先日、岩波新書の鈴木良一「応仁の乱」(1973年)と、中公新書の呉座勇一「応仁の乱」(2016年)を続けて読んでみた。後者の呉座「応仁の乱」は近年の新書で世評人気が高く広く読まれている。本新書は増刷を重ね学術的新書としては異例の大ヒットであるらしい。結局のところ、応仁の乱は長期に渡る戦乱の疲弊でこの戦いには誰も勝者がいなかったが、後に500年以上経って「応仁の乱」を新書で出して大ヒットさせた著者の呉座勇一その人が「応仁の乱での唯一の勝利者」と言われるほどなのだ(笑)。一読して「本書が人気でよく読まれているのは、なるほど納得」の読み心地がする。
呉座勇一「応仁の乱」は、乱の発生から長期の混乱と収束に至るまで、史料にて押さえた各人物の思惑・行動に焦点を定めた詳細な考察であるが、その細かさに圧倒されてはいけない。ともすれば応仁の乱(1467─77年)は、将軍継承問題と有力守護大名の家督相続争いによる武家の内紛が室町幕府の中央たる京都からやがて地方にまで波及し、東西両軍に分かれて11年間も争いが継続した日本中世最大の内乱のように一般に思われがちであるけれど、応仁の乱の内実に武家の内紛だけでなく、寺社勢力の存在と思惑を絡(から)めて、ある程度、立体的に乱の子細を明らかにし得た所に最新の研究成果を盛り込んだ著者の力量が感じられる。そこが呉座「応仁の乱」の読み所であるように私には思えた。
呉座勇一「応仁の乱」は、「第一章・畿内の火薬庫、大和」で大和の興福寺、経覚「経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)」と、尋尊(じんそん)「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」の史料をもとに寺社勢力のあり様から「応仁の乱」を語り始める。興福寺は、大和国にて衆徒(武装する下位の僧侶)と国民(春日社白衣神人のこと。他国の国人(地元武士)と階層的には共通する)を抱える世俗権力としてあった。その興福寺の中に一乗院と大乗院の二つの「門跡」(天皇や摂関の子弟が院主となる院家)があり、両門跡は武力を有する衆徒・国民のそれぞれに支えられて立場を二分し、興福寺内では親幕府派と反幕府派とが対立していた(「第一章・畿内の火薬庫、大和」)。興福寺人事をめぐる寺社に対する幕府の介入、中央の荘園領主たる興福寺の、地方の在地にての代官との荘園経営をめぐる争い、その争いの仲裁に出る幕府の後ろ楯(だて)など、室町幕府の武家と興福寺の寺社との間に大きな対立、相互補完の依存関係、細かな駆け引きの様々な要素が絡み合っていた(「第四章・応仁の乱と興福寺」)。幕府内の将軍継承問題や有力守護大名の家督相続争い以外にも、それら幕府と寺社の関係をも巻き込んで長い内乱となる応仁の乱は、いよいよ勃発に至る。
私達は日本中世史といえば武家の歴史であり、せいぜいの所、その武士に古代からの旧勢力の天皇・貴族を加えて「日本の中世は武士の幕府と天皇の朝廷との朝幕二元体制」のように思ってしまうけれども、実際は「幕府の武士と朝廷の天皇・貴族と寺社の僧侶の三つ巴(どもえ)」の錯綜(さくそう)した相互補完的な権力体制(権門体制!)なのであった。「応仁の乱」に奈良の興福寺の寺社勢力を要素に入れて考察することは、その三極構成の厳密な中世実像に実に見合っている。一般に中世史理解にて、武家の幕府と天皇・貴族の朝廷のそれぞれに独立した家産支配の体系は認識できても、世俗権力としての僧侶の寺社はなぜか見過ごされがちであった。経覚と尋尊という二人の興福寺僧の私的日記史料に着目し、寺社勢力を考察の切り口に据(す)えた所が呉座の「応仁の乱」は優れている。
だがしかしその分、呉座勇一「応仁の乱」に関して寺社と武家の二極のみで、京都の天皇・貴族の朝廷の三極目の働きかけの動きを殆(ほとん)ど考慮できていない所が呉座の論考の弱点であるようにも私には思えるが。というのも、応仁の乱の後、室町幕府の将軍権威と権力とがさらに落ち、実質いよいよ幕府が機能しなくなってから、織田信長を始めとする畿内周辺の大名はいち早く入洛(都の京都に入ること)して天皇・貴族の朝廷権威へ接近することに相当な関心とこだわりを見せるからだ。
呉座の著書では「応仁の乱」の歴史的意義に関し、大正時代の東洋史家、内藤湖南(ないとう・こなん)の言を引いて、「現在の日本と関係があるのは応仁の乱以後で、それ以前の歴史は外国の歴史と同じ。それほどまでに応仁の乱は日本の歴史を二分する画期の日本史上最大の出来事であった」旨の見解を紹介している。そうした内藤湖南の応仁の乱理解に同意する、戦後の日本中世史研究の勝俣鎮夫の見解も加えて呉座は紹介している。すなわち、勝俣よりすれば「応仁の乱以前の長い日本の歴史を近代日本の歴史と無関係な異質的社会として切りすてる近代日本歴史学の常識からいえば暴論に近い氏(註─内藤湖南)の見解も、私には、この現実の生活感覚の上にたった歴史把握という観点にたつ時、十分理解しうると共に共感を覚えざるを得ない」。
応仁の乱が日本の歴史に与えた転機となる大きな歴史的意義を認めつつ、他方で、応仁の乱の前後で日本社会の性質がまったく異質なものに変質してしまったとする、いわゆる「応仁の乱、前後史観」の安易な図式的な対照理解に呉座勇一は警戒も見せている(「はじめに」)。それは「応仁の乱を境にして本当に室町幕府の将軍権威は失墜したのか」の疑義、呉座による一連の考察につながる(「第七章・乱後の室町幕府」)。しかし、日本中世史研究に素人な私のような一般読者からして勝俣鎮夫と同様、「やはり中世史、室町時代から戦国時代へ移行する前後で日本の社会は異質なものとして大きく変容してしまう」の感触はある。室町以前の古代から中世の時代では、律令官職や荘園利権の主に名目的な血縁(家柄)重視の人的結合社会であったが、室町・戦国以後の近世から近代の時代には、実質的な個人の実力(器量)を重んじる、より世俗的で地縁重視の人的結合社会への移行変質になるのではないか。
呉座勇一「応仁の乱」について、「記載の歴史事項が細かすぎで初学者には難しく一読して内容理解が困難」の話を時に聞く。呉座の中公新書「応仁の乱」をよりよく理解するために、その前提として岩波新書の青、鈴木良一「応仁の乱」を前もって読んでおくと良いと思える。鈴木「応仁の乱」は呉座「応仁の乱」ほど詳細な本格記述でなく、そこまで難しくはない。応仁の乱に関する極めて基本的なことが平易に解説されている。いわば「応仁の乱」の基本テキストであり、応用編への階梯(かいてい)を成すものだ。特に鈴木「応仁の乱」の「戦争をひきおこしたもの」の章に見られるまとめの概説、「1・守護、2・将軍の側近、3・国人、4・寺社本所」の各層の動向・立場についての簡潔記述は、呉座「応仁の乱」とほぼ同様の内容にて、かつ呉座のものより細かくなく応仁の乱の全体像を知る上で大いに役立つように私には思えた。
ところで、大学入試の日本史論述問題にて「応仁の乱の歴史的意義」を問われることはよくある。その際の対策として、だいたい書くことは決まっている。論述定番の型というものが実は昔からあるのだ。「応仁の乱の歴史的意義」について、最後にまとめておく。
(1)室町幕府の将軍権威の低下。(2)幕府と結び付くことで領国形成を推進してきた、旧来の有力守護大名の没落。守護在京制の崩壊。(3)戦乱の混乱に乗じて在地領主としての力を蓄え、守護大名(やがては戦国大名)に大名化する守護被官・国人の台頭と、守護大名による郷村の武力の取り込みに伴う有力な名主を中心とする農民の団結の高まり、民衆の台頭。つまりは「下剋上」 (下の者が上をしのいで伝統的権威を否定する勢力交代の社会風潮)の一般化。(4)幕府や守護大名による保護の後ろ楯を失って、国人らの侵略にさらされた貴族・寺社の荘園領主の収入激減(荘園制の事実上の崩壊)。荘園経営に権力基盤を持っていた貴族と寺社の衰退。(5)騎馬武者による一騎討ちの戦闘から、足軽(歩兵)による集団戦への移行。(6)無統制な足軽の土倉襲撃、放火、掠奪、乱暴狼藉による京の町の荒廃。長期の戦乱で荒廃した京都から貴族が、縁故を頼って地方に落ちのびていくことでの京都文化の地方伝播。