アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(468)岡本良一「大坂城」

大坂城は、戦国時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれた。大坂城は上町台地の北端に位置する。別称は「錦城(きんじょう)」。現在の大阪城は1930年代に再築されものである。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。また城址を含む一帯は大阪城公園として整備され今日、天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。

1583(天正11)年から1598(慶長3)年にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大阪城の遺構は、1620(元和6)年から1629(寛永6)年にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959(昭和34)年の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓(やぐら)や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。現在は、江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門や蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931(昭和6)年に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復元された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。

なお「大坂」の地名表記は「坂」の字が「土(ち)に反(そむ)く」で縁起が悪いことから、明治維新を境に以後「坂」を「阪」に変えて「大阪」になったといわれている。よって明治以前の城塞・城郭は「大坂城」とし、明治以降のそれは「大阪城」と表記するのが適切である。

以下、岩波新書の青、岡本良一「大坂城」(1970年)の記述に依拠する形で、築城から現代に至るまでの「大坂(阪)城の歴史」を書き出してみる。

1496(明応5)年・本願寺第八世・蓮如、石山(大坂)に坊舎を営む
1568(永禄11)年・織田信長、足利義昭を奉じて入洛す。このころ信長、本願寺に矢銭五千貫を課す
1580(天正8)年・本願寺、信長と和し、顕如、紀州鶯森に退く(3月)。教如、石山を退去。その直後、火を発して本願寺灰燼(はいじん)に帰す(8月)
1582(天正10)年・本能寺の変。信長自害す。山崎合戦。清洲会議により池田恒興、大坂を領す
1583(天正11)年・豊臣秀吉、大坂入城(6月)。大坂築城工事はじまる(9月)。天守台成る(11月)
1586(天正14)年・徳川家康、大坂城にいたり秀吉に臣従す
1598(慶長3)年・秀吉、伏見城に死す。これよりさき、大坂城外郭普請あり
1599(慶長4)年・豊臣秀頼、伏見城より大坂城に移る
1614(慶長19)年・大坂冬の陣(11月)。和議により外濠を埋める(12月)
1615(元和1)年・大坂夏の陣(5月)。大坂城落城し豊臣氏滅ぶ。松平忠明、大坂城主となり、市街地の再建につとむ(6月)
1619(元和5)年・幕府、忠明を大和郡山に移し、大坂を直轄地とす
1665(寛文5)年・天守矢倉に落雷し、これを焼く。以後再建のことなし
1845(弘化2)年・大坂町人らの御用金により、大修理はじまる(48年、修理全てなり旧観を復す)
1865(慶応1)年・将軍、徳川家茂、征長のため大坂入城
1868(明治1)年・幕軍、鳥羽・伏見に敗れて大阪城に拠(よ)る。長州兵来攻中、火を発して全城ほとんど焼亡す
1871(明治4)年・鎮台本部となる
1888(明治21)年・第四師団司令部本部となる
1931(昭和6)年・天守閣復興、城内の一部公園となる
1945(昭和20)年・空襲により京橋門その他、焼失す(6─8月)
1953(昭和28)年・一・六番櫓修復工事にはじまり、以来各所の修復あいつぐ(5月)。大手門その他一三棟、重要文化財に指定さる(6月)
1955(昭和30)年・城地一体特別史跡に指定さる

もともと大阪城址は、寺社権勢の浄土真宗の蓮如が営む本山、本願寺の地であったが(1532年)、武家勢力の織田信長が石山合戦にて本願寺教団を立ち退かせた後、かの地を支配した(1580年)。しかし、信長は本能寺の変にて自害し(1582年)、信長の跡を継いだ豊臣秀吉が大坂に入り、旧石山本願寺の規模を踏襲するかたちで大坂築城工事が開始された(1583─98年)。これが大坂城のそもそもの始まりである。秀吉没後(1598年)、伏見城と大坂城を拠点とし西国に権力基盤を置く豊臣政権は、主に東国支配をなした徳川の江戸幕府と対立することとなり、大坂冬の陣・夏の陣を経て大坂城落城とともに豊臣氏は滅亡する(1615年)。その後、江戸時代の徳川政権下で大坂は幕府の直轄地となり以後、大規模な大坂城再建工事が繰り返された。やがて幕末にて、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、敗走の幕府軍は大阪城を拠点に長州ら明治新政府と戦闘するも、旧幕軍は敗北(1968年)。後に大阪城は明治政府の公地となり、鎮台本部や帝国陸軍師団司令部本部が大阪城址に置かれた。さらに昭和に入ると、国により天守閣復興や城内の公園整備らがなされたが(1931年)、太平洋戦争時の空襲により、大阪城は多くが焼失(1945年)。戦後に修復工事がなされ、大阪城は重要文化財に指定された(1953年)。以後、城址周辺は大阪城公園として整備され、また博物館「大阪城天守閣」も開設されて今日に至る。

1583年から98年にかけて豊臣秀吉が最初に築いた大坂城の城塞ないしは城郭もしくは城址は以後、改築と復元とを繰り返し連続して途切れることなく今日までいつの時代にもあった。ただ大坂(阪)城をめぐる、時の政治権力者や城主や城跡管理者が時代とともに様々に目まぐるしく移り変わっていっただけである。築城と改築、そして老朽と焼失(合戦や落雷や空襲によるもの)、その後の補修と復元、さらには整備と展示といった築城から今日にまで至る「大坂(阪)城の歴史」を概観するだけで私は胸が熱くなる。特に大坂冬・夏の陣にて反・徳川の位城で豊臣政権の象徴であった大坂城が、その後、わずか250年後に今度は逆に徳川幕府側が明治新政府と戦う際の根城の拠点になるとは、「数奇なる歴史の運命の皮肉」といったものを私は感じずにはいられない。

岩波新書「大坂城」の著者である岡本良一は、1942年から大阪市職員で大阪城天守閣に勤めて、大阪城主任として1968年に退職するまで26年間の長きに渡り大坂(阪)城に関する文献研究や遺構発掘に尽力した。氏は大坂(阪)城の研究家として知られた人であった。後に大阪市史料調査会理事や堺市立博物館館長の職も歴任している。研究者向けの専門的な学術論文の執筆や大学での講義ではなくて、日頃から一般市民に向けて大坂(阪)城の歴史を説いていた著者は、本新書にても極めて簡潔で平易な解説をなしており、まさに「市井(しせい)の歴史学者」といえる。短くも的確でキレのある著者の本書での記述は読んで相当に読み心地が良い。

岩波新書「大坂城」は全11章からなり、安土桃山時代の築城から戦後昭和の現代までの約400年間に渡る大坂(阪)城の歴史を時系列で一気に書き抜いている。その中でも中途の「労働力の組織化」の章では、改築時に徳川幕府が全国の大名に宛てた「割普請」(わりぶしん・「普請」とは「普(あまね)く請(こ)う」の意味で、為政者が各種の土木工事を人民に請け負わせること。分「割」して複数の集団に分担で請け負わせることを特に「割普請」という。近世江戸にて割普請の方式は、各大名の幕府への手柄実績の取り合い、忠誠競争を煽(あお)ることにつながり、効率的な労働力集約の方法として城普請(築城・改修)に際し、この割普請方式が一般的であった)の「労働力の組織化」の話や、当時の現場人夫の就労規則の詳細、武家の大名のみならず町人にも割り当てられた「町人請負」の実態などは誠に興味深い。同様に「築城の技術」の章においても、全国からの石の調達ならびに大坂への大石の運搬、そうして強固な石垣築造技術の話は読んで実に面白い。例えば「大坂城の石垣の堅固さ」についての、以下のような本文記述である。

「これだけ頑丈に造られていると、滅多なことでは崩れない。過般の戦争中、空襲による直撃弾をうけて、さすがに頑丈なこの城の石垣も数か所破壊されたのであるが、そのさいもけっして土崩瓦解というような無残な崩れ方ではなくて、石垣の姿を保ったままずり落ちるという崩れ方である。この城の石垣はたんに外観だけでなく、堅固さにおいてもおそらく他にその比を見ないものであろう」(「第10章・築城の技術・4・根石と鉛ちぎり」)

私も大阪城に関しては、以前に隣接の大阪城ホールにコンサートのためによく足を運んだし、その前後には敷地内の大阪城公園を散策したり、大阪城周辺の街で食事をして遊んだ懐かしい思い出が多くある。本新書を携帯して時折、読み返しながら大阪城公園を散歩し大阪城天守閣に登って観光してみたいと思わせる爽(さわ)やかな名著である、岩波新書の青、岡本良一「大坂城」は。

「いまもなお雄大な石垣を残して当時の規模をしのばせる大坂城─ここを舞台としていかなる戦乱の物語が展開され、民衆の血と汗が流されてきたのだろうか。著者は、大坂城に勤務した二十数年間の研究成果を集約して、本書をまとめた。秀吉の築城、豊臣・徳川の攻防、江戸時代の改築から今日までの歴史、さらにその築城技術まで語る」(表紙カバー裏解説)

(※岩波新書の青、岡本良一「大坂城」は近年、「岩波新書の江戸時代」として改訂版(1993年)が復刻・復刊されています。)