昔に旅行中、家から持ってきた書籍を旅の中途で全て読み尽くしてしまって、移動中や滞在先にて読む本が弾切れになり、旅先の現地で新しく読む本を仕入れようと思って、とある街の古書店に入った。もちろん、一見(いちげん)の知らない書店である。そのとき購入したのが、岩波新書の黄、沢崎坦(さわざき・ひろし)「馬は語る」(1987年)だった。そのため本新書に関しては「あの時、あの旅の途中の知らない土地で読んだな」の、書籍の内容よりは読書をした行為の思い出の方が私には印象深い岩波新書である。
岩波新書「馬は語る」といいながら、実は私は馬には全く興味がないし、馬の事など全然知らないのである(笑)。また、これから馬について新たに知りたいとは少しも思わないのである(爆笑)。ただ旅で知らない場所に行って電車やバスや船で移動し移りゆく車窓風景を眺め、名所史跡を訪れ、かつ美しい景色を見たり、当地の名物料理を堪能し新規な宿舎に泊まり温泉入浴しただけで、時に異常に高揚し、時には異常に冷静で平坦な精神状態になったりする。そういった、いつもとは違う旅の醍醐味の新鮮な気持ちの中で、「普段の日常の自分だったら絶対に読まないであろう分野の書籍を、あえて選んで読んでみよう」の思いに襲われたのだ。そこで旅先の知らない街の知らない古書店にて書棚から選んだ複数冊の内の一冊が、岩波新書の沢崎坦「馬は語る」だったというわけである。
本新書の著者や編集担当者には誠に申し訳ないが、私は本当に馬の事には興味がないし、全く知らない。これまでの生涯で、おそらく馬に触ったこともない。ましてやエサをあげたとか世話をしたとか、乗馬の経験もないのである。学生時代に大学の友人で競馬に熱中し、よく競馬場に行き馬券を購入している馬好きな人がいた。そうした競馬にハマった経験も私にはないのであった。
ただ競馬中継で疾走するサラブレッドを見ていると、「馬は本当に美しい生き物だ」と感心する。もっとも競馬にて疾走のサラブレッドは人間の手で長い間をかけて相当な改良や交配が重ねられており、「あの美しさは自然の本来の動物のそれではない。サラブレッドの骨格や毛並や容姿全般の美しさは人間によって作られた人工的な馬の美しさだ」とは思うけれど。自然の野生動物で、競馬の疾走馬ほどの洗練された美しさは皆無で出せないのである。あのような細い筋肉質な体躯(たいく)では到底、馬は野生の自然の中で独力で生きてはいけない。
岩波新書「馬は語る」では、競走馬の話だけではなく、家畜の馬(農耕馬や馬車馬ら)の話も出てくる。読んで辛(つら)いが、馬刺しなどの料理に提供される食肉馬の話もある。全般に読んで面白いのは馬の誕生から成長、いわゆる「若馬」の思春期や求愛の、馬の生命誕生と成長過程の話題で、その反面、老いた馬や役割を終えた馬の屠殺処分の話は、やはり初読時から読んで私には大層、辛いのであった。
本新書の著者の沢崎坦という方は、畜産獣医学専攻の農学博士である。最終章「馬と私」での著者の記述は、馬への愛情あふれる良い文章だと私には思えた。また私は非常に残念なことに馬との直接的な関わりが全くない生活環境にて育ち、そのような「馬なし」の人生をこれまで送ってきたけれども、本書の最初の章「馬と日本人」を読むと、「日本人は昔から、特に北海道や東北ら東日本地域の人々は、馬に親しんで馬と共に生きてきたのだな」と今更ながら学ばされる。
最後に岩波新書の黄、沢崎坦「馬は語る」の内容が一目で分かる本書の目次を載せておく。
「Ⅰ・馬と日本人─馬と暮らし馬と語ってきた人々、Ⅱ・馬を育てる─馬の中の『自然』を見つめる、Ⅲ・馬をしつける─栄光のゴールをめざして人と馬は一体となる、Ⅳ・家畜としての馬─この『人間の友』も家畜の宿命は免れない、Ⅴ・馬と私─馬に魅せられ、馬から教えられた少年時代の思い出」