私が高校生だった頃、「世界史講義の実況中継」(1991年)という大学受験参考書があった。著者の青木裕司という人は、九州大学文学部史学科出身の方で、本参考書執筆時には河合塾の福岡校で世界史を教えていて、後述するまさに向坂逸郎のような、マルクス主義に傾倒した左派歴史家の予備校の先生であった。
その青木裕司が「世界史講義の実況中継」紙上にて、自身が学生だったころ、頭が冴(さ)えている朝の時間帯に濃いコーヒーを必ず淹(い)れ、マルクス「資本論」(1867年)を毎日少しずつ読んで一年くらいかけて全編を精読で読破した話をしていた。この話を私は高校生の時に読んで、当時私はまだマルクスの「資本論」を未読であったので、「毎日読んでも一年を費やすほどマルクス経済学は、そこまで難解なものなのか!」と非常に驚いた思い出がある。
後に私も高校を卒業してから、マルクス「資本論」を読んでみた。また今でも繰り返し読んでいる。その度に不思議と河合塾の青木裕司のことを思い出してしまう(笑)。と同時に「資本論」で青木裕司を思い出すと、マルクス主義者の向坂逸郎のことも私は、いつも思い出す。
向坂逸郎は日本のマルクス経済学者、社会主義思想家であり、青木裕司の出身である九州大学にて、かつて教授であった人である。向坂は大学での講義や言論活動の傍ら、社会党や労組の人々を自宅に集めて「資本論」を講義したり、全国の勉強会に出向いたりで労働者の教育に精力的に活動した。特に向坂が力を入れていたのが福岡県の三井三池炭鉱労組との交流で、1960年の三池闘争の中心となったのは向坂が接した人達であったという。
マルクスとエンゲルスの日本語訳「資本論」で、これまで一番読まれているのは、おそらく向坂逸郎訳の岩波文庫版全九冊であるに違いない。向坂逸郎が「資本論」を邦訳して原著の全体像を知っているのだから(本当は向坂は全編を独力翻訳していない。下訳した別人物がいて、向坂訳の「資本論」は、なかば向坂の名義貸しであった事実が今では明らかにされているが)、その向坂によるマルクスの「資本論」解説も確かなものであるに相違ない。
そうした向坂逸郎の著作に岩波新書の青「資本論入門」(1967年)がある。向坂「資本論入門」の刊行は、マルクス「資本論」刊行から百年目の節目に当たる。
「『資本論』は資本主義経済とその運動法則を明らかにし、この社会の基本的矛盾を鮮やかに描き出した不朽の書であるが、その鋭い科学的分析と基本的論点をわれわれ自身のものにすることは容易でない。これをどう読み、何を学ぶべきか。『資本論』研究五十年の著者が人生と社会を語りつつ、若い読者のために試みた『資本論』案内」(表紙カバー裏解説)
本新書は「資本論」執筆までに至るマルクスの思想発展の推移と、「資本論」にて展開される基本概念や本編要旨の解説になっている。そこまでクセがある著者による独自解釈の変な読みはなく、極めてオーソドックスな「資本論」解説である。向坂逸郎その人が大学講義の傍ら、社会党や労組の人々を自宅に集めて勉強会を開いたり、三井三池炭鉱労組に「資本論」講義をしたりで、初学の人達に向け常日頃から分かりやすい講義解説を心がけていたためか、本書にてのマルクス解説も非常に分かりやすく、こなれているの好印象を残す。
本新書での注目は、マルクス「資本論」は前近代からある商業資本ではなくて、近代に成立した産業資本に対する批判的分析であるわけだが、商業資本の事例として向坂が谷崎潤一郎「小さな王国」(1918年)の小説内容に執拗に依拠し細かく引用して、クドイくらいに解説する所が何よりも印象深い。
ところで、かの「資本論」の中で、商品の生産過程自体に利潤発生の由来を置くのではなくて、空間的・時間的な価値体系の差異(ズレ)に着目して商品の流通を媒介することで差額の利潤を得る商業資本を、マルクスは問題にしたのではない。こうした単に商品を右から左に流して商品の流通を媒介することで差額の利潤を得る商業資本ないしは商人資本は、人類発生後の比較的早い世紀から人間社会と共にあった。ただマルクスが「資本論」の中で難じたのは、「労働価値説」(人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという理論)を理論的基調とする古典派経済学、さらにはその古典派経済学に対する批判の立場から、人間の労働が商品の生産過程を通じて利潤を発生させる、主に近代の産業革命以降の機械化による過酷な工場現場労働にさらされる賃金労働者の人間疎外を著(いちじる)しく引き起こす産業資本の近代資本主義であったのだ。
谷崎潤一郎「小さな王国」は、小学生が親から買い与えれた物を各自が学校に持ち寄り、独自貨幣の価値基準を作って利潤を上乗せしたり差引いたりの物々交換を自主的に繰り返すことで、自分達の経済圏たる「小さな王国」を大人らか知らない間に不気味に作り上げていく、という話である。そして、この「小さな王国」の子どもたちによる一大経済圏をして、「これは単に商品を右から左に流し、その流通を通して差額の利潤を得る商業資本の典型であって、マルクスの『資本論』で問題とされているような、人間の労働が商品の生産過程を通じて利潤価値を生む、産業資本の近代資本主義でない(怒)」と向坂逸郎がやたら激昂する本論筆致となっている(苦笑)。
谷崎潤一郎といえば、「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」(1939年)など感性的な耽美主義的文芸作風の作家として広く一般に知られてはいるが、耽美派の自己スタイル確立以前には健全で道徳的な谷崎作品も実はあった。谷崎「小さな王国」も、そうした作品であり、悪魔的な耽美主義というよりは、明らかに大正デモクラシーの社会的雰囲気に影響されて谷崎が書いた、社会主義的で折り目正しい正義倫理の作品である。「小さな王国」執筆時の谷崎潤一郎はまだ自己の作家スタイルを確立できておらず、本作は迷いながらの自己探索の中途に書かれた佳作であり、後に耽美主義作家で世俗的に成功した谷崎潤一郎にとって、今更ながらに発掘・言及されたくない「小さな王国」であった。「陰翳礼讃」の耽美派文芸の一般イメージが強い谷崎なのに、しかし向坂逸郎が岩波新書「資本論入門」にて、あえて「小さな王国」を詳しく引用し、やたらしつこく取り上げているのが(笑)、耽美派・谷崎潤一郎の通俗イメージを打ち破り、私には強く印象に残るとともに、向坂の野暮な気の利(き)かなさに谷崎がいつも気の毒に思える。
その他、岩波新書の青、向坂逸郎「資本論入門」に関しては、本書執筆当時の1960年代の向坂からする「資本家の悪玉」の代表は、松下電器産業の松下幸之助だったらしく、本論にて松下幸之助が向坂逸郎から、あからさまに悪く書かれているのも今ではなかなかの笑い所である。