現代の私達の記憶力向上についての関心と熱意は実に凄まじいものがあり、それは学生ならテスト対策や受験勉強、社会人でも資格試験や商談ビジネスにて日常的に記憶力を試される機会が多く、皆が潜在的に「もっとたくさんスムーズに物事を正確に記憶でき、しかも忘れずにいられたら」の思いに日々、苛(さいな)まれているからだと思われる。そのため書籍でも記憶のメカニズムを知り、それを効果的な記憶力向上や実用的な記憶術確立に活かそうとする趣旨の記憶関連の著書が、今日では非常に多く世に出されている。
現在、「アマゾン」(Amazon)の書評レビュー数を見ると近年では講談社ブルーバックス、池谷裕二「記憶力を強くする・最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方」(2001年)が最新の脳科学の成果を取り込み多くの読者を獲得して非常によく読まれているようである。しかしながら、私は昔から岩波新書が好きで、しかもなかでも古い刊行新書本が好きな「オールド岩波新書ファン」だから(笑)。相良守次「記憶とは何か」(1950年)と高木貞敬「記憶のメカニズム」(1976年)の岩波新書の青版2冊を参考に便宜、私の経験も交えながら「記憶力を強くするにはどうすればよいか」具体的に考えてみたい。
一概に記憶といってもより厳密に詳しく見るならば、記憶とは「記銘─保持─(忘却)─想起─再認」の4つのステージからなる。しかも記憶には覚えること以外に「忘却」の長く忘れることの要素も入っていて、要するに「記憶とは過去に関係づけられた意識であり、記銘し経験・知識を保持し、しかしその間忘却し忘れて、後にこれを想起し再認して再生する過程」である。なるほど、確かに記憶とは「忘却」で忘れることを含んで常にいつなんどきも意識し覚えておかなくてはならないわけでなく、一度覚えて後に忘れる、しかし思い出したい時には忘れていても適時、素早く正確に思い出すことかできる、それこそが「記憶」というものだ。
記憶は4つの各段階の総積であるのだから、積(かけ算)の理論で「記銘、保持、想起、再認」のうち1つの要素だけでも2倍になれば自然と記憶の総体も2倍になり、さらに他の要素も同時に2倍にできれば記憶の総体は結果4倍になる。記憶力を強くするためには4つのステージそれぞれを強化することに努めればよいことになる。しかも、それら4つの各ステージにて重要度の濃淡があって、前半の記憶の入力(インブット)過程たる「記銘・保持」が特に大切である。後半の記憶の出力(アウトプット)過程たる「想起・再認」と比較しても、新情報や新認識を「記銘」し覚え「保持」し保管する入力の前半過程こそが非常に重要となる。ここで、どれだけ多くの量を幅広く質を落とさず厳密に記憶として自分の中に記銘・保持できるか、記憶術は全4ステージ内での前半の入力過程である「記銘」と「保持」の量質に、ひとえにかかっているとさえ言える。このことを踏まえ以下、「記憶力を強くするヒント集」的に有効と思われるものを出来るだけ数多く挙げてみる。
まず「記憶する」とは個人の中に「記憶痕跡」を残すことであり、記憶を強くするためには、この「記憶痕跡の形成」を効果的にやることが必須だ。ここでいう「記憶痕跡」とは、神経学的には目に見えて神経末端が肥大し「シナプス」(神経伝達物質)が多く出て痕跡のトゲができたり、「ニューロン」(神経線維)が伸びて繋(つな)がり新たな神経回路が生成されることを指す。他方、心理学的には強い心的印象がイメージ痕跡として残り続け長期の記憶になるなど、「記憶痕跡」といっても物心両面の様々な相が考えられるわけだ。
私達が物事を記憶する場合、言語を介しない「非陳述記憶」と言語を介する「陳述記憶」とがあって、前者は、例えば自転車の運転や水泳の泳ぎの技術など、言葉ではなく身体がその手順や段取りの要領を忘れずに覚えているもの、後者は言葉を介して記憶するもので、自身の過去の感情経験の言語的説明の振り返りや、人との会話や読んだ本の内容知識に関する記憶である。後者の「陳述記憶」に関し、人との直接会話でも書物の文章読解でも、実は私達は発話の言い回し表現や記述文章にて書かれた一字一句を正確に厳密に覚えているわけでは決してなく、記憶する「記銘」の段階にて自身が覚えやすいよう意味内容のまとまりにしてインプット(入力)し「記憶痕跡」に変えて覚えている。話の要点、議論の展開、重要な評価語やトピック言葉、主要センテンスを押さえ、その人なりに汲(く)み取った意味形態のまとまり、各形態の痕跡をつなげて「記憶痕跡」を作り記憶している。
心理学的アプローチをとる相良「記憶とは何か」によると、「記憶痕跡の変容」というのがある。「記銘」の段階にて記憶痕跡の内容を作り意識下にて後々まで長く記憶を「保持」する「長期記憶」の保持に際し、「想起」される度に無意識下にて記憶痕跡が勝手に上書き保存され記憶内容が変容することが多々ある。しかも「記憶痕跡の変容」傾向には心的過程が、その全体の構造としてよくまとまり整理され安定した構成になるよう統制する「均衡化の原理」が働いて、人は常に覚えやすいよう整理され安定した構成に記憶痕跡を無意識下にて変容しようとする傾向があることが指摘されている。この「均衡化の原理」に基づく記憶痕跡変容の具体化は「形態化の法則」であり、さらにその「形態化の法則」には「強調化」(想起再生のたびに特徴印象が増幅拡大され際立ち目立つ方向への変容)と、「水準化」(想起再生のたびに特徴印象が減少縮小して目立たず一般化・水準化される方向への変容)の2つがある。
記憶力を強くするためには、後の「保持」に長期間耐えうるように「記銘」の覚え込む段階で記憶痕跡が後々、勝手に消去されたり上書き変容されないよう、よくまとまり整理され安定した構成に落ち着くような「よい形態」の記憶痕跡の統制をあらかじめ行い「記銘」し覚える。そうすれば「均衡化の原理」が働いて、すっきりとまとまった緊密な構図に落ち着き形態化された記憶痕跡は安定を保って、なかなか消去・変容されず長期保持の「長期記憶」になりうる。結果、記憶力が強くなる。
そこで「均衡化の原理」と「形態化の法則」を踏まえた忘れにくく変容せずに「保持」され続ける記憶痕跡の条件としては、すっきりとまとまった緊密な関係性の安定した構図にて「強調化」ないしは「水準化」を利用して、物事の際立った特徴を「強調」し印象づけて他の物との相違にて記銘する。もしくは、逆に際立った特徴がないこと(「水準」)を他の物との共通の関係として記銘するとよい。特に「重畳効果」(人間は類似する物は混同しやすい)という点を踏まえ、馴染みのない一見似たものに接する場合、それぞれの対象の個性的で差別的な特徴を捉えるようにし、それらの相違に力点を置き一定の枠組みに配置し整理して「記銘」するようにする。また「凝離効果」(多数の同質的なものの中で、ごく少数の異質的なものの痕跡はよく保たれる)も利用して仲間はずれな異質、例外、極端な事例に着目し強く印象づけて覚えるのも効果的である。
その他、「名づけの効果」にて一定の名を与えて有意味な概念の枠組みに組み込んで覚える。対象の特徴を言語化・記号化する意味付け効果の活用である。「図表・グラフの効果」で、長い文章による間接的説明よりも、対照表や相関図を介して記憶対象の関係性を直に図表やグラフにしてコンパクトに一目で理解できるよう明確にしてから視覚的にイメージ記憶する工夫も有効だ。
あと物事を覚える場合には、そのものを個別独立的に覚えるのではなく、他の物との関係性において出来るだけ関連づけて有機的に記憶するよう努めるべきである。個別に1つずつ「記銘」するよりも、他の物と関係づけ複数で、まとめて「記銘」した方が記憶の効率はよい。その上で「よい形態」の記憶痕跡の統制という「均衡化の原理」の大前提に従い、例えば同じ種別の性質が似たものを「同義」として一括しグループ記銘する。もしくは、対照的な物を対(つい)にし対立関係のセットにして「対義」で覚える。さらには「因果関係」で結びつけ原因と結果のセットで理解し記銘する。同様に「抽象具体」の関係で捉えて抽象と具体の各位相の序列配置にて覚える、の方法が考えられる。
以上のように見てみると、記憶力を強くする最初のヤマの重大ポイントは、第一段階での「記銘」における入力インプットの形式、「記憶痕跡」の望ましい形成のあり方であって、前述のように記憶力を強くするためには、後の「保持」に長期間耐えうるように「記銘」の覚え込む段階で「記憶痕跡」が後々、勝手に消去されたり上書き変容されないよう、よくまとまり整理され安定した構成に落ち着くような「よい形態」の記憶痕跡の統制をあらかじめ行い、覚えるようにすることに尽きる。そうすれば「均衡化の原理」が働いて、すっきりとまとまった緊密な構図に落ち着き形態化された記憶痕跡は安定を保ってなかなか消去・変容されず長期保持の「長期記憶」になり結果、記憶力が強くなる。
そして、この「記銘の段階で記憶痕跡が後々、勝手に消去されたり上書き変容されないよう、安定した『よい形態』の記憶痕跡の統制をあらかじめ行う」というのは、実は記憶に関することだけでなく、記憶する以前に人間が未知で未習な事柄に出会った時、どう認識し理解して有機的に「使える知識」として自身の中に取り込むか、私達の物事の認識理解のあり方、思考の枠組み形成と同義なのである。だから、特に言語知識系統の「陳述記憶」にて記憶力が優れている人は、初見の未知な物事でも自分なりに上手に消化し筋道立てて有機的に理解し、安定した記憶痕跡形成になりうるフレーム形態化が上手な人である。記憶力を強くするためには、「均衡化の原理」に基づく常に安定した良質な記憶痕跡形成のために単に目先の記憶術の方法論にのみこだわらず、記憶以前の物事の認識理解の仕方の根本から自分を見つめ直し反省改革していかなければならない。
この記事は次回へ続く。