アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(477)中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」

岩波新書の青、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」(1966年)は、しばしば実施される岩波新書の推薦書目のアンケート企画にて「必ず読んでおくべき名著」として昔から毎回、挙げられる定番で有名な書籍である。本書の概要はこうだ。

「野生時代のものとは全く違った存在となってしまった今日のムギやイネは、私たちの祖先の手で何千年もかかって改良に改良を重ねられてきた。イネをはじめ、ムギ、イモ、バナナ、雑穀、マメ、茶など人間生活と切り離すことのできない栽培植物の起源を追求して、アジアの奥地やヒマラヤ地域、南太平洋の全域を探査した貴重な記録」(表紙カバー裏解説)

本書は全部で7つの章よりなる。

「Ⅰ・栽培植物とは何か、Ⅱ・根菜農耕文化(バナナ・イモ)、Ⅲ・照葉樹林文化(クズ・チャ)、Ⅳ・サバンナ農耕文化(雑穀・マメ)、Ⅴ・イネのはじまり(一0億の食糧)、Ⅵ・地中海農耕文化(ムギ・エンドウ)、Ⅶ・新大陸の農耕文化(ジャガイモ・トーモロコシ)」

冒頭に「栽培植物とは何か」、つまりは「野生植物とは異なり、『栽培』や『農耕』の人間の行為が加わって、利用可能部分の収穫部の増大や植物自体の大型化や生育環境への適応を遂げたり、人による農耕作業の効率化を促すもの。また人間による栽培環境下でなければ生育存在できない植物種のこと。人間の食糧になりうるよう長年に渡り人為の下で改良され栽培された、イネやムギなどの現在の品種が栽培植物の典型」という旨の栽培植物に関する定義の総論を置き、その上で第Ⅱ章以降の各章でそれぞれ各地域の代表的な栽培植物について現地調査での著者の体験も交え具体的に論ずるという展開にて、非常にバランス良く周到に記述されている。

まず「Ⅱ・根菜農耕文化」では、フィリピンや南太平洋沿岸および島嶼部ら東南アジア地域の農耕起源を扱い、その際の栽培植物の品目はバナナとイモである。続く「Ⅲ・照葉樹林文化」ではヒマラヤ・ブータンと中国南部・朝鮮・西日本の東アジア地域のそれであり、栽培植物の品目はクズと茶である。そして「Ⅳ・サバンナ農耕文化」では、アフリカからネパール・インドの西アジア地域にかけての農耕起源とその西域伝播を考察し、雑穀と豆の栽培植物について述べている。「Ⅴ・イネのはじまり」では、「一0億(人)の食糧」として今日まで人類の主な主食の一つになっているイネの栽培植物を、アフリカ系とインド・東南アジア系の二つの栽培イネの起源に求め解説している。そうして「Ⅵ・地中海農耕文化」では、ギリシア、エジプト、オリエントら地中海沿岸地域の農耕起源をムギとエンドウの栽培植物を通して、同様に「Ⅶ・新大陸の農耕文化」では、今度は北アメリカと南米の「新大陸」地域の農耕起源として、ジャガイモとトウモロコシの栽培植物について、それぞれに考察がなされている。

著者の中尾佐助は「照葉樹林文化論」(日本人の生活文化の基盤は、ヒマラヤ、ブータン、中国南部、台湾、西日本に渡り半月弧状に植生する照葉樹林地域と共通の文化圏に属するという説)を提唱して、その体系化に昔から尽力した人なので、岩波新書「栽培植物と農耕の起源」でも、「Ⅲ・照葉樹林文化(クズ・チャ)」の章に著者の筆の力が強く込められているように読み取れる。本新書ではこの「Ⅲ・照葉樹林文化」の章を特に精読するべきだと私は思う。

本書を一読すればわかるが、人類における「栽培植物と農耕の起源」を概説するに当たり、ちょうど上手い具合に世界各地に起源の農耕地域をまんべんなく等価に散らして、またその栽培食物の品目も複数挙げて世界的な規模で考察し論述されているのだ。この点は、あらかじめの著者による本書構成の妙であり、各章立てが非常にバランス良く周到に配置されている。著者のこの周到さにより、例えば「今日の人類の文明はヨーロッパ発祥で欧米人が主に築いた」旨のヨーロッパ中心主義史観や、「弥生時代以降の本格的な水稲稲作の開始を以て日本人は米生産中心の勤勉な農耕民族であった」とするような日本人=稲作文化の単一農耕民族説を原理的に排することができている。岩波新書「栽培植物と農耕の起源」をして、「ヨーロッパ中心主義を打破した多元的歴史叙述」とか、「日本という一国史の単一民族史観の自民族中心主義を相対化するもの」などと昔から好意的に評される所以(ゆえん)である。

こうしたある特定地域の起源中心史観や特定の国家・民族の称揚の歴史語りをある程度は相対化して無効にできるのは、著者である中尾佐助の本新書内でのあらかじめの章立てと論述の周到さに依(よ)るものも確かにあるが、著者の中尾が専攻している農林生物学の、中でも特に遺伝育種学や栽培植物学という学問自体の性格が、そもそもそうした地域中心史観や国家・民族の称揚の歴史語りを相対化しうる普遍的で多元的な価値意識に基づく学術研究であるからに他ならない。

例えば麦の栽培と発展は、なるほど地中海農耕文化により、古代オリエントとギリシア・ローマ地域で発生し、この農業文化が発展して、ある時代には地中海沿岸地域で古代ヨーロッパ文明が非常に栄えたことは事実である。しかし同時に他地域でも、例えば東南アジアでは同様に根菜農耕文化としてバナナやイモの栽培がなされ文化の中心として隆盛を極め、同時期に別の農耕文化圏として多元的に並列して存在していたのだった。同様に稲の栽培に関しても、何も弥生時代以降の日本人だけが独占して模範勤勉的に稲作を行っていたわけではない。元は米作の水稲栽培の品種と技術は遠くインド・東南アジアから伝播し、後に東アジアの日本にまでもたらされたのであって、ここから特定の地域国家や民族のみを無駄に称揚する排他的な自民族中心主義の一国史観は誤りだと明確に分かる。

「栽培植物と農耕の起源」は、ある特定地域が起源であっても、そこから近接の各地域へ次々と伝播し、その伝播の過程で栽培植物の品種は変容し、やがては改良されて他地域や他民族や他国家へと広く普遍的に広がりを見せるものである。ちょうど起源地域の優越性やある民族や国家の独占栽培の枠を超えて、それら起源や民族や国家を根こそぎ相対化しながら無化していく形で。本書で使われている農林生物学の、中でも特に遺伝育種学や栽培植物学という学問の基本的性格が、そうした特定地域中心史観や民族・国家の称揚の歴史語りを相対化しうる普遍的で多元的な価値意識に基づくものであることに何よりも留意されたい。

加えて、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」を読む際には、例えば「Ⅳ・サバンナ農耕文化」とあって、アフリカからネパール・インドの西アジア地域にかけての「農耕の起源」とその西域伝播として雑穀と豆の「栽培植物」など、発生起源の地域と栽培植物の品目の詳細にのみ気を取られることなく、本書の論述全体を貫く、必ずしもまとめて明瞭に書かれてはいないが、本論記述の行間からにじみ出る以下の旨の著者・中尾佐助による遺伝育種学、栽培植物学専攻の学者の立場からする静かな、しかし並々ならぬ怒りの筆致をぜひ読み取ってもらいたい。すなわち、

「お前らは、文明の発祥や発展といった場合、すぐに芸術や美術や文学や工業技術の原子力工学らを思い浮かべて主に述べるけれども、植物栽培と農耕も人間の手による立派な人為の文明であるのだ(怒)。今日まで長く広範囲に栽培され人々に食されている、例えばバナナや麦や茶が最初から今のような品種の形態で人間が手を加えずとも、勝手に自然に豊かに繁茂していたなどと、まさか思ってはいないだろうね。そんな人間の食糧に給するよう都合良く地球上の植物はもともとはじめから出来てはいない。あれは最初に野生植物としてあって、その後に数千年以上の相当な長い年月を経て、人による種子の厳選や植物の植え替え、他地域への持ち込みの伝播とそれに伴う品種の改良や植物自体の環境適応、人による初期農業の工夫の成果として、つまりは『栽培』や『農耕』の人間の行為が加わってはじめて、利用可能部分の収穫部の増大や、また人間による栽培環境下でなければ生育存在できない植物種の出現など、人間の食糧になりうる現在の品種の栽培植物に至るのだ。農業というのは『アグリカルチャー』で『カルチャー(文化)=耕す』の意である。農業作物は、何も勝手に自然に生育し繁茂して人間の食に供するよう最初から最適化されて存在していたわけではない。そこには『栽培』と『農耕』という長い間の継続人為的な確固とした人間の文化的営みがあるのだ。そのことを意識して、文明の発祥や発展といったら芸術や美術や文学や工業技術の原子力工学らのみを安直に思い浮かべずに、それ以外にも植物栽培と農耕も、同様に人間の手による立派な人為の文明であることに早く気付けよ!」

というような。もちろん、こうしたことは直接に本書に文章として書かれてはいない。そして、中尾佐助は立派で常識ある大人な方であるから、このような乱暴な言葉遣いで、もちろん述べてもいない(笑)。だが、こうした内容の著者の静かで強い怒りの感情を察して知ることが、本書が本当に読めているかどうかの一つの試金石というか、ここが本書の読みの落とし所の一つであるという気が私はする。

岩波新書の青、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」に関しては、「イネをはじめ、ムギ、イモ、バナナ、雑穀、マメ、茶など人間生活と切り離すことのできない栽培植物の起源を追求して、アジアの奥地やヒマラヤ地域、南太平洋の全域を探査した貴重な記録」ということから、稲や麦やイモやバナナら各栽培植物の起源と伝播と改良の詳細を本書を通し生物科学的・歴史地理的に知ることは確かに大切である。だが、そうした詳細の細かい眼目にのみ拘泥(こうでい)してはいけない。より広い視点で本書の記述全体に通底して流れる「植物栽培と農耕は人為による確固とした人間の文化的営み」とする主旨の著者の本意の思いに気付き、読み取ることが必要だ。