岩波新書の青、中谷宇吉郎「科学の方法」(1958年)は、科学研究を志す理系進学の大学新入生が大学入学後「科学入門」の初学者講座にて最初に読んでレポート提出を求められるような、それほどまでに定番で有名な昔からよく知られる科学論の基本の書だ。
著者の中谷宇吉郎によると、「この書の内容は、NHKの教養大学講座で、九回にわたって放送した講義の速記に、筆を加え、それに三章ばかり書き足したものである。もともと体系的な科学論を説くつもりではなく、またそれは私にはできないことであるから、科学論に関する随筆集の形で、まとめてみた」。また「この本の全体にわたる基本的な考えは、(中谷の師である)寺田寅彦先生の『物理学序説』に負うところが多い」という。本書は全12章と「附録・茶碗の曲線」よりなる。
第1章の「科学の限界」では、「科学にはある限界があって、自然現象の中から再現可能な現象を抜き出して、それを対象として取り扱う学問である」(18ページ)という。続く第2章の「科学の本質」では、「科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、すなわち科学の見た自然の実態なのである」(39ページ)とする。また第3章の「測定の精度」にて、「一番基本的な科学の方法である測定には必ず誤差がともなっているので、われわれは自然のほんとうの値を知ることはできない。測定によって得られる結果は、常に近似的の値である」(40ページ)ともいう。
このように冒頭各章から非常に明快な論旨が続く。その上、論述中途で便宜、挿入展開される万有引力の法則やエネルギー保存の法則やファラデーの法則の概要説明の専門科学の話も、理系専攻ではない一般人が読んで非常に分かりやすい周到な書きぶりだ。中谷宇吉郎その人は、夏目漱石門下の科学者であり随筆家であり俳人でもあった科学文学エッセイの達人たる寺田寅彦の弟子であった。ゆえに中谷宇吉郎も、その手の科学専攻者以外の一般人に向けた雰囲気のある文筆にて才能を発揮し、彼の執筆手腕の見事さは同時代人の中で卓越していた。
中谷「科学の方法」を読んでいると、「科学の本質は人間と自然との共同作品(ないしは協同作品)」という中谷の主張が頻繁に繰り返される。例えば以下のように。
「自然界には、固定した実態が、どこかにかくされていて、それを人間が科学によって探していくうちに、うまくいったときには見つけることができる、というようなものでないことが分る。科学が発見した物の実態もまた法則も、こういう意味では、人間と自然との共同作品である。人間が科学の眼を通じて見ていくことによって、だんだんと自然の実態を掘り下げていくのであるから、そういう意味では、一つの作品である。…科学が自然に対する認識をつくること…科学の場合の評価の物差は、…そのときまでに得られている科学の知識の集積である。そういう物差にあてはめて、自然を見ていくわけであるが、見ること自身は、科学に現在使われているいろいろな思考形式の眼を通じて行われる。そういうふうにして、自然界から掘り出し得たものが、科学そのものなのである。従って科学の本質は、人間と自然との協同作品という点にある」(22・23ページ)
この引用にて読み取るべきは次の2点である。
(1)自然科学は自然の本態とその中にある法則とを探究する学問であるが、科学の法則は自然対象の中に先天的に内在措定して元から独立的にあり、その自然対象に人間主体が一方的に能動的に働きかけ、科学の原則真理を探し出し見つけるようなものではない。人間と自然との双方の関係性によって、より立体的に生成され構成されるものが科学の真理であり法則であり理論である。この意味で「科学は人間と自然との共同作品」といえる。だから人間にとっての科学は必ずしも絶対的で厳密な真理原則を追究するものではない。科学は、どこまでも人間主体にとって便宜に「真理(らしきもの)」である。
近代科学は空間や時間や観察対象を全て数値化する。しかも、その際の数値はあくまでも観察主体たる人間にとって使い勝手のよい目安の測量把握であって、時間の数値化でも、そのものの生成変化が観察の主体である人間にとって計測しやすい便宜的なものでしかない。決して科学的真理や科学の厳密さに支えられた目盛の数値ではないのである。例えば、人間が体感認知できない程の細かな時間の区切り設定は微小すぎて測量目安の役に立たないし、逆に大雑把で大きい時間区切りも広大すぎて非限定数値なため測量目安の意味をなさないのだから、両方とも人間にとって「科学的ではない」。
(2)その際の人間と自然との共同(協同)作業は、人間側にあるそのときまでに確立されている科学知識の集積である。そうした人間社会にある従前の現在使われてある既存科学の物差しに依拠し、それを自然対象に当てはめ科学者は自然を見ていくのであり、そのことの積み重ねにより人間が自然界から得られたものが科学である。
人間にとっての科学は、従前の既存の科学を前提にしてそれにどこまでも接木して新たに発展・更新させたものが今日の「最新」な科学である。ゆえに既存の科学体系に全く依拠していない新しい科学は、「最新」であるよりは「新奇」な科学として社会的に受け入れられずに排除される。人間にとっての科学とは、単なる厳密な正確な意味での真理原則ではなくて、人間側にある社会にて、そのときまでに確立されている既存の従前科学知識の集積であり、その延長線上に必ずあるべきものとされるからである。よくよく考えると非合理にも、そのときまでに確立されてある科学知識への根拠の依拠具合の程度が「この科学的言説は客観的であり合理的であって確かに信用できる」の、当の人間主体にとっての科学の信頼性を知らないうちに暗に、しかし背後で強力に生成しているのであった。
本書での「科学の本質」に関する中谷宇吉郎の主張は、まるで同時代の科学史家、トーマス・クーンの「科学革命(パラダイム・シフト)」の理論のようだ。しかもクーンの「科学革命の構造」が1962年だから中谷宇吉郎の「科学の方法」(1958年)はクーンの著作よりも数年早い。
クーンのパラダイム変革の理論とは、科学における真理相対主義である。なぜクーンにて科学の真理が相対化されるのかといえば、それは17世紀の科学革命以降の自然科学におけるパラダイムの専門図式は、独立し自足した形態での厳密な事実観察に基づく科学の真理ではなくて、その社会にて支配的な理論構成主体である科学者集団のアイデンティティに支えられ一つの公理体系の相対的真理にまで作り上げられていくから、という趣旨である。クーンにおいて、ある科学者集団に共有されている価値観(アイデンティティ)の影響下にある科学的学説はその正統性が認められるが、ひとたびその科学者集団に支配的なパラダイムに依拠しない科学的言説は否定され排除される。それが、ある社会にて正統な「真理の科学」と認められるためには、その科学者集団にての支配的なパラダイムの変革(パラダイム・シフト)を待つしかない。
これは科学を科学者の専門家集団の主体的な取捨選択の操作の上に置こうとするものであり、まさに中谷宇吉郎の「科学の本質は人間と自然との共同作品」の主張に重なる理論だ。
事実、岩波新書「科学の方法」の第2章「科学の本質」の中で、科学が絶対的な真理ではなく「人間の都合に良いように活用されている」ことを中谷は説く。科学は人間と別個に存在するのではなく、常に人間や人間社会との関わり合いの関係性の中で成立し発展していく。科学は自然の中に普遍的に存在するたった一つの真理を追究するかのように捉えてしまいがちだが、実は違う。前述のように、例えば実科学において根拠となる計量は人間にとって役に立つ範囲の近似値までしか行われない。単位は無限に細かくできるが、そこまで細かくしても科学者自身や科学の成果を活用する人間社会にとって意味がない(ナンセンスである)からだ。中谷宇吉郎にいわせれば、科学とは自然の中に唯一存在するような先天的な内在真理を探し出すものではなく、人間の利益に役立つよう人間主体が見た自然の姿が結局のところ科学の見せてくれる自然の実態なのである。
こうした科学には絶対的な真理はなく、人間の都合に良いように半(なか)ば法則が勝手に発見され理論化されて活用されている相対的真理の立場を貫いたことから、中谷は人間中心の科学の限界も原理的に指摘できた。われわれ人間は、たまたま自然の一部を解釈理解して理論構築し科学的成果の便益を自然対象から得ているに過ぎない。自然の内に先天的に内在措定してある人間不在の絶対的真理など、そもそも最初から存在せず、あるのは人間社会にとって妥当で有益と考えられる相対的な真理(らしきもの)でしかないのだから一見、真理法則を追究するかのような擬制である現代の科学は当然、万能ではない。
このことを著者の中谷宇吉郎は、本書執筆時の1950年代の日本の状況に結びつけ、当時の科学ブームや科学万能論、科学技術の無限の発展進歩により「いずれ何でもできるようになる」とするような楽観的で安易な科学的未来展望を強く戒(いまし)める。科学は万能ではないし「科学の限界」は現にある、また将来においても解けない科学の問題は存在するが、むしろそれで良いという。そこには科学に対する万能や過信を戒める、真摯(しんし)かつ謙虚に科学に向き合う科学者たる中谷宇吉郎の一貫した姿があった。
中谷宇吉郎に関しては近年、人気書評家の松岡正剛が岩波新書の中谷「雪」(1938年)を好意的に高く評価し強く推(お)していることから中谷宇吉郎に対する再発見の再評価が進み、旧著「雪」を始めとして岩波新書の青「科学の方法」も今日では科学研究を志す理系進学の大学新入生への推薦書の古典のみならず、広く一般に読まれているようである。