アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(490)廣野由美子「ミステリーの人間学」

岩波新書の赤、廣野由美子「ミステリーの人間学」(2009年)は、副題に「英国古典探偵小説を読む」とある通り、ドイルの「シャーロック・ホームズ」やチェスタトンの「ブラウン神父」シリーズ、クリスティの「アクロイド殺し」「オリエント急行殺人事件」の各長編らイギリス古典のミステリーと探偵小説を読むものである。本新書に関し最初に早急に指摘して注意喚起を促したいのは、本論の中で犯人の正体・トリックの内容・犯人の犯行動機・事件の顛末を全部明かして、ことごとく「ネタばれ」になっているということだ。著者は本論に入る前の序章の結語で、

「もうひとつ、付け加えておかなけらばならない。ミステリーについて解説するさいには、これから作品を読む読者の楽しみを残しておくために、謎の答えを明かさないというのが、常道である。しかし本書では、テーマの性質上、議論の都合でこの常道を踏み外さざるをえない場合がしばしば生じてくる」(32ページ)

云々というように、いかにも遠回しで間接的に曖昧(あいまい)に「本論中にてネタばれがあること」を示唆しているけれども、この遠回しで間接的で曖昧な書き方では読者に伝わりにくい。本論記述にて取り上げるほぼ全ての探偵小説がことごとく「ネタばれ」である。せめて「以下、トリックと犯人の正体、犯人の犯行動機や事件の顛末まで明かした『ネタばれ』です。未読の方は、これから新たに諸作を読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい」くらいに、より直接的に明確に大きく書いてもらいたい。よって本書で取り上げられているドイル、チェスタトン、クリスティらの代表作を未読の読者は「本論中でネタばれがあること」を十分に覚悟して、本書に臨んだほうがよい。

人は若い頃に読書に目覚めて、10代20代の頃に最初にミステリーや探偵小説に熱中する場合が多い。その際、犯人やトリックを早く知りたくて、他のことが全く手につかず寝食も一時的に忘れて懸命に読み進める熱中の幸福な時代が、だいたい各人にあるものである。そうした取っておきの一回きりの貴重な楽しみの読書経験のために、例えばクリスティの「アクロイド殺し」(1926年)、「オリエント急行殺人事件」(1934年)ら初読の際にはほとんどの人が必ずや驚愕せずにはおられない大仕掛けのトリックを用いた定番名作のミステリー、その他、本書にて派手にネタばらしされている古典長編の名作、コリンズ「月長石」(1868年)などは、他人からネタばらしされる以前に自分で直接に作品を読んで結果、犯人やトリックや事件の顛末が分かって衝撃を受け驚いたほうがよい。だから岩波新書「ミステリーの人間学」を読むかどうか迷っている人は「本書にネタばれがあること」を事前に知って、相当に熟慮したほうがよいと思う。

なぜこのように著者は「ミステリーの人間学」にてこれから「英国古典探偵小説を読む」に当たり、「本書にネタばれがあること」の読者への通知がいかにも遠回しで間接的で曖昧な示唆の不手際に終始して、もたつくかといえば、それは著者が探偵推理小説の書き手やミステリー評論家の本職ではない事情に由来している。岩波新書「ミステリーの人間学」の著者である廣野由美子は、もともと英文学(イギリス小説)専攻の研究者であり、これまでに「十九世紀イギリス小説の技法」(1996年)や「『嵐が丘』の謎を解く」(2001年)らの著作を持つ人である。そうしたエミリー・ブロンテ「嵐が丘」(1847年)ら19世紀の一般の英国文学を研究していた人が、今回は例外的に「ミステリーの人間学」としての「英国古典探偵小説を読む」試みなのである。この人は、これまでに探偵推理の文芸批評や作品レビューを数多く重ねてきたような海千山千の、ミステリーと探偵小説に精通した専門の人では決してない。

だがしかし、だからといって本書にてなされる考察が全然良くなくて読む価値がないとか、探偵推理・ミステリーに専門外の人がなした読むに足りない素人仕事というわけでもない。廣野由美子「ミステリーの人間学」の概要はこうだ。

「読者を謎解きに導く巧みなプロット。犯罪にいたる人間の内面への緻密な洞察。十九世紀前半ごろ誕生した探偵小説は、文学に共通する『人間を描く』というテーマに鋭く迫る試みでもある。ディケンズ、コリンズ、ドイル、チェスタトン、クリスティーなどの、代表的な英国ミステリー作品を取り上げ、探偵小説の系譜、作品の魅力などを読み解く」(表紙カバー裏解説)

本新書を貫く著者の主張は、「十九世紀前半ごろ誕生した探偵小説は、文学に共通する『人間を描く』というテーマに鋭く迫る試みでもある」という点にある。そうした十九世紀前半に誕生した草創期ないしは初期のミステリーと探偵小説において、「人間を描く」という誠に文学的テーマに各作品が貫かれてあることの証左がディケンズ、コリンズ、ドイル、チェスタトン、クリスティの五人の作家の作品紹介の文芸批評を通して具体的に述べられている。

岩波新書「ミステリーの人間学」は、序章と終章とにはさまれた全五章の本論よりなる。すなわち、その構成とは「第1章・心の闇を探る─チャールズ・デイケンズ」でミステリーという近代小説における登場人物らの心理の奥底の闇を掘り下げ、「第2章・被害者はこうしてつくられる─ウィルキー・コリンズ」で探偵小説には必ずいる「被害者」の存在生成と被害恐怖の人的感情に触れる。それから「第3章・世界一有名な探偵の登場─アーサー・コナン・ドイル」でドイルのシャーロック・ホームズを類型に探偵小説における名探偵の、時に人間味あふれる特異なキャラクター造型を分析し、「第4章・トリックと人間性─G・K・チェスタトン」で探偵小説が発明・創作した各種トリックや伏線の張り巡らしと回収について述べる。それから「第5章・暴かれるのは誰か─アガサ・クリスティー」にて、「殺人」という明らかに反倫理的・反社会的な犯罪であるにもかかわらず、どうしても犯行実行せざるを得なかった犯人側のやむにやまれぬ事情の人間社会の不条理や、「事件の全貌を語る人」の探偵推理における叙述者の問題を考察する。

このように「十九世紀前半ごろ誕生した草創期ないしは初期のミステリーと探偵小説において、『人間を描く』という誠に文学的テーマに各作品が貫かれてあること」を明らかにした「ミステリーの人間学」の本書である。十九世紀前半にポーの「モルグ街の殺人事件」(1841年)にて誕生した探偵小説を、二十一世紀の今日にまでほぼ全時代に渡り連続して読んできたミステリーと探偵推理にある程度の知識がある読者であれば、確かに本書で著者が指摘するように「十九世紀前半に誕生した草創期ないしは初期のミステリーと探偵小説にて、『人間を描く』という文学的テーマの原則が強く意識され、各作品ともそうした『ミステリーの人間学』のテーマ原則に強く貫かれていたこと」に同意できるが、後に探偵小説は初期の「人間学」の中心理念から離れて、新奇なトリックばかりを追い求める謎解きパズルの非文学的な単なる娯楽的読み物に堕(だ)したと内々からの批判もあって、ミステリーと探偵小説の書き手や評論家たちの間で一時期揉(も)めに揉めた事情も知っている。「犯人や探偵、事件関係者の登場人物が皆、殺人事件が起きて事件がめでたく解決するまで、それぞれ各役割を作者から強く担(にな)わされており、まるでチェスや将棋の駒のあやつり人形のようだ。本格の探偵推理小説であるがゆえに人間そのものがリアルに描かれていない」といった旨の、いわゆる「探偵推理におけるチェス・将棋の駒論」批判の出現である。

そうした「昨今の探偵推理は謎解きトリック中心で人間が描かれておらず非人間的であり反文学的」という主旨の探偵推理に対する痛烈批判を重く受け止め、ミステリー探偵小説論壇内部の危機意識から、例えば木々高太郎は「人生の阿呆」(1936年)を著し、探偵小説の初期時代の人間中心主義の文学的要素を高めるよう強く主張し(探偵小説芸術論争)、またそのような文学的な探偵小説の創作に努めたのであった。

廣野由美子「ミステリーの人間学」では、本論にて「十九世紀前半に誕生した草創期ないしは初期のミステリーと探偵小説において、『人間を描く』という誠に文学的テーマに各作品が貫かれてあること」を明らかにする以前の序章にて、そうした「後に探偵小説は初期の『人間学』の中心理念から離れて、新奇なトリックばかりを追い求める謎解きパズルの非文学的な単なる娯楽的読み物に堕し、本格の探偵推理小説であるがゆえに人間そのものがリアルに描かれていない」といった旨の、「探偵推理におけるチェス・将棋の駒論」批判の出現に象徴されるような、後々のミステリー探偵推理業界での「探偵小説芸術論争」事案にも、木々高太郎「人生の阿呆」らの作品に触れながら、あらかじめ周到に述べられている(6─13ページ)。

そういった十九世紀前半に誕生した草創期ないしは初期の探偵小説における「ミステリーの人間学」の指摘のみならず、後々の探偵推理の非人間主義で反文学的な危機の時代にまで事前に触れている行き届いた考察記述は、確かに読む人に好印象の良い読後感を与える。なかなかの好著で力作な岩波新書の赤、廣野由美子「ミステリーの人間学」である。