アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(154)坂井豊貴「多数決を疑う」

ある書籍が世評に受けて広く読まれるのは、当然その書物の内容が優れているからであるが、その他にも著作にて取り上げられている話題(トピック)が人々の関心や時代の気分に見事に合致し、爆発的に読まれることはある。

岩波新書の赤、坂井豊貴「多数決を疑う・社会的選択理論とは何か」(2015年)は内容が優れた良書であることは言うまでもないが、やはり「多数決を疑う」という本書の記述が2000年代以降の人々の時代の雰囲気に合って「言い得て妙」な絶妙なテーマのため、近年の岩波新書の中では特に好評でここまで広く読まれているのでは、私は本新書を一読してそうした思いを持った。

事実、2000年代以降の自民党を主とする保守政権の安定継続の一人勝ち状態は、国政選挙にて有権者の国民の多数の支持を得た政権であるにもかかわらず、明らかに前よりも酷(ひど)い復古右派的政策と新自由主義的政策との両輪駆動である。近隣東アジア諸国を敵対視し強硬に出て右派の国家主義者らの歓心を買い、他方で市場経済万能主義だが、明白に特定の経済団体や一部の富裕層に対してのみ「保護」の意向が働く「日本型」新自由主義にて、彼らだけに利するような政治を昨今の政府は強引手法で連発している。ここに代表民主制にて選挙の多数決で正統に決まった政権与党のはずなのに、大部分の国民の政治的意向が反映されず、現在の多くの人々が、そもそもの「多数決を疑う」気分の雰囲気が社会にて醸成(じょうせい)されている。そうした社会の心的雰囲気に対応する形で、岩波新書「多数決を疑う」は人気で今日、幅広く読まれているに違いないというのが私の見立てだ。

「選挙の仕組みに難点が見えてくるとき、統治の根幹が揺らぎはじめる。選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか」(表紙カバー裏解説)

「多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?」これは今日の日本の政治に対し多くの国民が抱いている率直な実感であると思われる。ここで間接民主制であるイギリス人民主権の矛盾に対する、例の有名なルソーの言葉を引用しておいても無駄ではあるまい。「英国人は自分では自由だと思っているけれど、自由なのは選挙で投票する瞬間だけで、その後は再び奴隷に戻る」。「英国人は自分では自由を保障された束縛のない主権者だと思っているけれども、彼が自由なのは選挙で投票する瞬間だけであって、その後は多数派に意見や権利を抑え込まれて再び奴隷の状態に戻る」の意である。多数決の民主制は必ずしも民意を正確に反映しないことへの虚無がここにある。

岩波新書「多数決を疑う」は主に三つの次元の考察記述からなる。まず「多数決を疑う」に当たり、意見集約の方式について、多数決以外にも類似の方法ルールを挙げて、それらの利点と難点とをマトリックス形式の評価表にて統計原理的に考察する。この記述では統計確率学的観点からの法則や現象や矛盾の指摘があり、落ち着いてじっくり読まなければ内容を正確に理解できない。丁寧で慎重な読みが求められる、本書の大部分を成す重要な箇所だ。

次に「多数決を疑う」議論について、フランス革命の時代にまで遡(さかのぼ)り、コンドルセやルソーらの多数決評価の思想に触れている。そもそも多数決にて個人の意見を集約しようとするのは、伝統や権威、宗教や君主に任せるのではなく、自分達のことは自分達で決めようとする近代政治の確立と共に再び注目され始めた考えだ。そのためコンドルセらフランスの啓蒙思想家たちからも多数決について、前述引用のルソーによる代表民主制に対する皮肉に見られるように、その問題点も含め主体的に精密に考えられてきた。この部分のルソーらによる多数決に関する歴史的議論の記述を読むことで、多数決という意見集約の歴史的定着の過程や、その仕組みの原理的問題の深さを知ることが出来る。

さらには「多数決を疑う」ことについて、一般論のみならず現代日本の実際の時事問題を具体例に挙げ、それらに結びつけて論述展開している。例えば「小平市の都道328号線問題」(一般利益ではない、人々の関心の濃淡がある特殊利益の決定に多数決を導入することの問題)や、「64%多数決ルールの憲法改正への適用」(過半数とは多数決で物事を決める際の最低ラインであり、計算数値で出た望ましい民意反映の正当な可決ライン63・2%を改憲の国民投票における可決ラインにするべき議論)がある。

本書は人気で多くの人に読まれており、それゆえ書評やブックレビューも多い。特に後者の「64%多数決ルールの憲法改正への適用」にて、それが日本国憲法改正条項に関し、現行の国民投票における改憲可決ラインが過半数というのはハードルが低い、憲法改正には「64%多数決ルール」を適用して国民投票の可決ラインを64%程度まで高めるのがよいとする本書にての著書の主張に対し、別に著書は思想的立場が護憲論の改憲反対であるからではなく、多数決の統計学的原理の妥当観点からただ単に国民投票の可決ラインを現行の過半数から引き上げるべきとしているだけなのに、そこに「改憲阻止のための護憲派による不純な政治工作」を勝手に見出だし、激怒して攻撃する改憲論者らの本新書に対する感情的で極端な低評価が時に見られる。この辺り、岩波新書「多数決を疑う」は内容の優れた良書であるだけに、さすがに著者は「もらい事故」のような感じで非常に気の毒な思いがする。

さて、本書では「多数決の精査とその代替案を模索すること」がテーマである旨が「はじめに」にて述べられている。本論にて多数決が適切であり最良最善であるとする「多数決を自明視」する俗説に著者は疑問を呈しつつ、また「多数決で決めた結果だから民主的」や「多数決の選挙で勝った自分の考えが民意」といった「多数決こそ民意であり正義」とするような傲慢な多数派による数の暴力、特に少数派への抑圧姿勢を暗に批判しながら議論を進めている。「多数決の精査」については、「票の割れ問題」(僅差で敗れた二位票がすべて死票になってしまう)や、「ペア敗者」の問題(他のあらゆる選択肢に負けている「第三の最も弱い者」であるのに、全体での多数決だと最多票を得て勝利してしまう)らの多数決が抱える難点を指摘しつつ、多数決以外の他の意見集約方法も精査して、それら利点と問題点を一覧しまとめている(58・59ページ)。

意見集約の方法として、基本は過半数以上の単純採決により決定される「多数決」の他に、例えば「ボルダルール」や「ゴンドルセ・ヤングの最尤法(さいゆうほう)」がある。ボルダルールとは1位に3点、2位に2点、3位に1点というように順位別に等差のポイントを付け加点していき、最終的な一番を決めていくやり方である。ゴンドルセ・ヤングの最尤法とは、選択肢が三つ以上ある場合、選択肢を二つずつ取り出してペアごとに多数決をし全てのペア組み合わせの勝敗「データ」を集めて、最後に序列順位を決定する方法をさす。

それら採決方法の比較精査の作業によれば、著者においては「総合的な評価としてボルダルールはよい」ということになりそうだ。事実、著者は次のように述べている。「一つの選択肢を決める投票では、ボルダルールとゴンドルセ・ヤングの最尤法が、非常にうまくできた集約ルールである。どちらか一方を選ぶならば、筆者はボルダルールを勧める」(59ページ)。

また「多数決の問題を克服する代替案」については、著者は多数決そのものを全否定するのではなく、その限界の問題点を指摘しながら少数派は多数決の投票結果に従わざるを得ない現状の不条理を踏まえ、「多数決の暴走への歯止め」として以下の3つの処方箋(しょほうせん)を提示する。多数決に対しての改良見地の立場である。

(1)多数決より上位の審級を防波堤として事前に立てておく(特に自由や権利の侵害に関する事柄は、多数派が少数派を抑圧する法律や施策が出来ないよう、上位の憲法がそれを禁止するというのが立憲主義のやり方である)。(2)複数の機関で多数決にかける(例えば立法府を衆議院と参議院の二院に分けて、両院の多数決を共にパスしないと法律を制定出来ないようにする)。(3)多数決で物事を決めるハードルを過半数より高くする(ただの多数決だと過半数の支持さえ得られれば法案が通るので提案者は少数派に配慮する必要が乏しく、またそこへ意識を向ける誘因が働きにくい。ハードルを過半数より高くすると、提案者がより広い層を配慮するようになる)(81─83ページ)

岩波新書の坂井豊貴「多数決を疑う・社会的選択理論とは何か」を一読して痛感するのは、多数決が常に適切であって最良・最善であるとする「多数決を万能視すること」の危険性だ。以前にテレビ討論にて、ある著名な政治家経験があるタレント活動もしている弁護士が「選挙で勝った方が民意で、国会で多数決で決まった結果が民主的なのだから負けた少数派は多数派に従うのは当たり前。悔(くや)しかったら選挙で勝って国会で多数派を組織してみろ」というような捨て台詞を吐いたのを聞いて、私は一瞬自分の耳を疑った。とても信じられない思いがした。

民主主義は何でも多数決で決めて常に多数派が正しいわけではない。多数派の暴走はありうるし、多数派による少数派への抑圧の横暴も起こりうる。そもそも多数決で決定する事柄は、必ずどちらかの意見・立場を表明し意思決定しなければならない早急の政治上の判断など、実は相当に限られた例外事象の、まさに「究極の選択」なのであって、互いの利害対立が鋭くある場合や人々の関心の濃淡が幅広くて合意形成(メタ合意)が不可能な事柄は、もともと多数決による投票対象にはならない。また多数決による決定が複数回・慣習的に行われる場合、ある決定事項に関心意識が低い「淡」の会派が今回は別の会派の多数決の応援にまわるのと引き換えに、後日の自分達に関心意識が強い「濃」の多数決による決定事項の際には自分らに加勢するよう投票行動の約束を事前に取りつける、人々の関心の濃淡が幅広くて合意形成(メタ合意)が不可能な場合の多数決下での互いの票の貸し借りといった深刻な問題が生じる恐れもある。

例えば昨今の国内政治の国会運営にて、政府と与党は人数的に多数を占めているので成立させたい政策法案は形式的な審議をやり、その上で最後は強行採決の非情手段も含む多数決にて次々と政策実現させていっているが、それは毎回、必ずしも民意を正確に反映したものとはいえない。時の内閣や与党が公正な選挙にて多数決に支えられて国会で正統に多数派を占めているとしてもだ。だから、反対派の少数派の野党は政府と与党の数の横暴に対抗し、時に審議日程を延ばして時間切れの廃案に持ち込んだり、内閣不信任案決議を出して時間稼ぎをしたり、牛歩戦術にて投票の遅延行為に出て抗議の意を示したりする。そもそも多数決の数の論理によって決定判断に適さない政策法案もあるのだから、採決することになれば多数派の政府と与党に必ず敗北する少数派の野党が、審議の延長や不信任案提出や牛歩の戦術に出るのも、正当な一つの民主的手段として尊重されるし認められる。

常に何でも多数決にて意見集約し決定することが正しいとは限らないのである。しかも多数決の結果は必ずしも万能ではない。