アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(478)佐藤正午「小説の読み書き」

「昨今活躍の人気作家が、自身が昔に読んだ文学作品の名著を岩波書店の月刊誌『図書』にて毎月紹介していく書評連載企画を後にまとめた岩波新書」という点で、岩波新書の赤、佐藤正午「小説の読み書き」(2006年)は一読して、同岩波新書の柳広司「二度読んだ本を三度読む」(2019年)とその読み味は似ている。

柳広司は「黄金の灰」(2001年)でデビューし、後に「ジョーカー・ゲーム」(2008年)らのヒットを飛ばした人気作家である。岩波新書「二度読んだ本を三度読む」は、柳による岩波書店の月刊誌「図書」での2017年10月号から2019年2月号までの小説紹介の連載を後に一冊にまとめたものであった。同様に、佐藤正午は「永遠の2/1」(1984年)でデビューし、近年では岩波書店から「月の満ち欠け」(2017年)を出して、本作「月の満ち欠け」は映画化もされた(2022年)。岩波新書「小説の読み書き」は、その佐藤による岩波書店の月刊誌「図書」での2004年1月号から2005年12月号までの書評連載(「書く読書」)を一冊の新書にまとめたものだ。

ただし、佐藤正午「小説の読み書き」と柳広司「二度読んだ本を三度読む」は一読、両書の読み味は確かに似ているけれど、著者が目指すところの内容はそれぞれに多少異なっている。ここで二冊の岩波新書のタイトルをよく見較べて頂きたい。柳広司の「二度読んだ本を三度読む」は、題名の通り文学作品を「読む」ことだけに集中した書評連載だが、他方、佐藤正午の「小説の読み書き」は、文学作品の「読み」に加えて「書き」にも着目した日本近代文学の文章に特化した内容になっているのだ。岩波新書「小説の読み書き」の元の連載時の原題は「書く読書」であって、この連載で佐藤正午は小説を「読む」ことよりも、それがどのように書かれているか、「書き」の文章に内容を絞って考察した文章読本的な連載であった。

佐藤正午「小説の読み書き」は読んで正直、私には面白くなかったし、あまり感心もできなかった。このように書くと著者の佐藤に失礼かもしれないが、この人は小説家であり、プロの現役作家であるにもかかわらず、当人の日本語文法・修辞に関する元々の知識と力量のなさに加えて、そもそも毎月連載で短期間で一気に日本近代文学の各作品の文体・修辞に関する気付きや発見の理論を、しかも優れて読者を毎回感心させて唸(うな)らせるような傑作な文体書評を通常、人はそう簡単には連発できないものである。

佐藤正午「小説の読み書き」は、初回の川端康成「雪国」から始めて夏目漱石「こころ」や三島由紀夫「豊饒の海」らを経て、最終回の自作の佐藤正午「取り扱い注意」まで全24作品に関する文章論を展開させている。しかし中には、かなり怪しい文体分析や真面目に参照するに値しない、どうでもよくてつまらない瑣末(さまつ)な文章読本的な話の回も多く、読んで私にはかなり辛いのであった。

話が抽象的すぎる。ここで本新書の内容を詳しく述べると「ネタばれ」になってしまい著者の佐藤正午と本書担当の岩波新書編集者には申し訳ないが、全24回に渡り展開されている本書内での文章書評の中の一つだけ以下に詳しく紹介しよう。

「小説の読み書き」に林芙美子「放浪記」(1930年)を扱った回がある(79─91ページ)。そこで著者の佐藤正午は以下のような林芙美子の文章をして「(私はこの書き方が)気になって仕方がなかった、というよりも正しくは、気に障(さわ)って仕方がなかった…つまりその種の書き方に対して全否定的で、書き手たちに対して苛立(いらだ)っていた」と批判的に断ずる。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、いまは切ない私である」(林芙美子「放浪記」)

林芙美子「放浪記」作中でのこの文章に対し、佐藤正午は書く。「ふつうなら引用の文は『私はいま切ない』または『いまの私は切ない』と結ばれるところだろう。しかし、この作品には…こういった『いまは切ない私である』のような、ふつうの感覚から言えば転倒した表現が好んで用いられている」。そうして本来は「私はいま切ない」もしくは「いまの私は切ない」であるべきところを、わざわざ「いまは切ない私である」とするような「ふつうの感覚から言えば転倒した表現」を林芙美子を始め、今日では多くの人が用いている現象由来について、著者なりのあれこれ推察の分析を披露している。例えば、

「いま問題にしているスタイルは、人が自然に話すようには書かれていない。私はいま切ない、とは人は話すかもしれないが、いまは切ない私だ、とは話さない。少なくとも僕の感覚では話せない。林芙美子は話さずに歌っている。歌うように書いている。散文の中へ詩歌の文体を紛れ込ませている」(85・86ページ)

と解釈するような「散文の中に詩歌の文体を取り入れた」説。他にも、この文を厳密に書けば「私はいまは切ない私である」と本来するべきところで、

「(『私はいまは切ない私である』では)つまり主語である『私』がダブっている。そのダブっている主語が林芙美子の文では省略されているのだが、僕のような読者には(無意識に頭の中で補足して)読み取れる。だから僕も含めて中にはこの種の書き方に違和感をおぼえる人がいる。そうかもしれない」(88ページ)

とするような、後に出てくる「私である」の「私」とダブるので本来最初に置くべき「私は」の主語を故意に省略している説。そのため「(僕のような読者には)日本語の文に主語がないと居心地が悪いと感じる」など。こうしたいくつかの自説の「理屈」を展開させた後に佐藤正午は以下のように結ぶ。

「いずれにしても、ここで一つ認めておかなければならないのは、当時の僕が、『いまは切ない私である』のような書き方が気になって仕方がなかった、というよりも正しくは、気に障って仕方がなかったという点である。つまりその種の書き方に対して全否定的で、書き手たちに対して苛立っていた。いったいどこからそんなものを見つけてきて便利グッズみたいに自在に使いこなしているのか。もしかして誰か偉大な先人に敬意を払い、その仕事を継承しようと努めているのか。それともアナウンサーの読みあげるニュース原稿のまねをして面白がって使っているだけなのか?できればはっきりしてほしい。ほんとうに、僕にはわからないから教えてほしい」(佐藤正午「小説の読み書き」90ページ)

本書を読むまで私は、「いまは切ない私である」とする書き方に特に違和を感じることはなかったし、それまでこの種の問題について私は真剣に考えたこともなかった。「私はいま切ない」と普通に書いて発言するが、時と場合によっては「いまは切ない私である」とも書いたり発言したりすることは私の場合、日常的に普通にあり得る。「いまは切ない私である」と書くことに、佐藤正午とは違って私は何ら抵抗や否定的な苛立ちの感情を持たない。そして「私は××である」記述が、なぜ「××な私である」というような「転倒した表現」に時になるのか、その背景と理由を私は即座に指摘しうる。

(1)強調したい語句と文意のために文章の語順をわざと変えており、その結果「私は××である」記述が、「××な私である」という「転倒した表現」に必然的になった。

日本語でも英語でも、どの言語も強調したい語句を倒置を用いて文頭に持って来ると強調の文意になる。「私はいま切ない」と「いまは切ない私である」とでは、強調したい語句並びに意味の力点が異なり、ゆえに意味内容の細かなニュアンスも違ってくる。「私はいま切ない」を、わざわざ「いまは切ない私である」とするのは、「いまは切ない」の文頭にある倒置された一連の語の意味内容が殊更に強調されて、「今まさに私は切ないのだ、私は切なさの渦中に今まさにいるのだ」という意味になる。この意味内容の観点から、単に「私はいま切ない」と書く場合と、かたや「いまは切ない私である」とする際の文意の強調力点の内容の違いを確認してもらいたい。

また「いまの私は切ない」と「いまは切ない私である」とでも、同様に意味内容の強調力点の相違がある。「いまの私は切ない」とせず、「いまは切ない私である」とあえてするのは、「いまは切ない私である」とする「××な私である」といった、文後の「私」という名詞に文頭の「いまは切ない」の形容詞が連用修飾で係る文の構造(「いまは切ない私」=「形容詞+名詞」)は、「いまは切ないが、時間の経過と共にやがては切なくなくなる私」といった、「いま以降は切なくない私」の「形容詞+名詞」の同じ対比の構造文を即座に読み手に連想させる。その対比連想の効果で「いまは切ない私である」の文は、「今まさに私は切ないのだ、私は切なさの渦中に今まさにいるのだ(そうして「いまは切ない私」だが、「いま以降は切なくない私」へ時間の経過と共にやがては移行していく)」の含意の意味に強化されるからである。ここでも意味内容の観点から、単に「いまの私は切ない」にするのと、「いまは切ない私である」とわざわざする場合とでの文意の強調力点の内容の相違を確認して頂きたい。

(2)単に客観的事実や書き手の主観を述べる「私は××である」記述ではなくて、「××な私である」という「転倒した表現」には、記述・発話の書き手や話し手の側に「××な私」を相手に伝え、是非とも知ってもらいたい強い思いがまずあって、そのため自分の「私」の事であるにもかかわらず、「××な私である」というようにあえて自分を分離し自分から離れ「私」を見て、自分自身を客観視して「××な私」を他者の前に丁寧に差し出し提示する、いわぱ自己紹介の自己宣伝(プレゼンテーション)のような語順になっている。

この意味で、単に「私はいま切ない」と書くのと、わざわざ「いまは切ない私である」とする場合とでは、文章の書き手に込められている本意の相違は明白である。「私はいま切ない」は単に書き手が自身の「私」を伝える相手のことを何ら深く考えず自己完結して、素朴に主観的に書いている。しかし「いまは切ない私である」になると、この場合、書き手は明らかに「私」のことを伝えたい他者の読み手の存在を意識して、その読み手に「××な私である」がよく伝わるよう、「××な私」を他者の前に丁寧に差し出し提示する書き方になっているのだ。

岩波新書「小説の読み書き」の中で著者の佐藤正午がいうように、「私は××である」記述ではなくて「××な私である」という「転倒した表現」が、林芙美子「放浪記」の作中のみならず、他の現代作家においても、また今日では一般の人の間でも日常的な文章や会話にて多用されるのは、それが「もしかして誰か偉大な先人に敬意を払い、その仕事を継承しようと努めているのか」や「それともアナウンサーの読みあげるニュース原稿のまねをして面白がって使っているだけなのか?」といったことでは全くない。

「私は××である」ではなくて、「××な私である」の記述・発話が今日多用される現象を、単に「先人の言い回しの継承」とか「誰かのまねの流行」と言ってしまっては身も蓋(ふた)もない。より厳密に正確にいえぱ、現代の人が昔の人と比べて、単に主観的で自己完結した素朴な記述・発話(「私は××である」)をするだけの状況にいることに許されなくなってきているからである。常に自分自身が他者にどう見られ、自分が他者にどう写って見えて伝わるか、現代人はそのことに配慮せずにはいられない。自分の「私」の事であるにもかかわらず、「××な私である」というようにあえて自分を分離し自分から離れ「私」を見て、自分自身を客観視して「××な私」を他者の前に差し出し提示する、自己紹介の自己宣伝(プレゼンテーション)を強いられる延長環境のような過酷な状況に現代の人々が置かれがちだからである。だから「××な私である」というような「転倒した表現」が今日、多くの人に使われる傾向にあるだけのことだ。

たまたま今回は林芙美子「放浪記」作中での文章指摘の事例を挙げて詳しく書いたが、その他にも岩波新書「小説の読み書き」を読んで、文体書評として本質的ではない枝葉末節(しようまっせつ)な、正直どうでもよくてつまらない文章読本的な話や、プロの作家ではない一般人でもすぐに反駁(はんばく)し訂正できてしまう、かなり怪しい文章分析が多くある。「どうしてこの人は、こんなつまらない引っ掛かり方をするのだろう」「なぜ、こんな的外れな文章解説ばかり連発するのか!?」の徒労の辛い思いが、岩波新書の赤、佐藤正午「小説の読み書き」を読んで私には残った。

「小説家は小説をどう読み、また書くのか。近代日本文学の大家たちの作品を丹念に読み解きながら、『小説の書き方』ではない『小説家の書き方』を、小説家の視点から考える斬新な試み。読むことは書くことに近づき、読者の数だけ小説は書かれる。こんなふうに読めば、まだまだ小説だっておもしろい。小説の魅力が倍増するユニークな文章読本」(表紙カバー裏解説)