アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(483)島田虔次「朱子学と陽明学」(儒教を考える その4)

岩波新書の青、島田虔次「朱子学と陽明学」(1967年)のタイトルになっている朱子学、陽明学のそれぞれの概要をまずは確認しておこう。

朱子学─宋の時代に朱熹(しゅき・朱子ともいう)によって大成された儒教で「新儒教」とされ、特に彼の名をとって「朱子学」と呼ばれる。宋代には、人間に備わる心の道徳的な本性を宇宙の原理(理)に基づいて考える「宋学(道学)」と呼ばれる新しい儒教が起こった。朱熹はそれを継承して大成し、「理気二元論」(万物は「理」(原理)と「気」(ガス状の物質的要素)との合成により成り立つとする考え)を説いた。人間の本性には天の理が備わり(「性即理」)、それが先天的な道徳性の根拠となる。「気質の性」(人間の感情・欲求にゆがめられた本性)を「本然の性」(本来の理そのものである性)に戻すために、「畏敬窮理」(欲を節制し理を究明する厳しい態度の保持)して、「格物致知」(個々のものの理を極めて知恵を完成すること)につとめなければならないとする。中国では宋代以後、朱子学は正統な儒学として公認され、日本でも江戸幕府によって官学として採用された。

陽明学─中国の明代の儒学者・王陽明により創始された実践的な儒学の一派。朱子学が「性即理」(事物を貫く客観的な「理」が心の本「性」であるとする)を説いたのに対し、陽明学は「心即理」(生き生きと働く現実の「心」の活動から「理」が生まれるとする)を説いた。心の本体である「良知」を発揮し(「致良知」)、善についての「知」を具体的な「行」(行為)の中で実現すること(「知行合一」)が道徳の基本とされる。日本では、江戸時代に中江藤樹ら儒学者が共鳴して陽明学を取り入れた。

岩波新書「朱子学と陽明学」の著者の島田虔次は、京都大学文学部出身の東洋史学の人である。儒教を始めとする中国思想・文学とともに近世日本の儒学についても知見が広く深い碩学の吉川幸次郎の弟子筋に当たる人で、島田の専攻は近世・近代中国思想の特に陽明学であるので、本書「朱子学と陽明学」にて、王陽明の「陽明学」の生涯と思想内容について、また朱熹の「朱子学」に関しても後の陽明学に連なる前提として共に詳細に解説されている。

ただ朱子学も陽明学も、古代中国で孔子が創始した儒教の中で後に出現した一つの流派(つまりは「新儒教」)であって、朱子学が成立した近世中国の宋代、陽明学が成立した近代中国に当たる明代は、孔子の春秋戦国時代から千年以上の時が経過していた。また「朱子学と陽明学」というように、この二つの「新しい儒教」はセットで論じられることが多いけれど、朱子学の成立と陽明学の成立との間には三百年以上の隔(へだ)たりがある。このことは儒教の孔子と、新儒教である朱子学の朱熹と陽明学の王陽明、創始の各人の存命時を確認してもらえばわかる。すなわち、孔子(前551頃─479年)、朱熹(1130─1200年)、王陽明(1472─1528年)なのであった。

朱子学とは何か、陽明学とは何かの詳細は島田虔次「朱子学と陽明学」を実際に読んでもらうしかないが、以下では「朱子学と陽明学」のあらましを、特に朱子学に関してのみ簡潔に示すことで(陽明学については、また別の機会があれば詳しく述べたい)、岩波新書「朱子学と陽明学」を適切にスムーズに読むための橋渡しの案内(ガイド)としたい。

朱子学の何よりの画期の特徴は、これまでの孔子が創始し後に孟子が発展させた儒教(ゆえに儒教は「孔孟の教え」とも呼ばれる)が「五倫五常」や「修身・斉家・治国・平天下」ら、人が励行すべき日常の人倫を主に説く道徳思想であったのに対し、「格物致知」や「理気二元論」など、道徳的人倫にとどまらず、さらに人間を取り囲む世界全体のあり様とその構成原理にまで広く言及・考察していることであった。

もともと孔子が創始の儒教は、いわば「帝王学」のような、為政者に対し説かれる高度な政治哲学として最初はあった。それが開祖の孔子から時代を経るにつれて、後の孟子で「性善説」など、生まれつきの人間の性(本性・天性)に関する人間一般の抽象的考察の議論に移り、「為政者に対してのみ説かれる政治哲学」の政治主義の思想側面が希薄化され、さらの後の前漢の時代に武帝により儒教(儒学)が官学の正統教学とされて、皇帝以外の臣下の官人が「儒者」として多く学ぶに至り、また儒教の「四書」ら教典が文人の教養書として広く読まれ、庶民の読み書きのテキストにも採用されて、儒教は「帝王学」のような「為政者に対してのみ説かれる高度な政治哲学」の創始時の孔子の政治主義的性格を徐々に脱していったのである。

このように朱熹が「格物致知」や「理気二元論」ら、道徳的人倫にとどまらず、さらに人間を取り囲む世界全体のあり様とその構成原理にまで幅広く言及・考察するに至ったのは、朱子学が、仏教や道教ら同時代の他宗教・学問の影響を明らかに受けていることによる。世界や宇宙の構成原理、死後の世界のあり様など、仏教らのそうした汎心論的な世界の全体像を体系的に提示することなくして、各人が励行すべき日常の人倫のみを主に論ずる道徳思想だけでは、中国近世の宋代にもはや儒教は生き残れなくなっていた。

後に朱子学は日本の近世江戸に伝わり、「儒教の正統」とされる。江戸時代にて儒教といえば朱子学であり、儒者の多くは最初は朱子学者あった。朱子学を主とする儒教は徳川幕府の正統的な「封建教学」とされ、朱子学は官学となり幕府により奨励されて、朱子学者は儒者として手厚く保護された。しかし、近世の江戸時代中期の比較的早い時代から幕末に至るまで、さらには明治維新後の近代にかけて、いつの時代でも根強い「儒教批判」の波は連続し一貫して強固にあった。江戸の朱子学批判、ならびに明治維新以降の近代でのいわゆる「儒教主義」批判には様々な批判根拠の各種パターンがあるが、その中での昔から一貫してある主要なものに、「朱子の理気二元論など荒唐無稽で到底、信じられない。万物は『理』(原理)と『気』(ガス状の物質的要素)との合成により成り立つとは、にわかに信じがたい。日常的な自然観察や当時最新の天文学ら宇宙への観察に依(よ)って妥当ではない」とする旨の、自然認識からする素朴な反発批判があった。

(※上記の合理的な自然科学認識からする批判以外にも、日本の近世江戸の主な儒教批判には以下のようなものがあった。例えば、貨幣経済の浸透による商業の発展を背景に儒教の人欲否定の厳格主義(リゴリズム)を批判する、人間の欲望肯定の経世論的立場からの儒教批判。☆儒教の朱子学における「性即理」の静的で形式的で恭順な教説が人々の間に無気力・卑屈の気風を醸成するの問題意識から、「心即理」の人間の活動的な動的心とその実践主体性を重視する陽明学の立場からの儒教批判(厳密には儒教の中の朱子学の流派に対する批判)。☆儒教の中でも朱熹による後発の朱子学ではなく、本来的な孔子と孟子による古代儒教の始原に戻って学ぶべきとする古学の学派からする儒教批判(これも厳密には儒教の中の朱子学の流派に対する批判である)。☆日本古来の伝統宗教(神道など)や古典を重視する立場から、中国由来の儒教を外来思想の「漢意(からごころ)」として排する国学の立場からの儒教批判など)

近世の江戸時代には、まだニュートン力学や分子化学ら体系的な近代合理主義の西洋科学は日本では成立していなかったけれども、日々の生産力向上のための農学や手工業ら各種の実学、暦作成を通しての天文学の継続的な発展にて当時、早くも西洋の近代合理科学とは相当に近い知見の理論にまで達していた。また維新後の開国にて西洋近代科学を積極的に摂取し活用すべきとする明治新政府による「富国強兵・殖産興業」の政策下にて、西洋の合理科学の概要は人々に広く知れ渡っていた。このような各時代における科学合理思想の漸次の浸透にて、儒教、特に朱子学における理気二元論に対する不信と批判は、江戸期の早い時代から後の明治期の近代に至るまで常に一貫してあった。その際に儒教は、仏教と共に不確かな世界生成の原理や不確実な死後の世界を強弁し流布する、現実にそぐわない荒唐無稽な虚妄の観念論として厳しく批判され排除される窮地に時代的に追いやられたのである。

孔子が創始し孟子が発展させた「孔孟の教え」たる、かつての伝統的な儒教は、人間日常の道徳的人倫の教えにとどまるものであったが、世界や宇宙の構成原理、死後の世界のあり様など、仏教らのそうした汎心論的な世界の全体像を体系的に提示することなくして、各人が励行すべき日常の人倫のみを主に論ずる道徳思想だけでは、中国近世の宋代にもはや儒教は生き残れないと判断して新たな学説教義を取り入れたのが、後に「新しい儒教」を標榜する流派の朱子学、他ならぬ朱熹その人によってであった。そうした道徳的人倫以外の、仏教や道教に倣(なら)った汎心論的な世界の全体像を体系的に提示する、朱熹の存命時には「時代の最先端の」儒教の新たな売りの看板志向が、時を経て後の時代になると合理科学の世界認識から逆に完膚なきまでに徹底批判され、仏教と共に虚妄の自然世界認識の観念論として儒教は急速に衰退し没落の危機を迎えるわけである。

儒教の生き残りのために「新儒教」として、宋代の当時は「最新の時代の波」に乗った世界の全体像提示の教説を取り入れ改良した点が、後の時代にそのまま逆に今度は仇(あだ)となって、朱子学を始めとする儒教全体の没落を招いてしまう歴史の皮肉。孔子に始まる儒教の長い歴史の中での、朱熹が新たに説いた後発の時代の「新しい儒教」である朱子学にまつわる残酷な逆説の結末であった。

総じて「朱子学と陽明学」に関しては、朱子学や陽明学を創始した朱熹と王陽明その人の性格資質や出自階層よりの独自の思想形成というよりは、孔子と孟子から始まる千年以上の長い歴史を持つ古代中国よりの伝統思想である儒教に関し、その重き伝統を受け継ぐ後世に新出の儒学者として「仏教や道教や他の宗派や学閥から儒教が圧倒され駆逐されないように」の対抗意識と、また時代の新たな傾向も踏まえ随時時代の新潮流も勘案し、「自分たち儒者がどう生き残っていくか」の改良学的見地から新たな儒教を目指す、近世宋代の朱子学と近代明代の陽明学であったといってよい。

最後に岩波新書の青、島田虔次「朱子学と陽明学」の紹介文を載せておく。

「仏教の汎神論的思想を容(い)れて宋代に確立した朱子学、心即理・致良知・知行合一を説く明代に生まれた陽明学。両者とも近世中国を支配した儒教哲学であり、また唯心論的実践哲学である。日本人の倫理観にも大きく影響を与えたこれらの学説の成立過程と歴史的役割を明らかにし、中国思想史におけるその位置づけを試みる」(表紙カバー裏解説)