岩波新書の赤、林香里「メディア不信・何が問われているのか」(2017年)の概要はこうだ。
「『フェイク・ニュース』『ポスト真実』が一気に流行語となり、世界同時多発的にメディアやネットの情報の信憑性に注目が集まる時代。権威を失いつつあるメディアに求められるプロフェッショナリズムとは?市民に求められるリテラシーとは?独英米日の報道の国際比較研究を通して民主主義を蝕(むしば)む『病弊』の実像と課題を追う」(表紙カバー裏解説)
「フェイク・ニュース」や「ポスト真実」が今や世界の流行語になっているというように、マスメディアの報道・ニュースに対する「メディア不信」が近年、世界中で問題になっている。「メディア不信」の一体何が問題なのか、そこでは「何が問われているのか」。この点について著者の林香里は次のようにいう。
「私たちの社会は、依然としてニュースや報道というジャンルを信頼することで成り立つ設計になっている。選挙、国会などの制度はもちろん、学校であれ企業であれ、マスメディアからの情報をもとに組織の方針を決定し、成立している部分が多分にある。つまり、言論・表現の自由が保障されている自由主義国家において、マスメディアには社会運営に必要な十分な知識をもつ主体的な市民を育てる任務が仮託されてきた。また、市民にかわって権力の監視をし、市民同士の自由な議論の場(フォーラム)を提供し、世論形成のリードをするといった、さまざまな公共的な機能が付与されてきた。つまり民主主義の原動力とも言える位置付けだ。したがって、『メディア不信』という状態は、民主主義や、民主主義で成り立つ社会設計に疑念を抱く『民主主義不信』へと連鎖することになりかねない。実際、国際比較メディア研究では、メディアへの信頼は、民主主義の信頼と相互に強く関係しているという結果がある。私は、いま『メディア不信』を考える際、民主主義の土台を揺るがす問いとして向き合わざるを得ないと考えている」(13・14ページ)
つまりは、もともとマスメディアには(1)情報提供を通して民主的な社会運営に必要な十分な知識をもつ主体的な市民を育てる任務と、(2)市民にかわって権力の監視をし、世論形成のリードをなす公共的機能の2つの主な役割がある。ところが「メディア不信」によって、そうしたマスメディアが機能不全に陥ると、民主主義や、民主主義で成り立つ社会設計に疑念を抱く「民主主義不信」へと連鎖することになりかねない、最終的には民主主義の土台を揺るがす民主的な社会の崩壊をもたらす、という著者の危機感である。
この記述が本書の骨子であり、岩波新書「メディア不信」にての最大の読まれ所の良所のように私には思える。そして、なぜそのような「メディア不信」を招く「フェイク・ニュース」が公的メディアのマスコミから今日、しばしば流されてしまうのかといえば、そこには「ポピュリズムと商業主義に蝕まれる『言論空間』」(201ページ)の問題があるからだと著者は指摘する。たとえ正確ではない誤報(いわゆる「フェイク・ニュース」)であったとしても、それは一時的に人々の関心を惹(ひ)き付け注目されてセンセーショナルに扱われ、結果マスコミ媒体(新聞、雑誌、放送、配信など)の売り上げ倍増に直結する。ゆえにポピュリズム(大衆人気)と商業主義(利益追求) が「フェイク・ニュース」を誘発し、そういった正確ではない報道・ニュースの連続が、やがてはマスコミに対する人々の世界中での今日の「メディア不信」を招くのであった。
「独英米日の報道の国際比較研究を通して民主主義を蝕(むしば)む『病弊』の実像と課題を追う」 とあるように、著者は世界のマスコミ事情に詳しい方で、日本国内のみならず世界各国のマスメディアが情報の信憑性を失いつつある実情を本書にて幅広く報告している。このことから「メディア不信」という問題が日本国内だけでなく全世界で同時多発的に現在起きていることが分かるわけだが、それら各国にて共通する「メディア不信」をもたらす「フェイク・ニュース」の問題事例には、少なくとも以下の3つの型があるように思える。
(1)「ファクト・チェック」(事実確認)を行っておらず、単純にその情報や報道が「フェイク・ニュース」である事例。(2)ある報道・ニュースが事実確認の裏付けがあり本当で適切なものであるにもかかわらず、自分(たち)が認めたくなかったり、自分(たち)と対立する組織や党派の主張・立場であることから「フェイク・ニュース」と無理矢理に決めつけ攻撃・排除しようとする事例。(3)個々の報道・ニュースが虚報や誤報であるかの確認以前に、特定メディアや報道機関を攻撃・排除したいがために「フェイク・ニュースの常習」や「信用できない嘘つきプレス」などと名指しして特定メディアの社会的不信を故意に煽(あお)る事例。
これらの具体例を岩波新書「メディア不信」に掲載されているものの中から、それぞれ挙げれば、(1)はイギリスの欧州懐疑の大衆紙が「女王はEU離脱派を支持している」の誤報を流した(63ページ)、イギリスの「デイリー・テレグラフ」紙が「英国に滞在する移民の数は公式の90万人ではなく非公式の240万人であり、我々は謝罪されるべきだ(英国には違法移民が多く存在する)」の虚報を掲載した(63・64ページ)、アメリカの大統領選中に「ローマ法王がトランプ支持を表明した」のデマがソーシャル・メディア上に多く流れた(97ページ)の事例がこれに当たる。
(2)には、ドイツの極右メディアによる「ナチスのアウシュビッツ報道はユダヤ人の陰謀で事実の誇張ないしは嘘のストーリーである」という決めつけ報告(31─35ページ)の事例が該当する。また(3)に関しては、アメリカのトランプ大統領就任前後に、トランプ政権に関する報道に不満を持っていた大統領が質問しようとするCNN記者の言葉を遮(さえぎ)り、「おまえはフェイク・ニュースだ」と言い放って質問を拒否した(99ページ)、日本の保守・右派色が強い「産経新聞」が自社紙面や同社論壇雑誌「正論」にて、左派・リベラルな論調の「朝日新聞」に対する「朝日新聞は必要か」の「メディア不信」を煽る一大キャンペーンを行った(146─152ページ)事例が、これに当たる。
これら虚報や誤報にて大いに問題なのは、単に裏取り取材をやらなかった「ファクト・チェック」(事実確認)が欠如の結果、たまたま「フェイク・ニュース」になってしまった場合ではなくて、もともと貫き通したい自分(たち)の主張・立場があって、もしくは自分(ら)と対立する組織や党派の立場・主張を攻撃し排除したいがために、その補強にわざと最初から「フェイク・ニュース」と分かって故意に流布する事例だ。その際、移民や在留外国人や特定の民族や国家を否定し排除したり、社会的弱者を差別し抑圧するような非人道的な倫理価値の案件に利する「フェイク・ニュース」の活用事例は特に深刻といえる。先の(1)と(2)の事例でいえば、イギリスの「デイリー・テレグラフ」紙の英国移民に関する虚報や、ドイツの極右メディアによる「アウシュビッツ報道はユダヤ人の陰謀」の決めつけ報告のケースである。
また(3)の事例も私には相当に深刻だと思える。先に引用したように著者によれば、マスメディアの主要な役割の1つに「市民にかわって権力の監視をし世論形成のリードをなす公共的機能」があった。しかしながら、アメリカのトランプ大統領が特定報道機関のCNN記者に対し、「おまえはフェイク・ニュースだからCNNの質問には答えない、取材は受けない」と言い放ち、政府が「フェイク・ニュースのプレス」と決めつけ排除するとマスメディアの権力監視の公的機能が阻害されてしまう。繰り返しになるが、民主主義の自由社会にてマスメディアの役割は政治権力から何ら規制や検閲を受けることなく、国家や政権の時に逸脱する恣意的権力行使を監視し、公的な世論形成を通じて、これに制限を付することにある。
いうまでもなく、政治権力は腐敗する。市民やマスメディアの監視がなければ政治権力が暴走して人間の権利を不当に制限したり、時の政権担当者らが汚職など権力の私物化に走る危険性が絶えずあるからだ。この意味で時の政権が特定報道機関を「フェイク・ニュースのプレスだ」とか、「偏向報道で信頼できないメディアだ」などと名指しし自らが気に入らないマスコミに対し排除の姿勢をとることは民主主義社会の存続に関わる由々しき問題である。
同様に(3)の個々の報道・ニュースに関してではなく、特定報道機関を「偏向報道のフェイクのプレス」と名指しして全否定し攻撃・排除しようとする事例での「産経新聞」による一連の「朝日新聞批判」は、右翼の政治運動ならびに右派のネット言論と近い関係にある「産経新聞」が、左派のリベラル色が強い「朝日新聞」の社会的信用を失墜させる「メディア不信」を故意に煽る攻撃である。
この対立の内幕に関しては岩波新書「メディア不信」にて詳細に分析されているように、「産経新聞は近年、購読者と発行部数の急激な減少により経営的に苦境にあると聞いている。そうした状況の中、読者から積極的な『信頼』を獲得するために敵対する媒体(朝日新聞)への『不信』を産経新聞が執拗に煽っている」旨の内情が指摘されている(146─152ページ)。産経による朝日批判のネガティヴ・キャンペーンは、もともと保守・右派の政治的立ち位置にある「産経新聞」が、左派リベラルの論調にある「朝日新聞」の論調に日頃から不満や反感を持つ新聞読者層の取り込みの「ポピュリズム」(大衆人気)と、「朝日新聞」の購読者を奪い結果、自社の部数拡大を目論む「商業主義」とに蝕まれてのことであった。このような自社のために「産経新聞」が「ポピュリズムと商業主義」の利己心にまみれて同じ報道機関の「朝日新聞」のプレス不信を社会的に扇動するのは、結局のところ産経も含めた新聞メディア全体の「メディア不信」を引き起こすものであり、「産経新聞」による「朝日新聞」への異常な一方的な叩き方は、新聞業界全体の「メディア不信」を誘発する自殺行為であると私は危惧せざるを得ない。
さて、以上のような主要な問題が世界同時多発的に見出だされる昨今の「メディア不信」の問題であるが、その解決の方策はあるのだろうか。本新書の著者・林香里は「メディア不信を乗り越える」ための「今後に向けた提案」を四点に渡り最後にまとめている(215─227ページ)。しかし、どれも即効性ある根本解決のそれにはなっていないように私には思える。
冒頭で述べたように岩波新書の赤、林香里「メディア不信」の骨子は、もともとマスメディアには「情報提供を通して民主的な社会運営に必要な十分な知識をもつ主体的な市民を育てる任務」と、「市民にかわって権力の監視をし、世論形成のリードをなす公共的機能」の2つの主な役割があることを押さえた上で、「メディア不信」によって、そうしたマスメディアが機能不全に陥ると、最終的には民主主義の土台を揺るがす民主的な社会の崩壊をもたらすという警鐘を鳴らすものである。そこが本新書の最大の読まれ所の良所であった。ゆえに民主主義の自由社会にてマスメディアの2つの主な役割(情報提供と権力の監視)を再確認することから再度始めて、民主的な社会におけるマスコミの重要性を各自が再認識し、昨今の世界同時多発的な「メディア不信」の問題を乗り越えるしかないのではないか。本書を読んで私にはそう思えた。