アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(62)大牟羅良「ものいわぬ農民」

岩波新書の青、大牟羅良(おおむら・りょう)「ものいわぬ農民」(1958年)は、戦後まもなく山村を古着の行商をして歩いた著者が「日本のチベット」といわれた岩手県、その山村で自然と共に生きて貧困と因襲を背負いながら黙々と働く「ものいわぬ農民」たちの話を聞き、彼らの生活の喜びや悲しみを岩手の言葉で書き留めた秀逸ルポだ。本文にて著者は、本書の執筆意図を以下のように述べている。

「全国から出されている印刷物はおそらく厖大(ぼうだい)な数に上るでしょう。しかし今までに、日本の基底をなしている、いわゆる庶民といわれる人々の声が、どれほど活字になってきたでしょうか。特に、ボソボソと炉端で交わされている農民の言葉、また街の工場の片隅や、乏しい夕食を囲みながら交わされている都会の人の言葉─そういうくらしの中の言葉にこそ本音が顔を出しているのに─それらが果して活字にされてきたのだろうか。それが殆どなされていなかったのではないか。これが都会の人と農民の共感をたち切っていた大きな原因ではなかったでしょうか。そこで私はこの本で…『農民のよろこびや悲しみ、なげき、それは一体何であるか』を、少しでも正しくお伝えし、いささかでも都会の人と農民の間の空白を埋めたいと念じ、筆をとったのです」

本書は1958年初版であり、「いささかでも都会の人と農民の間の空白を埋めたいと念じ、筆をとった」とあるように、まだ都市と農村との間に大きな隔(へだ)たりがあり、都市と農村では文化や人間そのものが違っていた時代の話である。もちろん、現在でも都市と農村との相違はある。だが、それは経済や社会環境のあり様の違いであって、本書が上梓された1950年代のような都市と農村の間での文化や人間そのものの質的解離の差ではない。本書タイトルの「ものいわぬ農民」とは、単に無口であったり全く感情表出をしない人々なのでは決してない。確かに格式張った集会の席上や外部の「よその人」には、なかなか自分を開かない「ものいわぬ農民」であるが、常に「ものいわぬ農民」なのではなく、自分達の同胞(家族や親戚や仕事仲間や集落の人々)には自分達の言葉で、自分達の生活の喜びや悲しみや嘆きを生き生きと語る。

そして岩手の生まれで戦前に教師をしていた著者は、やがて戦時に動員され後に復員して、故郷・岩手にて古着行商四ヵ年と地域の雑誌「岩手の保健」編集者生活の七ヵ年の自身の経験をもとに実際に自分が聞いた「ものいわぬ農民」の語りを書き留めていく。

本書の前半「行商四ヵ年」のパートでは「こんな話がありました」「私が気づいたことにこんなことがあります」というように、部落をまわる行商生活を通しての筆者による「ものいわぬ農民」エピソードが数多く収められている。著者の古着行商は古着を背負って奥地の集落に入り、終日歩きまわる。一軒一軒、訪ねて飛び込みで行商をする。その都度、訪問の家の軒先で古着を広げて見せて気に入ったものがあれば、その場で買ってもらう。その際に農家の人達と話をする。直接に商談の取引話から入るのではなく、まずは世間話を重ねる。天気のこと、作物の出来、家の嫁や子どもや年寄りのことなど。そうしたやり取りの中で気に入った衣類があれば買ってもらうのだ。その際に家の人々を観察する。行商にて、いくつもの集落をまわり何軒もの農家を訪ねていると直に話さなくても、だいたい「ものいわぬ農民」のことが分かってくる。

例えば、家に若い女性が二人いる。片方は比較的粗末な着物で、馬飼い(馬の世話)をして手がひび割れたり汚れたりしている。また来客へのお辞儀や挨拶が非常に丁寧である。もう片方はしっかりした着物を着て、こたつに当たって手編みなどしている。ないしは、いろりの上座に座っている。この場合、前者が他家から嫁いできた嫁さんで、後者はその家の生まれの娘さんである。行商を続けていると見ただけでその家の人間関係が分かってくる。家財道具がしっかり整理され片付いて掃除が行き届いている家は姑が嫁に厳しい家である。 各農家に嫁娘問題や嫁姑問題がある。その他、二男三男の問題、集落での隣近所との付き合い、いわゆる「世間体」の問題がある。さらには戦後の農地改革を経ても、なお地主と小作人の上下関係の慣習しきたりの残滓(ざんし)もあった。

後半のパート「ものいわぬ農民」では、著者が「行商四ヵ年」の生活を経て地域の雑誌「岩手の保健」の編集者になってからの「編集者生活七ヵ年」の奮闘の話である。著者は雑誌作りに「農民のくらしの声を活字に」という高い志(こころざし)を持って取り組む。しかし、これまでの雑誌を読んでみると、投稿する農民は原稿を書き慣れている常連の人が多かっただけに、よくまとまった原稿ではあるが、行商生活で農村を歩きまわった著者には農民に訴えかける雑誌として如何にも、そらぞらしいものに思えてしまう。農家の感情を表したもっと農民に身近なもの、それは何か。いろいろと考えた結果、それは著者が以前に行商の旅で聞いたいろり端の話、その話の中にこそ農村の暮らしや農民の考え方、彼らの本音の偽(いつわ)らざる実情があるのではないか、それこそを取り上げるべきだと思い到る。

だが、最初のうちは座談会を開いても皆が無口な「ものいわぬ農民」で、しゃべらず失敗する。役場の偉い人に案内されての家庭訪問では、よそゆきの来客用の話しか聞けない。そこであらたまらない形で行商人時代の自分のように、ごく自然に村人に接して本音の話を聞き出す方法はないものかと考えて、日常的に頻繁に各家庭に出入りしている村の保健婦に同伴し、その際に農家の人達と話をしてそれを記事にする。農民の生活に寄り添い、農村地域の健康問題を積極的に取り上げる。

すると今度は読者からの雑誌記事への反響で、農村の医療問題改善取り組みへの共感とともに批判の投書も来るようになる。「医療問題の指摘や批判ばかりではなくて解決策を示せ」「問題指摘ばかりで暗すぎて雑誌を手にとるのも嫌だ」「中央から出ているこの種の雑誌と比較して数段の差がある。もっと垢抜(あかぬ)けのした体裁にするべきだ」「編集者が思想的に危険性がある」云々。例えば「悲痛な問題だけをクローズアップして対策を示していない。このことは農村を思う愛情が欠けている証拠で、むしろ農民を愚弄するものだ」というような、著者が編集の当時の「岩手の保健」に対する投書の批判が、そのままこの岩波新書「ものいわぬ農民」に対する今日的な書評批判にも通低するであろう所が面白い。地域の医療問題や農村の生活問題を社会的に提起し描き出そうとするルポや報告文の一般的な読まれ方として、本新書の内容記述の中での地域雑誌「岩手の保健」の読まれ方が実はそのまま、それと共通し次元を異にして現実の岩波新書「ものいわぬ農民」そのものの読まれ方へと架橋している、そのメタな構造が面白いと思う。

大牟羅良「ものいわぬ農民」を始めとして、その他にも土門拳「筑豊のこどもたち」(1960年)など、都会の進んだ都市とは明らかに差がある、以前の日本の地方の農村や炭鉱集落での人々の暮らしの貧しさや過酷さ、健康問題を提起したルポや報告文や写真集に対し、以下のような批判がよく寄せられる。「悲痛な問題だけをクローズアップすることで、地域に対する世間一般のネガティヴなイメージの先入観を助長する。報告が地域の負の部分のみで、わざと狙って書いている。実際に当時の人々は、そこまで貧しくなかったし生活も過酷ではなかった。他地域と比べても裕福で人々は幸福であった。こうした紋切り型の文章は農村や炭鉱集落の地方地域を思う著者の愛情が欠けている証拠で、当時の住民を馬鹿にし愚弄するものだ」。

こういった反発の読まれ方が時にされる。もちろん、そうした批判は全く正鵠(せいこく)を得ていない。当時の地方の貧困や過酷な生活や健康問題の指摘をやるのは、どこまでも解決のための社会への問題提起であって、地域のイメージや評判を落としたり住民を不当に貶(おとし)めたり愚弄したりするためにルポや報告文が書かれるわけでは決してない。事実認識の問題にしても、「実際に当時の人々は、そこまで貧しくなかったし生活も過酷ではなかった。他地域と比べても裕福で人々は幸福であった」といった趣旨の反論かよくなされるけれど、本新書「ものいわぬ農民」について言えば、本書では農民の過酷な生活エピソードが多く書かれてはいるが、著者が行商や雑誌編集の過程で接した農民のなかには他方で確かに裕福な地主の家庭や窮乏や因襲に縛られていない、ひたすら苦難に耐える「ものいわぬ農民」ではない、新進的で民主的な比較的進んだ部落や人々もいたに違いない。だが、本書にあるような社会の底辺にて人知れず抑圧され苦しんでいる、そうした「ものいわぬ農民」がいる限り、彼らに焦点を当てて精力的に描き出すことはルポや報告文の問題提起の記録文学としての正統な手法だ。

また、こうした改善されるべき諸課題のネガティヴな要素をクローズアップする問題提起の記述は、あくまでも本全体の中の一つの側面の一要素でしかない。それは本書「ものいわぬ農民」を一読すれば即座に分かる。先に引用した「農民のよろこびや悲しみ、なげき、それは一体何であるかを、少しでも正しくお伝えし、いささかでも都会の人と農民の間の空白を埋めたいと念じ、筆をとった」と著者自らが述べているように、当時の農民らの悲しみや嘆きだけでなく、日々の喜びも本書には同時に記録されてある。これらの点において、「地域のイメージや評判を落としたり、農民を不当に貶めたり愚弄したりする」ものとは正反対の、「ものいわぬ農民」に対する著者の愛情を本新書から私達は読み取るべきであろう。

それにしても本書を読んでいて感心するのは、著者による周到な全体構成の書きぶりだ。著者は小学校教師の家の生まれで、子どもの時分から「先生の子」として部落の人達、村の大人や同級生の子どもらから一目置かれていた。そして学校を卒業して自身も父親と同じく山村教師になった。それから戦時に大陸の満州に渡る。そこで「民族協和」に本気で取り組み、現地にて漢人、満州人、蒙古人、朝鮮人らと分け隔(へだ)てなく接するある日本人上司の下で働き感化されて、また現地の人々に過酷な仕打ちをする大勢の日本人を目の当たりにし反感を持ち同じ日本人として恥ずかしく思って、民衆の喜びや苦しみに応えることの大切さを痛感する。人間の生活のあり方や自分の生き方を再考させられる。

その後、終戦を迎えて故郷・岩手に復員し古着行商を始めて農村を歩いてまわると、教師として農村部落の学校に奉職していた時には地域の人達から特別扱いされ、村人から「先生さま」と呼ばれて浮き足立っていた、村人と自分とを同じ人間とは全く考えなかった過去の自分が恥ずかしく思えて、戦後の行商の際には以前の教員時代に気付かなかった農民の声に耳を傾け、また現実に営(いとな)まれている人々の苦しい生活に自然に目が注げるようになっていた、とする。

こうした本新書にての、戦前の若年の小学教員時代と戦後の壮年の行商生活時代との間に、満州での自身の人間への考え方の価値観変化の経験を挟み、コントラストをつけ両者を対照させて、いわば「自身の内的成長の変化を介し、同じ故郷の岩手の農村の人々に対する自身の見方、人との接し方が戦前と戦後とで大きく変わった」 という本書全体を貫く大きな対立構造の構成記述が実に優れている。これは戦前と戦後にて著者の中で現実にそうした内的成長の人間的変化があったから単にそのように記述したというだけではない。実は半分くらいは技巧の技術(テクニック)で、そのように書いている。それは、著者が後に雑誌編集者として文章を書いて生活してきた文筆業従事のプロの書き手であるからこそ出来る周到さだ。戦時と戦後の間に対比(コントラスト)をつけて自身の内的成長と共に語り記述している構成も、岩波新書の青、大牟羅良「ものいわぬ農民」の優れた点であり読み所の一つである。