アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(95)高橋源一郎「読んじゃいなよ!」

先日、岩波新書の赤、高橋源一郎「読んじゃいなよ!」(2016年)を読んでみた。読み味として近年の同じ岩波新書でいえば、斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」(2017年)に似ている。

「明治学院大学国際学部・高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ」とあるように、本新書は高橋が出講している大学のゼミの学生たちと共同で過去の岩波新書の合評書評の形だが、普通に書評をすればよいものの、主催の高橋源一郎は、わざと面白く無駄に読者を笑わせようとして長い前降り、時に大袈裟で冗長な説明、くだらない脱線、つまらない本音語り、感性的な話し言葉と擬態語の連発を本書に盛り込んでやっている。無駄に読者を笑わせようとする。この辺り、高橋源一郎と斎藤美奈子とは相通ずるものがある。

高橋源一郎も斎藤美奈子も、なぜ手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。読み手からの笑いの手柄を、なぜそこまでして取りにいきたがるのか。それが「どんなことでも面白おかしく語らなければ気がすまない」といった個人の資質や嗜好から来るものならば仕方がない。世の中には誠に不思議なもので、落語家や漫才師やお笑いタレントでもないのに、なぜか日常会話で変に大袈裟に抑揚を付けたり、妙に新奇な言葉を使ったり、話の最後に必ずオチを付けてみせたりで面白おかしく、あたかもお笑い芸人やテレビタレントのような話し方をする一般人が親戚や友人や職場の同僚の中に、だいたい一人か二人はいるものだ。

しかも読み手を笑わせようとする、それら高橋の試みがことごとく笑えない。例えば本書のタイトル「読んじゃいなよ!」について、その設定意図を本新書にて最初に述べているが、高橋源一郎は始めから見事に面白くないのである。

「ところで、『読んじゃいなよ!』という本のタイトルについては、どう思われるでしょうか。このタイトルの名づけ親としては、子どもの名前をつけるときと同じぐらい、真剣に考えて、つけたのですが。では、なぜ『読んじゃいなよ!』だったのか。それは、みなさんに読んでもらいたいからでした。もちろん、この本もだけれど、それ以外のすべての本を、です。『読め!』はイヤだ。なんだか、力ずくの感じがするから。『読んでみたら?』も、なんとなく押しつけがましい。『読まなきゃダメ!』だと怒られてるみたい。『読むべきだよ』も『読んでみれば?』もピンとこない。そして、たどり着いたのは『読んじゃいなよ!』だったのです」(2・3ページ)

また本書の冒頭書き出しにて、こういうのもある。

「こんにちは。この本を手にとっていただいてうれしいです。もし、あなたが本屋さんにいて、どうしようかと悩んでいるのなら、レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」(2ページ)

高橋源一郎、この人は大して重要ではない本当はどうでもよい事柄の判断や決定過程をわざと迂遠(うえん)に子細に事細かに力を入れて熱心に語ることや、人が常々、心の底で思っている本心を隠さずに、あえて本音語りで正直に明かすのを文筆でやることが面白いと(おそらく)思っているに違いない。それで読み手からの笑いが取れると考えている。「そして、たどり着いたのは『読んじゃいなよ!』だったのです」や「レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」など、いずれもそういった笑いの型の話術だ。

「みなさんに読んでもらいたい」など、本を執筆する著者や書籍を出版する編集者なら皆が普通に願い考えていることであって、そうした「読んでもらいたい」思いの当たり前な願望を直接に書籍のタイトルに普通はしない。しかし、高橋源一郎はそのまま書籍のタイトルにする。ここが、この人のいい加減よい年齢をした大人であるのに駄目な所だ。同様に、一般的な大人な著者は自著を確かに購入してくれればうれしく、世間の人に対しそれを欲しているに相違ないが、わざわざ著書の中で活字にしてまで「レジまでこの本を持って行っていただけると、もっとうれしいです」などと直接に頼んだりしない。だが、高橋源一郎は、あえて幼児的とも思える本音語りでそうしたことを書くことが、この人は面白いと思っている。少なくとも私はクスリともしなかった。むしろ笑うどころが、岩波新書「読んじゃいなよ!」を読んでいて逆に私は段々深刻な真顔になっていく。

本書にての高橋源一郎の安易に狙いにいく笑いの不発具合の内容もヒドいが、同様にこの人の口語的な感性語や擬態語連発の文章表現も相当にヒドい。例えば「ドストエフスキーって、マジやばい!」とか「ピン!」(9ページ)など。読んでいて、かつて斎藤美奈子が岩波新書「文庫解説ワンダーランド」にて小林秀雄を「コバヒデ」と連呼し紙面にて、はしゃいでいた悪夢がよみがえるかのようだ(苦笑)。だいいち高橋源一郎、この人は1951年生まれのかなりのいい年をした大人である。それなのに「ドストエフスキーって、マジやばい!」とか「ピン!」など、「高橋源一郎、コイツは相当にイタい。こんな大人はイヤだ」といった思いが正直、私はする。「せめてもう少し真面目に書け(怒)」というのが率直な思いだ。

文筆は「中味と形式」でいえば、「中味」の内容は深遠で高等なことや特に新奇なことは書かなくてもよいから、まずは「形式」の文章表現の適切さの型を守ることから入っていきたい。内容よりも外部の形式の適切な表現の型を厳密に律儀(りちぎ)に丁寧に守ることが、とりあえずの読書技術と文章記述の上達基本と強く思える。そうした感慨すら持つ。

本書は、高橋ゼミの学生有志らによる岩波新書の合評書評である。これは岩波新書編集部への高橋源一郎の持ち込み企画だったらしい。高橋によれば「最初にやったことは、岩波新書に企画を持ちこむことでした。…そのとき、わたしはこういったのでした。『岩波新書に関する岩波新書をつくりたいと思っています。それも、いままで出たどの岩波新書よりも面白く、ためになるものを!』」(15ページ)。その際に書評対象となる岩波新書は、鷲田清一「哲学の使い方」(2014年)と長谷部恭男「憲法とは何か」(2006年)と伊藤比呂美「女の一生」(2014年)の3冊である。そして執筆した著者を特別講師として実際に迎え、彼らに対する高橋と学生らによる質疑応答の形式で合評は進む。

近年では「読む価値が全くない。読むだけ時間の無駄」など書籍そのものの存在や執筆した著者の人格を安易に全否定するような過酷な書評・ブックレビューや、最初に目次を羅列し次に各章ごとの概要を要約して体裁よく紹介するだけの実際に書籍を読んでいないのに読んだ気にさせる、ある意味、便利な(?)「書評もどき」が流行し人気である。しかし、書評や文芸批評というのは本来は、その本に託された著者の切実な思いを読み取ったり、その書籍が出された時代状況の考察を通して、その本のまさに読まれるべき良さ、もしくは弱点の難点を具体的に読み手に示し、未読の読者には「読んでみたい」とその書物への触手が新たに伸びるように、また既読の読者にも別な読みの可能性や難点を指摘することで再確認を促し、再度その書籍を読ませる(再読させる)ような、そういった建設的な内容であるべきだ。書評や文芸批評の一つの達成目標は、読み手を書物に向かわせ実際に書籍を手に取らせることにある。

高橋源一郎「読んじゃいなよ!」にて扱われている過去の岩波新書、鷲田清一「哲学の使い方」と長谷部恭男「憲法とは何か」は私は既読であった。鷲田「哲学の使い方」は、「哲学の意義は答えをすぐに出さないこと、答えが複数ありうること、場合によっては答えがあるかどうかも分からないことまで想定して『哲学を使う』意味を私達が見据える大切さ」を論じている。「読んじゃいなよ!」本編にても高橋ゼミの学生らによる、書いた当人の鷲田清一への直接な質疑応答を通して、そうした著者・鷲田の執筆の思いを最終的には上手く引き出せてはいる。だが、なかには学生によっては明らかにウケ(笑い)を狙ったつまらない質問もあり、他方、当の鷲田清一も高橋ゼミの不真面目なお笑い集団の雰囲気に呑(の)まれているのか、冒頭からつまらない冗長な世間話や昼食談義など、どうしても中途半端になぜか笑いを取りに行って高橋源一郎や高橋ゼミの学生同様、「哲学の使い方」についての話そのものは良く鷲田の岩波新書「哲学の使い方」は良書だとは思うけれど、やはり「皆が全員で壮大にふざけすぎている」の悪印象が残る。その他、長谷部「憲法とは何か」と伊藤「女の一生」に関する書評議論でも、同様に残念な読み心地だ。

とりあえず私は高橋「読んじゃいなよ!」を読んでみて、書評俎上(そじょう)にある鷲田らの過去の岩波新書を再読で読み返してみたり、伊藤の岩波新書を新たに読んでみたいという気には全くならないのであった。

高橋ゼミの学生による岩波新書に関する文章「私と岩波新書」が、本編の各章前後に挿入されてある。内容はともかく、こうした文章を未だ「です・ます」調で書く大学生が多くいることも、いたたげないし正直、閉口した。小中学生の作文ではないのだから、大学生の書評や報告のレポート・論文の正式文書では「です・ます」調の使用は避けよう。大学生の「です・ます」調のレポート・論文は幼稚なマイナス印象を読み手に与えてしまう。

ゼミ主催の高橋源一郎が、書評や文芸批評にて特に笑いは必要ないのに、本当は無理に読み手を笑わせなくてもよいのにもかかわらず、あえてつまらない笑いを取りに行って見事に面白くない高橋の醜態に似て、本新書の巻末「おまけのおまけ」にての高橋ゼミの学生も最後まで不快である。弟子たる学生は師匠である先生の悪い所まで学び共有して学生は先生に似てしまうものなのか。「おまけのおまけ」は「高橋源一郎ゼミ・岩波新書で遊ぶ」とあり、これまでの数多くある岩波新書のバックナンバーより、面白い一言テーマにてタイトル響きの語感から連想で過去タイトルを新書の内容には関係なく任意にピックアップする趣向の「遊び」企画である。例えば、

「SFっぽい岩波新書『プルトニウムの未来・2041年からのメッセージ』。サバイバルに使えそうな岩波新書『川釣り』『砂漠と闘う人々』『クマに会ったらどうするか』。ラップっぽい岩波新書『森の力・育む、癒す、地域をつくる』。溜池ゴローっぽいタイトルの岩波新書『広島の村に働く女たち』」

最後の「溜池ゴローっぽいタイトルの岩波新書」など、普段から真面目に生活している一般の人は溜池ゴローがどのような人物か知らないだろうし、また知る必要もない。「溜池ゴロー」を活字にして掲載したのは岩波新書の長い歴史の中で本書が(おそらく)初めてであり、これは画期的な「事件」であって、高橋ゼミの学生は「それが面白い」と思い笑いを狙ってわざとやっているのだろうけれど、私は少しも面白くない。岩波新書に「溜池ゴロー」を組み合わせて述べる必然性もない。完全なおふざけの、いわゆる「内輪ノリ」の笑いだ。

そもそも「なぜ手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。読み手からの笑いの手柄を、なぜそこまでして取りにいきたがるのか」。高橋ゼミの学生は、指導教授たる高橋源一郎の悪癖(あくへき)を悲しいまでに踏襲している。「教えられる学生は教える先生に見事に似てしまう」真理を本書の最後の最後にまで明白に確認させられて私は、いたたまれない気持ちになった。そういった岩波新書の赤、高橋源一郎「読んじゃいなよ!」読後の残念な感想である。