アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(453)永六輔「大往生」

既刊の古典を中心とした「岩波文庫」に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的として1938年に創刊された「岩波新書」である。こうした日本で最初の新書形態となった長い歴史を持つ伝統ある岩波新書の中で、歴代で最高発行部数の新書、俗な言い方をすれば「これまでで、もっとも売れた岩波新書」は何だろうか。これについては、以前に「岩波書店調べによる発行部数ランキング」(2008年5月時点)が出されていた。それによると、

1位・永六輔「大往生」(1994年)239万部、2位・大野晋「日本語練習帳」(1999年)192万部、3位・清水幾太郎「論文の書き方」(1959年)145万部、4位・梅棹忠夫「知的生産の技術」(1969年)132万部、5位・井上清「日本の歴史・上」(1963年)114万部

歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位は永六輔「大往生」であり、2位以下を大きく突き放して200万部以上の断トツである。突出しての独走である。あまり人のこない過疎ブログであるが(苦笑)、「岩波新書の書評」など細々とやっている身としては、書籍の内容評価以前に歴代発行部数1位の本書を看過してやりすごすことなどできない。到底、本新書に触れないわけにはいかないのである。そういったわけで今回の「岩波新書の書評」では、これまでの岩波新書の中で最多発行部数を誇り最も売れた永六輔「大往生」を取り上げる。

岩波新書の赤、永六輔「大往生」について、「書籍の内容評価以前に歴代発行部数1位の本新書に触れないわけにはいかない」旨を先に述べたが、実際のところ本書に関して何かを語りたいほどの触手も伸びず、本新書に対する私の評価は全く高くない。正直読んで「かったるい」の思いがする。同時に「世間一般にウケがよい、人気でよく売れている本が、必ずしも内容的に優れた良書であり名著であるとは限らない」の冷めた思いも私は強く持つ。

「人はみな必ず死ぬ。死なないわけにはいかない。それなら、人間らしい死を迎えるために、深刻ぶらずに、もっと気楽に『老い』『病い』、そして『死』を語りあおう。本書は、全国津々浦々を旅するなかで聞いた、心にしみる庶民のホンネや寸言をちりばめつつ、自在に書き綴(つづ)られた人生の知恵。死への確かなまなざしが、生の尊さを照らし出す」(表紙カバー裏解説)

また岩波新書「大往生」の著者である永六輔(えい・ろくすけ)については、「1933年、東京浅草に生まれる。本名は永孝雄。早稲田大学文学部在学中より、ラジオ番組や始まったばかりのテレビ番組の構成に関わる。放送作家、作詞家、司会者、語り手、歌手などとして多方面に活躍。2016年に83歳没」

こういう言い方をすると、岩波新書「大往生」の著者の永六輔とその関係者、本新書担当の岩波新書編集部員、本書を愛読書にしている永六輔ファンの方々にお叱(しか)りを受けてしまうかもしれないが、本書はいうなれば「タレント本」である。字数が少なく余白も多い。著者の永六輔は実際にほとんど新たに執筆していない。永六輔による漫談風の発言・会話の書き起こしを集めたもの、あとは以前の新聞コラムや対談の再掲で本書は主に構成されている。

本書は、「現代人の現代的教養を目的」(巻末文「岩波新書を刊行するに際して」岩波茂雄)とするような従来の学術教養路線の硬派な岩波新書ではない。これはわざわざ岩波新書から出す必要はない。本書は特に岩波新書でなくてもよい。やはり永六輔「大往生」は内容がスカスカで薄い。著者のファンだけが喜んで手に取り読んで満足するような「即席にわかづくりのタレント本」の悪印象が、私には拭(ぬぐ)えない。

本書は全部で5つの章よりなる。「Ⅰ・老い」では、「人間、今が一番若いんだよ」といった本文にての永六輔の語りに「自身の衰えや老いを認めたくない年寄りの冷水」と軽く半畳を入れてみたり、「Ⅱ・病い」では年を取ってからの完治はあり得ない病気との根気の付き合い方や医者との日々の接し方を読んで自分のことに引き付けて考えたりして、「医師や看護師も完全善意のボランティアではなく半分は商売でやっているのだから、医師と患者の双方にそれぞれの言い分の立場はあるわな」と思うし、「Ⅲ・死」では「生まれてきたように死んでいきたい」などと永六輔から分かったような訳の分からないようなことを聞かされ、またまた軽く苦笑ということになる。「Ⅳ・仲間」では、私はまだ同年代の人たちが老いの死を迎える年齢に達していないのでよく分からないが、「将来、私もいよいよ老いて死を間近に意識する年齢になれば、同世代の親しい仲間や知り合いが亡くなる感慨とはこういうものなのか」と漠然と予測し思う。そうして「Ⅴ・父」では、「この本は、亡き父、永忠順(えい・ちゅうじゅん)に捧げる」とする本書刊行の意図を顧みて、「確かに人が未だ経験できない自身の死を考えるのに最も参考になるのは、他ならぬ自分の父母の死を見送った、その経験知見による。人は自分の両親の死から自身の死を事前に学ぶのだ」と私は深く納得する次第である。

本書タイトルである「大往生」は、著者・永六輔の友人であり仕事仲間であった作曲家、ジャズピアニストの中村八大と永との最後の共作仕事の歌詞に由来している。永六輔にとっての「大往生」、彼が望む自身の理想的な死とは以下のようなものであった。

「世の中が平和でも 戦争がなくても 人は死にます 必ず死にます その時に 生まれてきてよかった 生きてきてよかったと思いながら 死ぬことができるでしょうか そう思って死ぬことを 大往生といいます」(「永六輔と中村八大の最後の共作の詞」より)

「長寿を全うし長く生きた上で死ぬ」とか、「臨終間際に苦しむことなく安楽のうちに眠るように死ぬ」などではない。死の瞬間に「生まれてきてよかった、生きてきてよかったと思いながら死ぬ」ことこそ、永六輔にとっての「大往生」であったのだ。

岩波新書の赤、永六輔「大往生」は特に優れた内容の書籍でもなく、本書が岩波新書から出されるべき理由も特に見当たらない。むしろ「大往生」は、「現代人の現代的教養を目的」とするような、これまでの学術教養路線の正統硬派な岩波新書からは大きく外れた異質の岩波新書である。しかし、そうした本来の岩波新書カラーではない「異質の岩波新書」たる永六輔「大往生」が、歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位となり、200万部以上の大ヒットで売れに売れてしまうのだから世の中は誠に皮肉なものである。

事実、岩波新書「大往生」には「人間にとって死とは何か」などの実存的な鋭い哲学的問いや精密な宗教学的考察は皆無で、単に著者の永六輔による自身と近親の者や友人仲間の老いや病気や死についての、取り留めもない砕(くだ)けた与太っぽい俗な話と引用が長々と続くだけの内容てある。よくお年寄りが集まると「俺はこういうふうに死にたい」とか、「この前あった、かかりつけ医師との面倒」などを与太話めいて皆がさかんに繰り出したりするけれども、その話芸の話術を傍で長く聞かされている感触に本書の読み味は似ている。

岩波新書「大往生」のベストセラーの要因背景には、本書出版時の1990年代の時点で、すでに相当数のお年寄りがいて急速に高齢化社会が広がりつつある日本社会の中で、自身の老いや病気、そして自分や同世代の仲間の死に向き合うことを余儀なくされ考えざるを得ない、多くの人々の時代の社会の空気に上手い具合に乗った所に、歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位となり、200万部以上の人気爆発で異常に跳(は)ねた、永六輔「大往生」大ヒットの光景があるように私には思えた。

殊更(ことさら)に書籍そのものの内容が優れた良書の名著ではなくても、その本のテーマや書籍が持つ漠然とした雰囲気が、時代の社会の多くの人々の心持ちと何とはなしに一致していたり同じ方向を向いていたりしていることで予想外の異常人気で、その書籍が跳ねて大ヒットのベストセラーになってしまうことは、いつの時代にもあり得る。おそらく、岩波新書の永六輔「大往生」は、普段あまり読書習慣はないし岩波新書など読まないが、老いや病気や死を意識しだした多くの高齢者が購読し結果、その購買行動が伝播し増幅して売れに売れて大ヒットになったに違いない。そうした私の見立てである。