アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(466)五木寛之「日記」

以前に岩波新書に執筆し上梓して好評人気で跳(は)ねて、出版部数が伸びメディアにも頻繁に取り上げられ話題になったことを受けて、編集部依頼で岩波新書から連続して二冊目以降を出す運びになるも、前作が大ヒットの先例実績かあるため、「とりあえず今回も岩波新書から書いて出してもらう」の先行約束事項のみで、何を書くか・どのように書くかの企画の詰めがなされず、前作ヒットの功績もあり、編集部側が著者にあれこれ厳しい注文を出せなくて結果、執筆者へ企画進行がお任せの丸投げとなり、本作りに際していい加減な進行になってしまう、もしくは再度の岩波新書からの依頼に対し、執筆の当人にもう前回のようなやる気や執筆のネタがなくて、明らかな消化試合的作業の手抜き仕事の新著を出してしまう事態となり、それを読者が手に取り読んでガッカリしてしまうことは実はよくある。

今回の「岩波新書の書評」で取り上げるのは、そうした明らかな消化試合的作業の手抜き仕事、いかにも著者の熱意もやる気も何にも感じられない凡作で駄作な岩波新書の一冊である。岩波新書の赤、五木寛之「日記」(1995年)だ。

このようなことを書くと営業妨害となり、五木寛之本人や五木の関係者や五木寛之ファンや当新書を担当した岩波新書編集者から、お叱(しか)りを受けてしまうかもしれないが、やはりこうした手抜き仕事の岩波新書をわざわざ購入して読んではいけない。そもそも五木寛之は、そうした明らかな手抜き仕事で自著を上梓の一冊カウントをいたずらに重ねるべきではないし、岩波新書編集部も、この手のやる気のない手抜きの新書で既刊カタログ一冊分を安易に埋めてはいけないのである。

「一九四八年(十五歳)『…今是非ほしいもの。一、白ズボン 二、ラケット 三、風呂しき 四、自転車 みんな夢である』。一九六七年(三十四歳)『…コラム執筆…魚屋に寄りサバ二本求む…百グラム二十円にて二百二十円也』。身辺の出来事、友人たちや家族とのかかわり、読書の随想から旅の記録まで、五十年にわたって折にふれ書き綴(つづ)られた作家の日記」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の五木寛之「日記」の副題は「十代から六十代までのメモリー」である。本新書は、そのまま五木の「十四歳の日記(一九四七年)から六十二歳の日記(一九九五年)まで」が時系列で抜粋され、掲載されているだけだ(苦笑)。冒頭に「まえがき」のたった4ページを五木は新たに書き下ろしただけで、後は以前に書き留めた私的な日記の蔵出し掲載で早くも一冊完成してしまう。お気楽な手抜きで楽に一冊作ったな、五木寛之(笑)。

本論は、もともと私的につけていた個人の日記であるので、その日の天気、毎日の行動や支払い支出の細目(「電車賃十円。スケート代百二十円。映画代三十円」とか)、当日に食べたもの、購入し読んだ書籍、観た映画、その日に会った人などが、とりとめもなく記されている。巻末に何ら註釈も付されていないから、「この日、五木の記述に出て来るこの人物が一体どういう人なのか!?」(「井上君等と運動に行く」の井上君とは誰?「国武から手紙が来た」の国武とはどういう人物?)など、特に五木寛之に詳しくない私のような読者は読んでも全く分からない。また日記なので練りに練った金言や深い人生訓なども、めったに出てこない。こういった個人のとりとめもない私的な日記を読んで楽しいのは、日記を日々つけていて折に触れ、自身の過去を読み返す五木寛之本人か、五木のことが大好きで五木のことなら作品以外のプライベートなことでも何でも知りたいと思っている熱烈な五木寛之ファンくらいである。後は、五木寛之研究をなす研究者にとっての貴重資料になる程度か。

岩波新書の五木寛之「日記」(1995年)は、前年に五木が同岩波新書の「蓮如」(1994年)を出して、早くもそのわずか一年後に矢継ぎ早に連続して出されたものであった。確かに五木の岩波新書「蓮如」は.当時の「蓮如五百回遠忌法要」(1998年)の節目の一大イベント開催の時勢に乗り、売れに売れて話題の書となった。五木は前年に岩波新書「蓮如」を上梓して異常人気で跳ねたため、編集部依頼で岩波新書から連続して短期間で二冊目を出すこととなり、前作「蓮如」が大ヒットの先例功績があったため、「とりあえず今回も岩波新書から書いて出してもらう」の先行約束事項だけの見切り発車で、当の五木寛之も岩波新書に新作執筆の約束はしたものの、もう前回のようなやる気の熱意も執筆のネタもなくて、それで明らかな消化試合的作業な手抜き仕事の新作である今般の岩波新書の「日記」になった、そう私は推察する。

前に社会学者の富永茂樹が見事に指摘したように、毎日コツコツと日記を書き溜(た)めることは、毎回、内緒で密封された瓶詰めのジャムを少しずつ瓶容器に補充し続ける行為に似ている。日記を書き続けて、その都度、自身でこっそり読み返し、新たに書き加えたり記述修整したりするのは、密封された瓶詰めのジャムのフタを開け夜中に人知れず内緒で舐(な)めて、中身のジャムが減った分、これまた内緒でジャムを瓶容器に少しだけ補充しておく繰り返しの行為のようなものだ。自分で毎日、独り日記を付けて自身で日記を読み返し、こっそり時に書き加える。夜中に密封容器のジャムの瓶のフタを開け内緒でジャムを舐めて毎回、舐めて減った分のジャムをこれまた内緒で補充しておく「甘い」背徳の秘事のように。

日記をつけていること自体や日記の内容を決して誰にも知られてはならない。人知れず、こっそりやらなければいけない。自身の日記は他人にそう易々と見せてはいけない。ましてや日記を書籍にして、個人的私的な日記を公的に堂々と公開してはいけない、五木寛之のように(笑)。

私も日記に類する物、自身の個人的なノート─ 忘備録や毎日の反省、当面の計画と目標、自分の長所や短所や性格診断らの自己分析、楽しい旅の思い出、過去にお世話になった友人や知り合いの人たちこと、日頃の読書で気に入った他人の文章などを昔から一冊のノートに書き留め、日々繰り返し読み返しては後に新たに書き加えたり、記述修整したりして楽しんでいる。しかし、そうした日記代わりの個人的なノートは絶対に人には見せない。自分独りで書いて、繰り返し読んで何度も書き直しては読み返す。人知れず、こっそり味わう人生の甘美な楽しみである。