アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(516)田中彰「小国主義」(その2 中江兆民)

前回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、今回と次回で中江と石橋について、特に「小国主義」という観点にとらわれることなく自由に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は明治の思想家、中江兆民についてである。

「中江兆民(1847─1901年)は高知出身の思想家。岩倉使節団と共にフランスに留学、74年帰国。東京に仏学塾を設けた。1881年以降、『東洋自由新聞』で自由民権論を説く。1890年、衆議院議員となったが、翌年自由党土佐派の妥協に憤慨して議員を辞職。『三酔人経綸問答』を著す」

中江兆民は自身のフランス留学の経験からフランス流の急進的自由民権論を唱えて、民権運動の理論的指導者となった。近代日本における自由民権運動の理論的指導者では中江兆民、植木枝盛あたりが一流の一級である。彼らは薩摩・長州の藩閥政府以外の出自のために自身が明治新政府の要職に就(つ)けない個人的不満とか、維新後の四民平等による旧士族が没落の私的怨念や、地方出身者で自由民権運動を足がかりに何とか立身出世を果たし世に出てやろうの下流の野心もなく、確かに西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景があって、理論的であり理性的であった。中江兆民なら人民主権に裏打ちされた社会契約論、植木枝盛ならば天賦人権論に裏打ちされた抵抗権・革命権の主張というように。

中江兆民は、もともと漢学の心得がある上にフランス語の外国語ができるので、思想内容以前に兆民による人々の耳目を強くひき付けるフレーズや彼独自の造語など文筆の才にあふれており、非常に優秀である。同時代の自由民権論者や啓蒙思想家の中で中江兆民は頭ひとつ抜けている。

例えば、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(「日本人は昔から自分で作った哲学を持たず、確固とした主義・主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がない」の意)の兆民の指摘は有名である。また明治憲法発布の当日、弟子の幸徳秋水によれば「兆民先生、通読唯(ただ)苦笑する耳(のみ)」で、中江兆民による「恩賜的民権から恢(回)復的民権へ」(「為政者から人民に施しとして与えられた限定つきの民権ではなくて、人民がみずからの手で獲得した権利へ発展させなければならない」の意)での、「恩賜的民権」「恢(回)復的民権」といった兆民独自の造語センスが抜群である。その他、兆民が帝国議会の衆議院議員辞職時の「(議場は)無血虫の陳列場」(「無血虫(むけっちゅう)」とは「血のない虫」で「冷酷でむごい人」の意味)という最後の去り際の捨てぜりふなど、実に傑作であり最高だ。私は今でもテレビで国会中継を視聴するとつい中江兆民の「(議場は)無血虫の陳列場」の言葉を思い出し、それを言い換え「議場は虫けら共の陳列場」とつぶやいて独り勝手に苦笑してしまう。

中江兆民はルソーの「社会契約論」を漢文調で抄訳した「民約訳解」(1882年)を出して日本に人民主権説を紹介したため、「東洋のルソー」と呼ばれることがある。「社会契約論」(1762年)を著した本家フランスのジャン・ジャック・ルソーは猜疑心が強く陰気で、いつも対人トラブルを起こし恋人や友人やパトロンらとの間で交際が長続きせず、自称「人間嫌い」の厭人病を発病して結果、すぐに孤立して孤独になってしまう、かなり気難しくて交際しにくい、周りの人達からして非常に扱いにくい困った人であった。他方「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は無類の酒好きで、皆と酒を飲んででいきなり下半身露出して往来に晒(さら)したり、宴会席で紙幣を100枚ほどばらまき芸者たちに拾わせては「ああ愉快、愉快」と大はしゃぎするような破天荒で人付き合いよく、友人らといつも楽しく過ごせる快活陽気な人だったのである。そのような豪快で好人物の兆民であってみれば、彼が「東洋のルソー」と呼ばれるのは何だか気の毒な思いがいつも私はする。中江兆民は日頃の深酒の痛飲がたたってか、喉頭がん(後に食道がんだったと判明)で54歳で亡くなってしまう。

中江兆民は生涯にわたり在野の人を貫いた。明治藩閥政府への激しい対抗批判をなす自由民権運動家に対し、明治政府は政府内での要職打診をしたり、費用を援助して海外留学させたりの懐柔策で民権論者を取り込み意のままに操ろうとした。自由民権運動下で板垣退助や徳富蘇峰らは、そうした懐柔策にはまり、やがて次々と藩閥政府に取り込まれていく。だが中江兆民だけは違った。兆民は一度も藩閥政府に日和(ひよ)って明治政府側に与(くみ)することはなかった。

しかし、その一方で兆民は、いつの時でも一つの仕事を我慢強く継続してやり遂げて自分のものにできなかったことも事実である。中江兆民はすぐに仕事を投げ出して次々と新しいことをやる相当に飽きっぽい性格であった。とにかく堪え性(こらえしょう)のない人だった。兆民は学校校長となったり新聞社主筆となっても、すぐに辞めてしまう。みずから立候補し見事当選して帝国議会で晴れて衆議院議員になるも、自由党土佐派の裏切りによる政府予算案成立に憤慨してわずか一年足らずで早くも議員辞職してしまう。その後、政治から離れて材木業や鉄道事業ら数々の事業に手を出すが長続きせず、ことごとく失敗している。

ところで、戦前昭和の日本に本格の探偵小説家で小栗虫太郎(1901─46年)という天才がいた。小栗の「黒死館殺人事件」(1934年)など日本の探偵推理において、突出した異才発揮の名作である。そうした天才の小栗虫太郎であるにもかかわらず、小栗は探偵小説を継続して書き続けることなく、戦時の生活苦から陸軍報道班員として突如、海外の南方に出向いたり、地方で果糖製造の事業を立ち上げたりで、本業の探偵小説業を中途放棄してあれこれやっているうちに過労が重なり、病に倒れ44歳の早さで亡くなってしまう。小栗虫太郎には、当時まだ探偵小説の読み手が少なく広く社会に探偵推理の文学が普及しておらず、探偵小説執筆の専業では食べていけない戦前日本の文学環境が未成熟の時代的不幸があった。

この小栗虫太郎の生涯にての探偵小説執筆での大成を果たせずに早世した事例を思い起こす度に、いつも私は明治の自由民権運動の思想家、中江兆民のことを思い出す。確かに兆民には辛抱せず長続きしない、すぐに仕事を投げ出してしまう飽きっぽい本人気質の問題もあったが、それ以前に兆民が生きた近代日本の明治期にて、自由民権論を唱え明治政府を批判しながら、そのことで自身の思いを遂げてつら抜く在野の思想家・ジャーナリストとして生きる世論や組織や制度の社会的基盤の成熟環境がなかった。中江兆民の著作「三酔人経綸問答」(1887年)と評論「国家の夢、個人の鐘」(1890年)は、西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景に支えられ理論的に特に優れている。これら論考は近代日本の民主的な思想潮流の中で時代的にかなり早く、完成度が高くて早熟である。

しかし、そうした民主的な民権思想家の中江兆民を許容して支える市民社会的基盤がまだ明治の日本にはなかった。結果、優れた自由民権思想家の中江兆民は学校校長や新聞社主筆や衆議院議員や実業家ら、さまざまな仕事を短期のうちに次々に転々として、必ずしも成功し大成したとは言い難い生涯を送り、最期は常日頃の深酒の痛飲がたたって喉頭がんで病に倒れ54歳で亡くなってしまう。非常に残念で、やるせない思いが兆民の著作および中江兆民研究を読むといつも私には去来する。