アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(450)川島武宜「日本人の法意識」

1945年8月15日の日本の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に際して、これまでの狂信的な天皇制ファシズムの軍国主義を批判し、さらには明治維新にまでさかのぼり近代日本全体を反省的に総括して、その上で今後の日本社会の民主化を新たに進めようとした戦後日本の知識人たちの中心に一時期「戦後民主主義」の人々がいた。彼らは、「戦後」の日本国憲法の「民主主義」を支持して日本国家の戦争責任を糾弾する左派的心情の持ち主ではあったが、日本共産党らマルクス主義の思想的上の硬直した公式主義や運動組織の凝固した全体主義の問題に対し十分すぎるほどに警戒して懐疑的であったし、同様に日本国の戦争責任議論を回避して戦後に再び天皇制護持を叫び出したり、国家主義に回帰しようとする日本の右派保守に対しても当然のごとく批判的であった。

「戦後民主主義」は、敗戦後に国民への啓蒙主義的姿勢を有して主に東京大学の若い研究者らにより、その発言・執筆は担われた。戦後の彼らは、西洋の理念的「近代」から現実日本の近代化の不足を指摘して「前近代」な日本の遅れの問題を人々に広く啓蒙的に説いた。そうした「前近代」的な日本社会の遅れこそが、今般の軍国主義の日本の無謀な戦争を構造的に招いたと否定的に分析したからであった。

同じ旧帝国大学で東京大学と対抗する京都大学は、戦時に哲学者の西田幾多郎ら、いわゆる「京都学派」が主流で、総力戦体制下の時の政府と結びつき「戦時動員の哲学」を供給していたが、敗戦を迎えて京都学派の哲学者ら「知識人の戦争責任」追及により、かつてあれほどまでに社会を席巻し隆盛を極めて東京大学を圧倒していた京都大学の面々が失脚してしまい、戦後に東大所属の若い社会学者らが新たな戦後世論のオピニオンリーダとして注目され一躍、戦後社会に躍り出たのであった。また「戦後民主主義」は発言・執筆は東京大学の若手の研究者を中心になされたが、それら言説は朝日新聞と岩波書店のマスメディアと出版社を主に通じて発表されたので「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」とも時に呼ばれる。

「戦後民主主義」の当時の若い担い手であった東大所属の社会学者として、政治学の丸山眞男(1914─96年)、経済学の大塚久雄(1907─96年)、法律学の川島武宜(1909─92年)の三人はその中心にいて外せない。日本の敗戦時の1945年に彼らがいずれも30代の壮年期であったことに留意してもらいたい。終戦のこの時期、30代の中堅で研究者としてある程度の実績もあり、しかし学界の重鎮の大家にはまだなっておらず、戦時の若い頃には「敵国の」西洋の学問をやろうとして指導教授や大学当局に暗に咎(とが)められたり、戦争遂行の国策に反する国家批判の研究学問が時局の統制のせいで出来なかったりで、丸山と大塚と川島のいずれもが少なからずの「苦い青春」の持ち主であったのだ。

なるほど、「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」と言われるだけあって、戦後は特に岩波書店と東京大学は関係が深い。そうして彼ら東大の社会学者の著作は後の岩波新書にもれなくあるのであった。すなわち、岩波新書の丸山眞男「日本の思想」(1961年)、大塚久雄「社会科学の方法」(1966年)、川島武宜「日本人の法意識」(1967年)である。

以下では「戦後民主主義」の東大出身の主な三人の担い手の中で、法律学の川島武宜について書いてみる。

川島武宜(かわしま・たけよし)は、東京帝国大学法学部出身。専攻は民法、法社会学である。川島法学の良さは、法の実在(法の制定・改正・廃止)や法の運用解釈(過去の判例)など即物的な法律そのものだけでなく、法律を取り扱う人間の法意識の側にまで踏み込んで考察する点にあった。川島武宜において、法学は対象即物的な法律そのものだけでなく、その法律を実際に取り扱い運用する人間主体の法意識までがあって初めて一つの完成した法律学となるのであった。

川島法学には、(1)法律を制定し運用する人間主体の法意識についての問題指摘と、(2)近代日本に根強くある家族主義的国家観への批判の2つの柱があった。

(1)に関しては、川島による以下のような伝統的な日本人の法意識についての問題指摘である。これまでの近代日本の社会において、法律は常に国家による上からの強制であって必ず従わねばならず、「法を守らなければ人々は厳しく罰せられる」と馴致されていた。厳格に遵守すべき規範としてのみの法律であって、国民の服従義務ではなく逆に国家の政治権力を国民の側から制限したり、個人の権利を保障するような法律の制定と運用の法意識が日本人は希薄である。また、こうした人間の権利保障のために法を用いる意識が乏しいため、かつ正当厳密な「法の支配」ではなく、非合理で馴れ合いによる「人による支配」が実際の社会場面で多くを占めるために、伝統的な日本社会では個人の権利を主張すると、単なる「わがまま」とか「逆張りの天の邪鬼」などと不特定多数の周囲から集団的に攻撃される。法に基づいて訴訟を起こした場合でも、「変わり者」「喧嘩好き」「集団の和を乱すエゴ」などと否定的に目されイジメや仲間はずれの報復攻撃を受けることが多々ある、とする。これらの問題指摘については、例えば川島武宜「日本人の法意識」(1967年)に詳しい。

(2)については、川島による日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判である。「家族主義的国家観」とは、明治以来の日本の近代天皇制国家において、天皇を絶対的に君臨する家長の「父」とし、国民一般を天皇の「赤子」の子と見なして、国家を一つの情緒的て有機的な家族に見立てるような国家観のことである。各々の国民は、子が父に従うように、家長の天皇に絶対的に服従しなければならない。国民は臣下(家来、下僕)の「臣民」であるから常に恭順を貫き、主君の天皇に謀反があってはならないのである。家族主義的国家は公的な国家への忠誠支持を、「家族」という極めて私的な最小集団単位の人間の根源的心情より調達してくるものであるから、このことは逆に言えば、公的な政治権力の近代国家が各国民の心の内面の私的領域にどこまでも侵入して結果、個人をコントロールする人間の内面収奪に他ならない。そうして下部にて擬似家族主義的な天皇制国家を支え、公的国家への忠誠支持を情緒的に下から提供し続ける実際の私的家族も、戦前の民法らを参照すれば明白であるが、父たる家長の強権の下で家族構成員には恭順な上下支配の封建的人間関係が貫徹され、家族主義的国家観は公私に渡り一貫して強力に存在したのだった。

ここでは、各人が独立してあって内面の自由の権利が保障される近代的な個人主義的人間成立の余地はない。事実、明治維新から1945年の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に至るまで、いつの時代でも日本の近代天皇制国家下では、集団主義の家族主義的国家の思想が強固にあって、近代日本には各人の権利が保障された近代的な個人主義的主体は、ほとんど成立の余地はなかった。そのため、昔から日本人には人権や私的所有などの人間個人の権利に関する法意識は希薄であり続けたのだった。これらの問題指摘については、川島武宜の「日本社会の家族的構成」(1948年)や「イデオロギーとしての家族制度」(1957年)にて主に述べられている。

最後に、岩波新書の川島武宜の書籍として青版の「日本人の法意識」は、上記の(1)の「伝統的な日本人の法意識についての問題指摘」と、(2)の「日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判」を一冊の中で共に概論的に述べているので川島の数ある著作の中で非常にお勧めである。本書は川島武宜の代表作と言ってよく、世間的にもよく読まれている。あと川島武宜の弟子に渡辺洋三がいる。渡辺は川島の「日本人の法意識」に関する批判的考察を継承する法学者であり、川島法学の正統な後継者といえる。渡辺洋三も岩波新書から多くの自著を出している。「法とは何か」(1979年)、「日本社会はどこへ行く」(1990年)辺りが渡辺洋三の岩波新書の秀作であり、お勧めである。