アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(443)徳永恂「現代思想の断層」

私は一時期、大学進学後も遊びで大学入試問題を解いていたことがあった。そのとき、国立の大阪大学の二次試験問題の日本史や英語は年度によっては東京大学や京都大学のそれらよりもレベルの高い良問・難問で、「ここまでの大学入試問題を作成できるとは、大阪大学は相当に良い大学だ。大阪大学の教授陣は非常に優れている」の感慨を持った。

(※ 念のため、私は国立大阪大学のかつての卒業生でも現在の大学関係者でもありません。私程度の低い学力と能力では大阪大学に入学できたり、大阪大学の教室・キャンパスに立ち入ることなど到底あり得ないのである(苦笑)。)
 
そんな国立大阪大学所属の優れた研究者の書き手といえば、例えば古くは日本中世史専攻の黒田俊雄、日本近世史専攻の脇田修、近年では日本思想史専攻の子安宣邦らがいる。アドルノに師事したドイツ哲学専攻の徳永恂も国立大阪大学で教鞭をとり今日、大阪大学名誉教授にある人であって、氏は私が昔から好きな「大阪学派」とも称すべき優秀な人達の内の一人なのであった。
 
岩波新書の赤、徳永恂(とくなが・まこと)「現代思想の断層」(2009年)の書籍タイトルになっている「断層」には、私が本書を読む限り以下の意味が込められている。

(1)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの「現代思想」と、キリスト教文化を基層としてきた従来の西洋思想との間に思想史上の裂け目や断裂の非連続が存在していることを指摘する文脈で、「断層」を「西洋の以前の近代主義と今日の現代思想との間に大きく横たわる断絶」という意味で用いている。

(2)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの四人の「現代思想」の思想家たちの思考を横断的に概観し、彼らの問題意識の共通を明らかにする過程で、「断層」を「西洋の以前の近代主義の上層に積み重なり位置する今日の現代思想とで、両者を共に貫ぬき連続してある断面図の縦の深さの共通項(「大きな物語」)」という意味でも用いている(これは著者の自身の入院体験での、循環器系統の断面写真による検査からヒントをもらったそうである。つまりは一定の視点から何枚かの断面図をとり、それらを重ね合わせることで断面の縦の流れの変異を察知するという医学的CT画像診断の病状把握の方法に、かの近代思想と現代思想とを共通して貫き走る「断層」あぶりだしの方法論は依拠しているという)

しかしながら岩波新書「現代思想の断層」を読み中途で、私はこれら2つの著者からする「断層」の意味に加え、さらに以下のものも早急に読み込みたい強い衝動に駆られていた。すなわち、

(3)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの四人の「現代思想」の思想家たちが以前に語った、しかし後に様々な新しい思想が現れ上積みされて、今となっては古層として地中深くに埋もれ一時的に忘れられている「現代思想」が、後の人々に新たに発掘され再発見され改めて読まれ驚かれて、後世の人々の価値意識を一挙に揺るがし強烈な影響を与える。そう、地中深くに眠っている「断層」が長い年月を経て、ある時に突如、大きくズレて揺れ動き地表にいる後の人々の価値意識や思想を一挙に破壊し再構築を激しく促す、「(活)断層」のような「現代思想」といった意味として。

思えば、「断層」という言葉が世間一般に広く知られるようになったのは1995年に発生した兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災によってであった。少なくとも私は「断層」という言葉を阪神・淡路大震災を契機にその時、初めて知った。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、淡路島から大阪北部に位置する六甲・淡路島断層帯での断層のズレにより、あの激しい地表の揺れはもたらされた。活断層とは、あたかも以前に密(ひそ)かに知らず知らずのうちに地中深くにセットされた強力な破壊力を有する時限爆弾装置のようなものでもある。それが人々が忘れた頃に装置が作動し断層がズレて大きく動き、地中深くから地表の人々に甚大な地震の被害をもたらす。こういった「(活)断層」の意味も、岩波新書「現代思想の断層」のうちに私としては読み込みたい心持ちなのである。

岩波新書、徳永恂「現代思想の断層」の概要は以下だ。

「神は死んだ─ニーチェの宣告は、ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い『断層』をもたらした。『神の力』から解き放たれ、戦争と暴力の絶えない二0世紀に、思想家たちは自らの思想をどのように模索したか。ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ、ハイデガーらの、未完に終った主著から読み解く」(表紙カバー裏解説)

さらに本書の目次も見よう。本新書は「はじめに」と「断層の断面図あるいは、『大きな物語』の発掘─あとがきに代えて」をそれぞれ冒頭と巻末に置き、本論は全四章よりなる。

「第1章・マックス・ウェーバーと『価値の多神教』、第2章・フロイトと『偶像禁止』、第3章・ベンヤミンと『歴史の天使』、第4章・アドルノと『故郷』の問題」

岩波新書「現代思想の断層」の副題は「『神なき時代』の模索」である。一般に「近代」は理性主義や科学主義の立場から宗教否定の脱宗教の時代と捉えられがちであるが、実はそうではない。このことは「西洋近代の思想家」といわれるデカルトからロック、カントやヘーゲルに至るまで西洋近代思想史を概観するだけですぐに分かる。デカルトから始まってヘーゲルに至る「近代」の思想家たちはいずれも熱烈なキリスト者であり、神の存在を認めていた。そうしてキリスト教の一神教的な神の存在を世俗的な文明社会の人間の主体性に落とし込む形で彼らは、ある種の普遍的原理の確立を目指したのであった。

ところが、そのようなかつての「近代」の思想を、(本書でもよく引用される)ニーチェによる「神は死んだ」の宣告後の近代以降のポストモダン(脱近代)の明確に宗教が否定される(もしくは多くの人々が宗教的価値意識により生きなくなってしまった)「神なき時代」の現代において、宗教的な一神教の神の措定には頼れない所で、神に代わる新たな普遍的原理の規範構築が必要とされてきた。そうした「神なき時代」の近代以降のポストモダンな状況下で、ヴェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノの「現代思想」の4人による宗教的神に代わる普遍的原理や規範の構築をめぐる格闘に関する考察(「神なき時代」の模索!)として、私は本書を「神なき時代」の現代に生きる一人の人間の立場から相当な共感を持って極めて好意的に読んだ。加えて本書にて、近代の普遍規範(理性や人権や民主主義など)を安易に全否定し、結果として眼前の細かな実証主義的禁欲主義に終始する昨今流行し流通している低俗な近代批判のポストモダン論が、著者により一貫して厳しく明白に批判されていることは、もはや言うまでもないであろう。

岩波新書の徳永恂「現代思想の断層」の「はじめに」にある、ハバーマス「未完のプロジェクトとしての近代」に引き付けて「未完」の言葉に「今後、なお継承発展させるべき」(ないしは「引き継ぐべきリレーのバトンを受け取る」)の肯定的意味を読み込み、理性や民主政など実はキリスト教の宗教的神の普遍性に由来している「近代」の諸価値を、宗教的な一神教の神の措定には頼れない「神なき時代」の現代における、神に代わる新たな普遍的原理の規範構築への模索という、その思想史的営為の意味の再確認を読者に促し、そして「近代」から続く普遍原理の規範構築への模索の重要性を引き続き説く、以下のような著者の言葉は至言という他ない。

「ハバーマスは先年、『未完のプロジェクトとしての近代』という表題を掲げて、先走ったポストモダン論者を批判し、未だ守るべきものとして─理性や民主制などの─近代の諸価値を擁護した。それは個人としての彼の信念であるとともに、ヨーロッパのオピニオンリーダーとしての彼の社会的責任の表白でもあろう。その場合の『未完の』とは、『今後、なお継承発展させるべき』という肯定的な意味で使われている。しかし、私がこの本で、二0世紀中葉までの思想家たちに見てとれる挫折と中断の跡を、『未完の断章』と言うとき、私はそこに挫折の必然性を見届け、中途で倒れた志の墓碑銘を刻み、鎮魂の花束を捧げようとしているだけではない。『歴史が未完であるかぎり、物語もまた未完でなければならない』という方法的配慮もそこに働いている」(「はじめに」)