思えば経済学者の宇沢弘文(1928─2014年)は、元は理学部に在籍し数学を専攻していたが、河上肇「貧乏物語」(1917年)を読み感銘を受けて経済学に転じた、河上肇の社会主義思想に傾倒した人だった。後に宇沢はアメリカに留学し、効率重視の安定成長を第一義に目指すケインズ理論ら新古典派経済理論の限界を指摘するに至る。帰国の後は、元は数学者の資質から統計理論や数字算出の地道な手法に裏打ちさせて、「水道や教育や報道などは文化を維持するために欠かせないものであり、それらを市場原理に委ねてはいけない」「効率重視の過度な市場競争は格差を拡大させ社会を不安定にする」旨を主張し、都市政策や環境問題に経済理論を絡(から)めて積極的に取り組んだ。宇沢弘文は、今日でいう市場原理万能視の新自由主義(ネオリベラリズム)に真っ向から対決するような「福祉経済社会」政策ベースの経済学者であった。
没後、宇沢弘文の過去の仕事が注目され今日、広く深く読み返され再評価されているのも、価格統制の廃止、資本市場の規制緩和、貿易障壁の排除、移民労働力の拡大、福祉・公共サーヴィスの縮小、公営事業の民営化ら市場化と緊縮財政とで政府による経済への影響の削減を急速に推し進める経済改革政策にて、市場競争のみの重視による国際格差と国内での階級格差の激化、民族共同体の解体、自己責任論の横行と相乗させて「小さな政府」下での公的社会福祉政策の放棄による人々の総貧困化などをもたらし、国民の大多数を占める中間層からのダンピングと安価な移民労働力に依存する搾取型経済の典型たる現在の世界経済の一大潮流である所の、昨今の新自由主義的なあり方に抗する「ネオリベ批判の経済学」の古典として、そうした文脈で主に宇沢の著作が読み返されているからに違いない。
宇沢は岩波新書から多くの新書を出している。何と!これまでに岩波新書で7冊も出ている。
宇沢弘文「自動車の社会的費用」(1974年)、「近代経済学の再検討」(1977年)、「経済学の考え方」(1989年)、「『成田』とは何か」(1992年)、「地球温暖化を考える」(1995年)、「日本の教育を考える」(1998年)、「社会的共通資本」(2000年)
これら宇沢の岩波新書は内容が重複しており、そこまで複数冊も連続して数多く出す必要はないと正直、私は思うのだが。とりあえずは青版の「自動車の社会的費用」(1974年)と赤版の「社会的共通資本」(2000年)は、宇沢弘文が志向する宇沢経済学の中心思想を著した代表作であり、さらには岩波新書歴代の既刊総カタログの中でも絶対に外せない、一度は必ず読んでおくべき岩波新書の必読の名著といえよう。「自動車の社会的費用」と「社会的共通資本」の両著ともにタイトル及びその中核概念に「社会」という言葉があることに留意されたい。宇沢弘文は、公的国家や私的企業の利潤追求とは時に相反する、「(市民)社会」の観点から人間の権利保障を第一にした「社会のための」経済学を一貫して展開した人であった。
今回は岩波新書の赤、宇沢弘文「経済学の考え方」(1989年)を取り上げる。本書の概要は以下だ。
「経済学とはなにか、経済学の考え方とはどういうものか─日本を代表する経済学者が自らの研究体験を顧みながら、柔軟な精神と熱い心情をもって、平易明快に語る。アダム・スミス以来の経済学のさまざまな立場を現代に至るまで骨太いタッチで把え、今後の展望をも与える本書は、経済学のあるべき姿を考えるために格好の書物と言えよう」(表紙カバー裏解説)
岩波新書の宇沢弘文「経済学の考え方」は、「アダム・スミスからケインズ以後まで」の経済理論史の概説である。ただし新書一冊完結で総数265ページなため、足早に非常にスピーディーに要点のみを極めて簡略に述べている。先の表紙カバー裏解説文での「アダム・スミス以来の経済学のさまざまな立場を現代に至るまで骨太いタッチで把え、今後の展望をも与える」での「骨太いタッチで把(とら)え」るとあるのは、「何しろ新書一冊分で紙数が相当に限られているから本書ではスミス以来の経済学史を、あまり細部に拘泥せず深くは掘り下げずに、あえて大まかに太い線のタッチでラフに素描した」旨の著者ならびに編集部よりの裏メッセージがあることを、あらかじめ読者は踏まえて本新書に当たるべきだろう。岩波新書「経済学の考える」に関し、「概説が不充分で説明が不親切だ」とか「解説の省略や議論の飛躍か多くて分かりにくい」などの苦言を呈してはいけない。常識的に考えて、「アダム・スミスからケインズ以後まで」の近代経済学の歴史をたかだか260ページ前後の新書の一冊で全て書き抜くこと自体が相当に困難だと思われるので.
宇沢弘文「経済学の考え方」のおおよその内容はこうだ。まず序論に当たる第1章の「経済学はどのような性格をもった学問か」で、宇沢弘文が社会科学としての経済学の定義をしている。「暖かい心と冷めた頭脳」(8ページ)といったフレーズにて、経済学という学問に関する本質的な規定をやっている。この序論はわずか10ページほどだが、まさに「経済学の考え方」について簡潔で引き締まった硬質な文体で書かれており、これから経済学を学ぶ人、経済学とはどのような学問か知りたい人ら経済学の初学者は必読である。
続く第2章から第4章まででスミス、リカード、マルクス、ワルラスを取り上げて新古典派経済学の理論的前提を「生産手段の私有制、経済人の合理性、主観的価値基準の独立性、生産要素の可塑性、生産期間の瞬時制、市場均衡の安定性という仮定が置かれていて、いわば純粋な意味における資本主義的市場経済制度のもとにおける経済循環のプロセスを分析しようとするもの」(84ページ)とまとめている。それから新古典派のワルラス批判を展開したヴェブレンを「新古典派理論に対する最初の体系的な批判者」(91ページ)とする小論を中途の第5章に短くはさみ、続く第6章で「理性的な財政政策と合理的な金融制度にもとづいて、完全雇用と所得分配の平等化を可能にするという、すぐれて理性主義的」(138ページ)なケインズ経済学を概説する。そうして第7章と第8章とで、いわゆる「ケインズ革命」以降の第二次大戦後の経済学史の新しい動向でジョーン・ロビンソンらを取り上げる。
そして、第9章にて「反ケインズ経済学」として「合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮設、サプライサイド経済学」の四つの形態を挙げ、それぞれについて論じる。「反ケインズ経済学は、…その共通の特徴として、理論的前提条件の非現実性、政策的偏向性、結論の反社会性をもち、いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつものである」(189ページ)と一刀両断に断じているように、ケインズ経済学以降の今日流行の「反ケインズ経済学」の主要な経済学潮流について宇沢弘文は終始批判的である。「いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつもの」と市場原理主義の性格を難としており、それへの評価は非常に厳しい。その上で最後にリカッチマン「追いつめられた経済学者たち」(1976年)での「(1970年代よりの反ケインズ経済学は)貧困、失業、インフレーション、資源、多国籍企業、労働組合など、…これらの諸問題に対して適切な分析をおこなうことができないだけでなく、経済学者の多くがそのことをはっきりとした形で意識することなく、問題をさらに深刻化させるような方向で分析を展開し、逆に反社会的な役割を果たしつつある」(213ページ)とする考察に依拠した形で論述を進め、その上で「リカッチマンの主張に対して、私も全面的な同感を覚える」(216ページ)と宇沢弘文はリカッチマンによる反ケインズ経済学への厳しい批判に「全面同意」である自身の立場を明確にしている。
終章の第10章は、「現代経済学の展開」として本書執筆時の1980年代の同時代の経済学の流れ、「反ケインズ経済学の終焉」として、ケインズ経済学以降のものを展望的に概観している。そのなかでも後の宇沢弘文の岩波新書のタイトルにもなっている、宇沢経済学での主要概念の内の一つである「社会的共通資本」の理論の概要が本章でコンパクトにまとめられており(247─256ページ)、読んで有用である。
岩波新書の宇沢弘文「経済学の考え方」は1989年に出された書籍であった。このことから今日の2020年代以降に読み返してみると、本新書は「アダム・スミスからケインズ以後まで」を述べた単なる経済理論史の概説であるばかりでなく、当時の時代を知る「時代の書」としても誠に興味深く読める。つまりは本書初版時の1989年とは、国際的にはソビエト連邦崩壊(1991年)直前の時期で当時ゴルバチョフ政権によるペレストロイカ改革にてのソ連の経済的混乱、さらには中国でも天安門事件(1989年)の民主化弾圧の同時代の動きがあって、ソ連の共産主義と中国の社会主義の政治経済体制に相当な不信の国際世論の強い非難が寄せられている時節であった。そうしたなか宇沢弘文は本書でのマルクス主義経済学の解説箇所で、現在のソ連の共産主義並びに中国の社会主義経済に対する批判を多くの字数の紙面を割(さ)いて非常にしつこく繰り返しやっている(43─52ページ)。
必ずしも直接的に文章にして書いてはいないが、「私は河上肇『貧乏物語』を読み感銘を受けて経済学を本格的に志した旨を事あるごとに喧伝しているけれど、だからといって宇沢弘文は社会主義思想に完全にイカれてマルクス主義経済学を信奉している、生粋(きっすい)のマルクス主義の経済学者というわけでは決してない。私は今日のソ連と中国の共産主義ないしは社会主義の経済体制や経済政策を完全支持などしていない。むしろ相当に批判的である。そのことを読者諸君は絶対に勘違いするなよ」の言外のメッセージが確かに本書記述の行間・背後・全体に強力にあるのだ。そうした執拗な念押しのクドい確認、著者の宇沢弘文の直接的には書かれざる言外の必死さが本書を読む際に感受できて、私はかなり笑えた。
また本新書が出された1989年は日本国内ではバブル経済のバブル景気の真っ只中の最高潮で、日本中の多くの人が経済の好景気に歓喜し浮かれていた。多くの人が地に足のつかない浮(うわ)ついた時代であった。そうした不動産・株式らの時価資産価格が投機によって経済成長以上のペースで高騰し、実体経済から乖離(かいり)して(実体経済にそぐわない膨張経済だから「バブル(泡)」経済という)、さらなる過熱投機の信用経済で膨張を続けた日本国内のバブル景気隆盛の時代の中で、「反ケインズ経済学の流行」にて1970年代から「さまざまな規制・管理制度の撤廃、社会的共通資本の私的管理ないしは所有への移管、予算均衡主義、貨幣供給量を重視する金融政策、さらに自由貿易、資本移動の自由化、変動為替相場制度の採用等々」(212ページ)の考え方が広く顕著に見られたことを問題視し、その自由放任主義・市場原理(万能)主義の反ケインズの経済学は、「インフレーション、失業、資源問題などという、すぐれて経済学的な現象を解明するための分析的枠組みをもちえないとともに、他方では、貧困、不公正の問題を解決するための政策的指向を欠如している」(214ページ)として、市民社会的な人道正義の倫理的観点から暗に、しかし痛烈に宇沢弘文は否定的に書いていた。
本書初版時の1989年には、私はまだ10代の高校生で本書を未読であったし、経済学者の宇沢弘文その人のことも全く知らなかった。後に宇沢弘文のことを知り、宇沢の著作を読んだ。同時代の何ら実体経済にそぐわない、かなり危うい投機型経済たるバブル景気の流行に安易に迎合することなく、岩波新書の赤、宇沢弘文「経済学の考え方」のような堅実硬派な経済理論史の書籍が当時の1980年代に執筆され出版されていた事実に、後の90年代に読み返して私は何だか胸が熱くなる感動の思いがした。