アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(471)メチニコフ「近代医学の建設者」

私が住んでいる街には、私が気に入った古書店が何件かある。私は定期的にそれら古書店をひやかし半分で覗(のぞ)き、時に古書を買い求めたりするのだが先日、その内の一軒(カモシカ書店!)を覗いたら店頭の特価本の棚に戦前の岩波新書の旧赤版、メチニコフ「近代医学の建設者」(1944年)があったので、つい購入してしまった。缶コーヒー二本分のツーコイン程度のかなりの安価であった。

日本で初めての新書形態をとった、日本で画期の新書創始である岩波新書の創刊は、戦前の1938年である。1938年の創刊から始まり今日までに至る長い「岩波新書の歴史」にて、その困難の苦境の時期は間違いなく1945年前後の日本の敗戦時にあった。岩波新書総目録にて1945年前後の出版状況を見ると、1943年で赤版の橘樸(たちばな・しらき)「中華民国三十年史」の1冊のみ。1944年には荒川秀俊「戦争と気象」とメチニコフ「近代医学の建設者」のたった2冊だけ。1945年の敗戦の年は刊行なし。敗戦翌年の1946年は、羽仁五郎「明治維新」と矢内原忠雄「日本精神と平和国家」と近藤宏二「青年と結核」のやっと3冊の刊行にこぎつけるも、翌年の1947年と翌々年の1948年はまたもや刊行なし。そうして1949年に赤版から青版に移行し年20冊以上の通常刊行ペースとなり、戦後に岩波新書はやっと本格的に復活を遂げるのであった。

戦中の岩波新書の赤、橘樸「中華民国三十年史」(1943年)は、当時の大日本帝国の中国大陸侵出の国策に沿った内容書籍であり、満州事変での関東軍の行動を支持して「王道論」を唱え、満州国樹立を理論面から支援し続けた橘による「いかにも」な日本人寄りの、中国人を軽視した完全に日本人本位で日本国にとってのみ都合のよい噴飯物の「中華民国史」であるし、翌年の敗戦前年に至っては、荒川秀俊「戦争と気象」(1944年)とかメチニコフ「近代医学の建設者」(1944年)の暗に戦争協力の「気象」か、もしくは戦局とは無関係の無難な「医学」の書籍しか岩波新書は、もはや出せなくなっていた。

いよいよ追い詰められた十五年戦争末期の連日の本土空襲により、国民一般は書店に行って書籍を購入し読書するような生活環境になく、この時期には国家当局による出版統制の思想検閲は、より狂信的に苛烈を極めていたであろうし、かつては戦時でも羽仁五郎「ミケルアンヂェロ」(1939年)やウェルズ「世界文化史概観」(1939年)など、芸術論や世界文化史の外面的体裁を借りながら実は中身が確固とした、戦争に邁進する現実日本の挙国一致内閣の近代天皇制国家に対する痛烈批判になっており、検閲の国家当局は気づかないけれど、読む人が読めば著者や訳者の執筆意図や岩波新書編集部の刊行本意が分かるような、戦時下抵抗の余力も1945年前後の岩波新書には残っていなかった。瀕死の状態であり、まさに「傷だらけの」戦時下日本の出版文化であって、「岩波新書の困難の苦境の時期は間違いなく1945年前後の日本の敗戦時にあった」といえるのである。

1938年の創刊から2000年代以降の現在に至るまでの長い「岩波新書の歴史」たる刊行新書の総目録を見るにつけ、敗戦前後の苦境の時代と今日の出版盛況のそれとの対比(コントラスト)が明確に意識され、私には感慨深い。

さて、メチニコフ「近代医学の建設者」は、副題が「パストゥール、リスター、コッホ」である。著者のメチニコフはロシアの微生物学者および動物学者で、彼は白血球の食作用を提唱して免疫系における先駆的な研究を行った人である。本書にて「パストゥール、リスター、コッホ」の三人をして、「近代医学の(偉大な)建設者」とする旨である。医学関係者だけが分かるような、数式や化学式や難解な用語を使った医学的に専門な話ではなく、パスツール、リスター、コッホの各人による近代医学確立の功績を平易に述べている。前半は、パスツール、リスター、コッホ各人の「近代医学の建設」への功績を明らかにした公的記述であり、後半はメチニコフが実際に彼らと交流した際の私的な思い出の回想で構成されている。

以上のことはメチニコフ「近代医学の建設者」を翻訳した宮路重嗣による「序」の記述に拠(よ)れば、

「メチニコフは小露西亜のハリコフ州に生れ、ハリコフ大学を卒(お)へ、独逸および伊太利に学び、後オデッサ大学教授となり、またオデッサ細菌研究所長となつたが間もなく之を辞し、パストゥールの知遇を受け、パストゥール研究所の創立以来その逝去に至るまで、約三十年間同研究所に在つて幾多不朽の業績を公にした。氏は最初動物学者殊に発生学者として、次いでメッシナに於ける海星の幼虫に就ての実験的研究から食細胞説を発表し、爾来一躍病理学者殊に免疫学者として一世を指導した。本書に於いて記載せらるるパストゥール、リスター及びコッホに関する思ひ出は、著者が親しく三碩学に接して経験したる追憶談で、他の伝記類に見ざる興味深い読み物である」

ということになる。

近代医学が成立し発展する以前は、病原菌の存在そのものが知られておらず、またその概念もないから、昔は発病した患者や近親の者は「神罰」とか「悪魔の祟(たた)り」とか「劣性遺伝」といった非合理解釈によって、共同体から過酷に弾圧されたり、不当な差別を被(こうむ)ったりした。そうした病気をめぐる人間社会の負の歴史の前近代を経て、それから医学が少し進むと、医術とは症状の把握、診断の実施、臓器の病的変化の経過観察に没頭するものとなった。この後、疾病の本質は生体を構成する各細胞の異常な働きであるとする「細胞病理学」の成立・発展へと進む。

近代医学ではより合理的に、どこまでも最小の物質的な因果にて発病・罹患の原因を求めて、その物理的原因の発病システムの解明・理解と、この治験に基づく物理的原因の除去に努めることで病気の治癒と健康体への回復をなす。それこそが「近代医学」であった。そうした近代医学の最大の特徴は、細菌やウイルスのごく微小なものの定義付けとその発見ならびに操作処理という治療に際しての活用である。これには微小であるがため肉眼把握の目視が困難であった細菌の確認を可能にする、精密機器の顕微鏡の開発とともに各種の化学(反応)検査の確立普及があった。これこそが、それまでの非合理な遺伝とか、臓器の病的変化の静的な経過観察に終始していた前近代の医学とは異なる、「近代医学の建設」の画期の内実であった。

以上のような事柄が、だいたいの本書の話の骨子であり、中心の論述の流れである。このことを事前に頭に入れて岩波新書「近代医学の建設者」に当たれば、大した読み間違えもなく比較的スムーズに本論記述に入っていけると思う。

それにしても岩波新書のメチニコフ「近代医学の建設者」は、昔の古い書籍であるので本書の内容に関し、現代に読む者には明らかに不適切な医学的偏見、執筆時の時代に広く共有されていたであろう差別的な言説も時に見受けられる。例えば以下のような「最初に生まれた兄は弟妹たちより虚弱で、死亡率や犯罪率も多い」と断定する本文記述である。

「私が集めることの出来た資料によると、天才といふものは第一子には稀であるやうに思はれる。最初に生れた兄は一般にその弟妹たちより虚弱で、死亡率や犯罪率も多いが、第一子以下に屡々(しばしば)天才が生まれてゐる」(82・83ページ)

これが現代の書籍であれば、こういった差別的事柄を憚(はばか)ることなく書く人はいないだろうし、そうした差別的偏見にいまだ捕らわれいて、このようなことを自著に書き入れようとする人が仮にいたとすれば、編集部からの事前のチェックの指摘で修正・削除させられるか、もしそのまま出版されてしまった場合には後日に回収の即絶版で、著者と出版社は社会的に公的謝罪に追い込まれることになるだろう。 たとえ客観的な統計のデータで出たとしても、そういった「最初に生まれた兄は弟妹たちよりも犯罪率が高い」とするような差別的言辞を弄(ろう)してはいけない。

(※ 例えば「長男は犯罪率が確率的に見て高い」といった客観的には正しい統計データが出たとして、そのことを公に言い募(つの)ることは、結果として「長男への警戒や排除」を促す差別的で反倫理の言説に人々の間で自動的に変換されてしまう。つまりは「××は犯罪率が高い」とか、その他「××の地域は犯罪発生率が高い」「××の国籍・民族の人はトラブルを起こすことが多い」などの型(フレーム)の言説そのものが、たとえ統計上、客観的な事実で「正しい」情報データであったとしても、それ自体が差別や偏見の問題をはらむものであり、問題なのである)

今日でもヘイトスピーチやいじめ発言に際して、「これは差別やいじめではない。単に客観的事実を述べただけ」と時に開き直る人がいる。しかし、言説の適切さは、客観事実に適合するか否かの正誤性の問題にのみあるのではない。たとえ客観事実で正確な事柄の指摘であっても、相手を不当に傷つける差別的で反倫理的な言動は社会的に常に慎まれなければならない。

以上のような点も加味して、あくまでも話半分で時に批判的に軽く流して読む機転も、戦前に発行のメチニコフ「近代医学の建設者」には必要であろう。

本書はメチニコフの著作の翻訳であるが、その原書を執筆したメチニコフ(1845─1916年)はロシアの微生物学者および動物学者であった。そして本書にてメチニコフにより述べられている「近代医学の建設者」の各人は、パスツール(1822─95年)がフランスの生化学者かつ細菌学者であり、リスター(1827─1912年)がイギリスの外科医であって、コッホ(1843─1910年)がドイツの医師であり細菌学者なのであった。このように各人が異なる出身母国の医学者でありながら、特にメチニコフはパスツール研究所に後に招かれ、各々の国籍を超えた所での、ある種のコスモポリタニズム(世界市民主義的)な、互いに自国に執着で排他・敵対的にならずに細菌学や免疫学確立の見地から近代医学の発展に共に邁進し尽力していた点は非常に興味深い。

またメチニコフ「近代医学の建設者」の原書は、第一次世界大戦の勃発にて、当時パスツール研究所の副所長であったメチニコフが戦時下の統制で研究機関の活動停止を余儀なくされた困難な状況を受けて、近代医学の発達の経緯とパスツールを始めとするリスターやコッホら各人との交流の思い出を戦時に、まとめたものだという。そうした第一次大戦の戦時下、国家の統制にて自由に医学の本格研究ができなかった不幸な時代に、国家を超越するコスモポリタニズム(世界市民的)な志向を有する医学者のメチニコフにより執筆された本書「近代医学の建設者」が、同様に十五年戦争末期の国家による厳しい日本の言論統制下にて、翻訳され戦時の日本で数少ない岩波新書として世に出されたという符号も今にして思えば、なかなか意義深いものがあるともいえる。

私が購入した、岩波新書のメチニコフ「近代医学の建設者」は(おそらく)1944年発行の初版である。表紙の肝心のタイトル文字印字は配列が左右逆であるし、戦時に発行のためか紙質がかなり悪く、総ページ数も174ページと新書としては200ページにも満たず紙数は少ない。本書には奥付(おくづけ)もない。戦時中で書籍用の紙を確保するには当時、非常な苦労があったと思われる。本書発行の1944年は日本の敗戦の一年前で戦況は日本には圧倒的不利の敗北間近であり、特に対米英の太平洋戦争下にて学徒出陣が開始され学生は本を読んで勉学に励むといった状況にはなく、国民の多くが生活困窮で疲弊する相当に困難な時代であった。当時の日本人は生きることに必死で、もはや読書どころではなかったのである。そうした文化的に極めて困難な危機の時代に出された書籍である、岩波新書の赤、メチニコフ「近代医学の建設者」は。

(※岩波新書の赤、メチニコフ「近代医学の建設者」は後に岩波文庫(1968年)から復刻・復刊されています。)