アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(481)井波律子「論語入門」(儒教を考える その2)

儒教は、古代中国の孔子(前551頃─479年)を祖として、その孔子の教えを継承し発展させた思想・学派の総称である。孔子は、春秋戦国時代末期の魯(ろ)の曲阜(きょくふ・山東省)の人で周の政治を理想とし、魯の国政改革に参加したが失敗して諸国を巡歴した。後に帰郷して古典の整理や弟子の教育に専念した。孔子の死後、弟子たちが編纂(へんさん)した孔子と弟子との言行録が「論語」である。「論語」は、儒教の四つの根本教典である「四書」(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の内の一つとされる。

儒教の教典である「論語」に関し、私はいつも思い出すことがある。昔、私は大学に籍を置いて京都や大阪の関西圏のいくつかの高校に教員として教えに行っていたことがあった。その中のある中高一貫の私立高は創業者一族の父子が校長と副校長とを務めていて、千人以上の全校生徒を毎朝、校庭に集めて朝礼をやる。毎日必ずやる。全教員も必ず参加である。そこで校長は毎日、講話をする。決まって校長一人だけが講話を毎日やるので、さすがに話の内容(ネタ)も尽きて以前に聞いたような講話も繰り返し循環で出てくる。その限られた話のパターンの中で相当な割合で連日、孔子の「論語」の話が頻繁に語られていた。「論語」に書かれてあるような儒教道徳に則(のっと)り、「若い学生諸君は、指導してくれる当校の教師や学校に通わせてくれている親に感謝の気持ちを持って日々、精進し学業とスポーツに邁進しなければならない。周りの人への感謝の気持ちを決してを忘れないように」というようなことを。後述するように、私は当時から孔子が創始した儒教思想全般に半信半疑の醒(さ)めた気持ちで相対的に時に批判的に読み、儒教に関する大概の事は知っていたので毎朝、朝礼に立ち会い校長の講話を聞きながら、「あーまた孔子の『論語』の話か…」と内心思ったものである。もちろん、こうした自身の本音は決して口外しないし、「もう校長の『論語』の話はウンザリだ」の表情や言動は周りに気付かれないよう相当に気遣って自分の肚(はら)の中だけに隠し、慎重を期していたのである。そうしないと学校内での自分の立場が危うくなるから(苦笑)。

(※ある特定の一族が所有・主催している組織(企業や会合や派閥やサークルなど)に非縁故者であるけれども属さなくてはいけない場合、明らかな反社会的行為(犯罪、法令違反など)や、あからさまな非人道的行為(ハラスメントやいじめなど)以外のこと(人事決定や日々の作業形式や伝統ルーティンなど)では、いたずらに逆らわず自分の我(エゴ)を出さずに無難に務めるのが賢明である)

当時から私は、例えばヴェーバー「儒教と道教」(1915年)などが好きだったのである。ゆえに孔子が創始の儒教ならびに孔子と弟子たちの言行録である「論語」についても、その問題点を即(すぐ)に指摘できた。例えば以下のように。

☆儒教道徳の基本は「五倫五常」であり、「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の人倫の「道」をまっとうすべきことを説いて、ことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いるもので、ここから「五倫五常」を人倫の基本とする儒教の教義は、厳しい身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」として以前に機能していた。☆封建時代を脱した現代においても、儒教道徳が説く人倫がそのまま素朴に集団組織に適用された場合、家庭での親からの子に対する「しつけ」と称した暴力・精神的抑圧や、企業での上司からするパワハラ圧力、社会全体にはびこる男尊女卑(女性蔑視)の風潮、学校での教師や先輩ら年長者からする「矯正・シゴキ」の教育的制裁(指導的暴力)の正当化の蔓延につながる。

☆為政者における「徳」の道徳性の重視で、政治をことごとく道徳に還元させる「徳治主義」を内実とする儒教は、法律制度ら外部からの公的な客観的規範の強制がないため、道徳的人格の完成者であるべき為政者、つまりは「君子」の私性の道徳的素養にもっぱら依拠し、恣意的な曖昧(あいまい)解釈に基づく「徳」を名目とした「私」の不当な利益享受のむさぼりや私的独占の強引な政敵排斥の独裁政治の名目として、かの「徳治主義」は時に使われてしまう。結果、儒教による政治は「仁政安民」への配慮ら公的政治意識の欠如にて、為政者個人(とその一族やシンパ)の私的政治への腐敗・堕落を招きやすい。☆もともと孔子が標榜する有徳者たる「君子」は、当人の生まれの血統・出自や生育環境による先天的な要素が大きいため(人間の人徳形成には当人の個人努力の要素は比較的少ない)、特定一族の礼賛、その一族での個人の徳性を考慮せずしての為政者世襲の黙認、「君子」個人への非合理な熱狂的崇拝・心酔に傾きやすい。

☆儒教道徳の「五倫五常」は、「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の人倫の「道」をまっとうすべきことを説き、ことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いて、厳しい身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」として現実には機能するため、父子・君臣・夫婦・長幼の各関係にて、内心では相手に親愛の情や尊敬の念は何もないのに、表面的・儀礼的に目上の上位者に対し恭順にわざとらしく振る舞う偽善・堕落が、社会の人間交際に蔓延する。☆儒教倫理は上位者への恭順・服従を暗に広く強力に説くため、各自が主体的に考えて行動する近代的主体の形成を阻害する。結果、人々の間に「無気力・卑屈の気風」の無責任の精神が広がる。またこうした儒教道徳では人間個人に関する権利保障の観念(人権意識)が希薄なため、儒教道徳の奨励は前近代な封建的人間関係を保持したままで、社会・文化の停滞を招く。

以上のような儒教に関する問題点の批判的認識を当時より持っていたので、儒教の創始者である孔子に傾倒していたり、儒教の根本教典である「四書」の内の一つとされる「論語」を愛読し儒教道徳に依拠して、年上の師・先輩への「忠」や親に対し「孝」の敬(うやま)いの気持ちを尽くすことを社会儀礼の「礼」と見なして強く勧め、その恭順姿勢の遵守を人の「道」として説教臭く熱心に人前で語りたがる人たちを内心、私は馬鹿にしていたのである。もちろん、決して相手や周囲の人には気付かれないように。

近年でも孔子と「論語」は人気だ。その支持者と愛読者は多いようである。だが、私は昔から孔子と弟子たちとの言行録である「論語」を読んで、いつも次のような不信の不満を感じていた。すなわち、

「孔子は、春秋戦国時代末期の魯(ろ)の国の出身で、長い苦学の末に52歳でやっと魯の官吏となり、その知識と実力を認められて魯の国政に参加した。しかし、政治改革をめぐる政争に敗北して56歳の時に魯を去り、以後14年間、弟子とともに諸国を遊説し、自身の理想政治(徳治主義!)を説くが、結局はどの国にも採用されず仕官の願いは叶(かな)うことなく、晩年は魯に帰り弟子の教育に専念して74歳で亡くなった。孔子は遂に自分の意を遂げることなく、志半(こころざし・なか)ばにして人生を終えた人であった。

そうした孔子の激動の不幸な経歴からして孔子は、自身が唱える政治の理想や諸政策に興味を示し、その趣旨に賛同したり、孔子を自分の国の国政に迎え入れようと尽力した諸侯・官人に対しては、『徳』を身につけ道徳的人格を完成させた『君子』に近い見どころある人物として時に肯定的に評するが、他方、自身の徳治主義の理想政治を何ら理解せず、孔子ら一同に『礼』を尽くさず招聘(しょうへい)しようとしない各国諸侯に対しては、目先の利益のみを求める取るに足らない『小人』として否定的に断じて切り捨てることが多い。孔子においては、他者からの自身への評価によって自身からの他者への人物評価を切り替える傾向があった。

そして、師の孔子と同行して各国へ仕官志願の遍歴を重ねた弟子たちも、彼らの間で師の孔子に気に入られ、孔子よりの好人物評価を得て、師である孔子から一目置かれる人物になることを暗に願い互いに競うような、孔子への忠誠競争の序列争いに弟子の各人が腐心している『閉鎖的小集団内での忠誠・序列競争の気の毒な話』にも『論語』は読める。そうしたことが『論語』を読むと私にはいつも感じられて案外、馬鹿らしい気持ちになる。『論語』における孔子と弟子たちとのやり取りが『美しい師弟間の人倫』には、どう読んでも思えない」

以上に尽きる。

さて岩波新書の赤、井波律子「論語入門」(2012年)である。本書の帯には「誰しも元気がわいてくる・孔子の稀有の魅力にふれる」と書いてある。また本新書の「序」には、

「本書は、つごう五百有余条の『論語』から、百四十六条を選びだし、各条を『孔子の人となり』『考えかたの原点』『弟子たちとの交わり』『孔子の素顔』の四章に分類・収録するという構成をとっている。『論語』にみえる孔子自身の発言を中心に、おりにつけ弟子たちの発言をまじえながら、孔子の生きかた、考えかた、弟子たちとの交わりかた、溌剌(はつらつ)とした感情表現等々を、具体的にたどることによって、孔子という人物の大いなるイメージを浮き彫りにしようとする、一つの試みである。この試みによって、孔子を中核とする大古典『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力を、いささかなりとも、いきいきとした形で『今、ここに』とらえかえすことができれば、これにまさる喜びはない」

とある。「孔子を中核とする大古典『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力を」と著者は意気込んでいるが、私からすれば「『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力」を期待して本書ならびに孔子の「論語」を直に読んでみても、話半分である。なぜか私には、ほとんど「元気がわいて」こない(苦笑)。

ただ岩波新書の井波律子「論語入門」には、著者により厳選された「論語」の文章が必ず「白文と書き下し文と現代語訳」の三点セットで丁寧に掲載されており、漢文学習の文章読解のための格好の練習教材として「論語」は読むのに適している、といった程度である。