現代の国際政治における各国の行動指針は、倫理的な人道上の正義ではなくて、政策遂行に伴う、いわゆる「リスクとコスト」であるから、例えば北朝鮮という核不拡散の国際規約に反する核開発疑惑があり、テロ国家やそれに準ずる組織を物資提供の面で秘密裏に支援している疑いもあり、また東アジアの近隣諸国の人々をかつて拉致していた事実があったとしても、そうした「ならず者国家」たる北朝鮮に対し、米韓日の関係諸国が懲罰の懲(こ)らしめで多国籍軍による総攻撃の軍事制裁、つまりは戦争を仕掛け北朝鮮の現体制の息の根を止めて崩壊させる事態には到底ならないのである。
人道的判断の軍事発動の軍事制裁で「ならず者国家」の北朝鮮を一気にガツンと叩けば「正義の遂行」の勧善懲悪で溜飲(りゅういん)が下がり良いかもしれないけれど、仮に世界最強の圧倒的軍事力を有するアメリカ軍を中心とする多国籍編成といえど、短期で首都・平壌(ピョンヤン)を陥落し制圧できたとしても、その間に北朝鮮軍の必死の抵抗で隣国の韓国と近隣の日本は確実に戦禍に巻き込まれ、戦闘参加の兵士のみならず一般市民の人的殺傷被害を多大に被(こうむ)る。また多数の戦争難民が北朝鮮友好国の中国とロシアの国境にあふれる事態となる。東アジア経済は麻痺(まひ)して交戦需要による利益よりも確実に損失の方を多大に受ける。そうした軍事制裁に伴う「リスクとコスト」原則から考えれば、現代の国際政治では、そう簡単にあからさまな物理的暴力の武力行使による「軍事制裁」という名目での戦争行為は出来なくなってしまっている。もはや本格的な戦争はできない時代であるのだ。
そこで今日では人命が直接的に犠牲になる軍事制裁である戦争ではなくて、経済制裁によって敵対する相手国を叩きたいという傾向が世界の覇権を握る超大国のアメリカを筆頭に世界各地域に浸透してきている。その中でも特にアメリカによる経済制裁の連発・多用の実情を紹介し、またその仕組みや問題点や今後の展望を記したのが岩波新書の赤、杉田弘毅「アメリカの制裁外交」(2020年)である。本新書の帯にある「経済制裁という『血の流れない戦争』その威力と闇」というフレーズが印象的だ。確かに経済制裁は軍事制裁の直接的武力行使とは異なり、一見穏健で「平和」な「血の流れない戦争」なのであった。
本書冒頭にて、著者は「今の世界は経済制裁を抜きには語れない」という。そして、その「経済制裁」には2つある。一つは「貿易制裁」である。つまりはモノの遮断である。これは昔からある古典的な経済制裁で、例えば古くは太平洋戦争開戦前におけるアメリカの日本に対する石油禁輸ABCD包囲網や、比較的近年なら湾岸危機に際してのアメリカのイラクに対する全面的貿易禁輸がその典型として挙げられる。しかし、貿易制裁のモノの遮断はいくらでも禁輸の抜け道を見つけられ、経済制裁としての効果は薄い。モノはどこでも生産でき、かつ監視をくぐって密に貿易できるからだ。
そこでもう一つの経済制裁として、モノに生産加工される以前のそもそものカネの出所と動きを完全に押さえて止める「金融制裁」が現実に効果ある有効な制裁であり、注目されて現在では多用される。特に「アメリカの制裁外交」といった場合、今日の世界経済はアメリカのドルを国際基軸通貨として使用する、いわゆる「ドル覇権」のグローバル経済体制下にあるのであるから、米国が自国の通貨でもあるドル使用に独占的ににらみを利かせられる。そうしたドル覇権の圧倒的影響力にものを言わせて、制裁リスト対象の口座凍結をしてアメリカ政府が敵対する特定の国や組織に対し世界基軸通貨のドルを使わせないようにする。また、そのためにそれら特定の国家や組織に送金などの金融サービスを提供している金融機関の銀行にも連帯責任で億兆規模の多額の制裁金を科す。時にアメリカ遂行の金融制裁の意向に反して制裁対象国や組織にサービス提供した金融機関には、米国内での銀行免許没収の脅しまで突き付けるという。ドル覇権下にある世界の銀行は、ニューヨーク・ウォール街での業務を必須とするため米国内での銀行免許没収というアメリカ政府の脅しにほぼ屈するというのだ。そうした今日の米国による金融制裁の実情が、岩波新書「アメリカの制裁外交」には詳細に書かれてある。
岩波新書「アメリカの制裁外交」は、主に二つの内容に分かれる。前半は世界における経済制裁の歴史とアメリカによる経済制裁、なかでも金融制裁について各国(北朝鮮、イラン、ロシア)に対し米国が実際に行った具体的概要の時事論の説明に当てられている。著者の杉田弘毅はニューヨークやワシントンの特派員を経て、本書執筆時には共同通信特別編集委員の役職にある。経済報道畑の記者仕事を一貫してこなしてきた人だけに、過去のアメリカ政府の金融制裁に関する時事的記述は読みごたえがある。
私が本記事を書いているのは2020年8月であるが、私は2019年から「米中経済戦争」とも称されるアメリカのトランプ政権によるアメリカ国内ならびに同盟国市場からの「華為技術(ファーウェイ・HUAWEI)」の締め出し問題に関心を持ち、事態の推移を見守ってきた。ファーウェイはスマートフォンの世界シェアで上位に食い込む中国のIT企業である。本書にも「第1章・孟晩舟はなぜ逮捕されたのか」というアメリカ政府による強制的なファーウェイ排除の問題が解説されており、読んで誠に興味深い。孟晩舟(もう・ばんしゅう)はファーウェイの副社長兼CFOであり、この章タイトルは2019年12月に孟晩舟がカナダ滞在中に逮捕され(すでに保釈済)、この逮捕からアメリカ主導の中国企業に対する貿易包囲網の強化、輸出規制の制裁を科す各国市場からのファーウェイ締め出しの一連の強硬な動きを指す。通信技術革命をきたすであろうとされる、ゆえに業界に莫大な利益をもたらす第五世代移動通信システム(いわゆる5G)導入前夜の各メーカーが5G参入準備に追われる2019年時点で、高品質だが安価なスマホを市場に供給し続ける中国企業、ファーウェイの躍進は米国を始めとする欧米の同業企業にとって、もはや見過ごすことの出来ない大きな脅威になっていた。ファーウェイ案件はまさに「アメリカの制裁外交」の問題を象徴する2020年の今日的トピックといえる。
後半ではアメリカの経済制裁の仕組みや問題点や今後の展望を述べており、これまた読んで興味深い。アメリカの金融制裁は複数国家からなる公的国際機関による国連安保理制裁のような公的なものではなく、米国一国による単独制裁であるがゆえに、時のアメリカ政府の意向や手心が露骨に加わる極めて恣意的で私的なものであるから、科される制裁に関し客観性・公平性・妥当性の点で相手国に時に疑念や不服の遺恨を大いに残す。「アメリカの制裁外交」における「不透明な制裁金の基準」や「冤罪(えんざい)の恐怖」や「アメリカは諸外国に対し国内法の米法でなぜ外国を縛ることができるのか」といったアメリカ一国による私的「制裁の闇」が本書にて指摘されている。
その中でも「第7章・巨額の罰金はどこへ」にての、以下のような内容の記述は私にはかなり衝撃的であった。すなわち、「アメリカ政府は正義の裁きを以て経済制裁にて罰金を徴収すると力むが、肝心の莫大な制裁金はどこに流れ、最終的に何に使われているのかといえば、その使い道は連邦政府やニューヨーク州政府に収入として収められ、それぞれの政府が他の収入と同様に自分達の国内事業に自由に使っているという。もともと核兵器の開発・核拡散阻止やテロ対策、麻薬などの資金洗浄といった国際的正義に違反したことで制裁の罰を科されたのだから、支払われた制裁金はこれら国際的な正義実現のために活動する国際機関が徴収し、その活動資金に当てるのが妥当である。だが、アメリカ政府にはそうした発想は全くない。米国はあくまでも米国が捜査し米国が徴収した制裁金なのだからアメリカが自由に使ってよいと開き直る」(132─138ページ)とある。これでは「アメリカの制裁外交」といいながら、その内実はアメリカの連邦政府と州政府による「公的制裁」という名目での実は「タカリの金銭むしり取りの私的流用」ではないか。
総じて岩波新書の赤、杉田弘毅「アメリカの制裁外交」は、アメリカによる昨今の金融制裁を柱とする一国制裁の妥当性や正当性を疑い、そのことをどこまでも厳しく糾弾していこうとする新書である。そこには現在のグローバル経済体制下にて自国通貨のドルが同時に国際基軸通貨にもなっているというドル覇権を背景に、公的「制裁」名目で実質は米国第一主義で極めて私的に振る舞う現代アメリカの問題が明らかにされている。著者は昨今の「アメリカの制裁外交」をして、以下のような旨の将来展望を本書にて述べている。
「米国の制裁多用傾向は世界をどこに導くのだろうか。米国の制裁に反発する中国、ロシア、イランらがドルを介さない決済システムを構築しようとしている。米国が基軸通貨ドルを握り金融の力で世界を支配している状況を苦々しく見ていた中国やロシアは、米国の金融制裁依存の状況を非ドルのシステムを作り上げ、ドル覇権を揺るがすチャンスと見て挑んできているように思える。自由と民主主義の理想を掲げるアメリカが強権的に制裁を発動する今日の事態、異様とも思える私的制裁を連発するアメリカの世界覇権はゆっくりと衰退していく気がしてならない」
「米外交は経済制裁、特にドル覇権を背景とする金融制裁を抜きには語れない。しかもイランや北朝鮮等の敵対国やテロ集団にとどまらず、根拠法の『国外適用』により第三国の企業や個人も制裁対象になる。なぜ経済制裁は多用されるのか。それは世界に、そして自国に何をもたらすのか。超大国の内実に新しい光を当てる渾身の一冊」(表紙カバー裏解説)