時代に当たる。

それから第三章と第四章の後半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、後者の帝国周辺の諸民族の話に移る。

「第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み」は、中世初期の民族移動にて出現し地中海沿岸に定住した様々なビザンツ帝国周辺諸民族の中から、ゲルマンとアラブ両民族に関し、相互に絶えず影響を与え合っており、両民族の発展の過程において、その近接の同時代性と相違の対照性との確認を両民族の比較史を通じて明らかにしようとしたものだ。ゲルマンとアラブの中世初期の帝国周縁の民族にて社会的分業という同一の過程が見出されると同時に、しかし「森」のゲルマンと「砂漠」のアラブのそれぞれの民族が置かれたエコロジー的自然に応じて、そこから由来する各自の生活様式の異なった形態を見る民族比較史である。

「第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」も、ビザンツ帝国周縁の諸民族に関する考察であり、「ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃」の歴史を具体的に追求している。この第四章は、紀元前7世紀のササン朝ペルシアの時代から後に7世紀イスラム教徒のアラブ人に占領されるまでの東ローマの周縁で地中海沿岸に位置する、かつてのローマ領シリアの「オリーヴ・プランテーション」の経済生活の様子を非常に長い時代射程で、かなり詳細に論じている。