近年の岩波新書は中国史関連の書籍が充実している。19世紀の清朝から始まる現代までの中国史概説である「シリーズ中国近現代史」全6巻(2010─17年)を、それとなく手に取り、全巻読了して弾切れになった所で、今度は、黄河文明の古代から清朝の19世紀までを概説した「シリーズ中国の歴史」全5巻(2019─20年)があったので続けて全巻読んで、結局のところ数カ月のかなりの長い間、岩波新書の中国史書籍を私は読みふけっていたのだった。
こうした2010年代以降の、近年における岩波新書の中国史関連への力の入れ方は今日、中国が急速に大国化し政治的かつ経済的にグローバルな世界の中で大きな存在感の多大な影響力を有して、もはや世界の人々は中国の存在や振る舞い動向を注視せざるを得ず、そうした時流の中で今一度、現代の大国たる中国の成立から今日に至るまでの出自と展開の歴史を概観し総括しておくべきとする強い問題意識が、出版元の岩波書店にあるからだと思われる。
現代中国が強力に推し進める中国を起点として東南アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカを連続で結ぶ広域経済圏構想である「一帯一路」や、近い将来に勃発が懸念されている台湾海峡有事、すなわち中国本土に台湾を回収する中国共産党指導部にとっての悲願の念願たる「一つの中国」ら、確かに今日の大国・中国の動向に世界の人々は注目せずにはいられないのである。
私は、NHK「映像の世紀・バタフライエフェクト」(2022年─)のテレビ番組を楽しみでほぼ毎週視聴しているが、当番組での「竹のカーテンの向こう側・外国人記者が見た激動中国」「ふたつの超大国・米中の百年」など、中国関連の特集回は強く印象に残る。
近年、急速な大国化の懸念から現代中国に対する発言・言及や報告・評論の文章は多い。もともとの反共論者で、いわゆる「共産主義者嫌い」から共産党指導体制の中国をあからさまに悪く非難したり、中国への敵意の当てつけから、中国と現在敵対関係にある台湾やチベットに異常に肩入れして親身に味方する人達も多い。それら現代中国に関する言及や記述で、それが真面目に傾聴したり熟読したりするべきものであるかの私なりの判断基準を最後に示しておこう。
現代中国に関して、19世紀のアヘン戦争から1945年の第二次世界大戦の東アジア戦線終結の間まで、欧米列強と日本に干渉され侵略され領土分割され、蹂躙(じゅうりん)され続けて散々な苦杯の屈辱をなめさせられてきた近代中国の歴史を全く踏まえることなく、現代中国の高圧的なナショナリズムの高揚、国際政治における大国主義的で覇権的な中国の振る舞いをそのまま無邪気に直接に痛烈非難するような、中国や中国の人々に対する感情的な批判言辞には、大して真面目に傾聴したり熟読したりする必要はない。それらは軽く聞き流し、読み流してよい。そこには現在の中国の過剰な愛国主義や大国ナショナリズムの台頭由来への内在的考察の配慮が欠けているからである。
今日の中国に大国主義や覇権主義の高圧的ナショナリズムを読み込んで中国を悪く言い募(つの)ることは比較的たやすい。むしろ安直すぎる。それ以前に中国近現代史を学んで、「なぜ中国が今のような頑(かたく)な帝国主義的国家になってしまったのか」を考えるべきだ。中国近代史において、不平等条約の締結圧迫や敗戦に伴う多額の賠償・利権引渡請求やあからさまな軍事的侵攻と占領や保護国化の内政干渉や割譲・租借・租界の強要ら、あそこまで日本を加えた欧米列強に中国本土が支配され蹂躙されていなければ、かつて諸外国から領土分割され帝国主義支配を受けたという屈辱のルサンチマン(怨念)に満ちた、現在のような逆上した高圧的な覇権国家の中国は出現しなかったのでは、と私には思える。近代中国史を学び知るにつけ、いつの時期でも、国内外を含むどの地域でも中国の人たちは誠に気の毒である。
特に冷戦後の東アジア情勢は、欧米諸国と日本が中国に対する後先を考えずに奔放であった、かつての自分たちの中国に対する帝国主義的侵略行為の跳ね返り、過去よりの、いわば「世界史の負債」をいまだ各国ともに払わされ続けているのだ。
例えば、幼少期から青年期に肉体的ないしは心理的虐待やいじめや貧困の相当な困難があって現在、妙にひねくれていたり、時に暴言・暴力的であったりするような問題人物がいたとして、その人の過去の生い立ち事情を知っているなら、当人に対し頭ごなしに叱咤したり感情的に激怒したりの人格否定のようなことはしない。少なくとも私はそういう人に接した際には、短絡的で直情的な非難の攻撃は絶対にやらないのである。そうした問題人物の奔放な言動を全肯定で容認し放置することはないにしても、熟考してより慎重に宥和(ゆうわ)的に穏やかに対応するだろう。