岩波新書の赤、西山太吉「沖縄密約」(2007年)の表紙カバー裏解説には次のようにある。
「日米の思惑が交錯した沖縄返還には様々な密約が存在した事が、近年相次いで公開された米公文書や交渉当事者の証言で明らかになりつつある。核持ち込み、基地自由使用、日本側巨額負担…。かつてその一部を暴き、『機密漏洩』に問われた著者が、豊富な資料をもとにその全体像を描くとともに、今日の日米関係を鋭く考察する」
岩波新書の西山太吉「沖縄密約」は、さすがに読みごたえがある。何しろ、いわゆる「西山事件」ないしは「外務省機密漏洩事件」の当事者であった元毎日新聞政治部記者の西山太吉(1931─2023年)が書いた書籍であるからだ。本書は事件の渦中にあって、その全貌の広がりと深さを誰よりも知る西山当人により執筆されている。事件関係者以外の第三者が後日に追跡取材し、当事者証言を集めて再構成したものとは違うのである。当事件に関する書物は数多く出ているが、終始一貫して事件の渦中にあった西山本人が著した岩波新書「沖縄密約」は真っ先に読まれるべきだろう。
当事件により、西山太吉は第一審の地裁判決で無罪となるも、後の第二審の高裁と最後の第三審の最高裁判決にて逆転の有罪判決を受け、毎日新聞退社を余儀なくされる。この時点で西山の新聞記者生命は終わり、新聞報道に携わるジャーナリストの仕事の道は断たれた。以後、西山は帰郷して家業の青果業を継いだ。当事件を機に西山太吉は、密約電文入手の過程で明らかとなった自身の男女スキャンダルの好奇に世間からさらされて週刊誌マスコミの格好の標的となり、西山の家族は離散。離婚はしなかったものの西山本人にもまして西山の妻はさらに苦しみ、西山太吉は妻と子供たちから離れて暮らす長年の別居生活を強いられた。
このように辛酸をなめて困難を極めた事件の当事者である西山太吉であればこそ、本書にて日本国とアメリカ合衆国の間で以前に秘密裏に交わされた「沖縄密約」の検証から、沖縄返還時の米軍基地原状回復負担問題に象徴される戦後より現在にまで至る日米軍事同盟のゆがみと、国がなす自身の逮捕と男女スキャンダルの誹謗中傷の張り巡らしといった、「情報操作」の域を越えた国家による「情報犯罪」によって今後も国民への不当な強権的取締・逮捕が蔓延(まんえん)する危険性の問題まで西山は幅広く分析している。
しかしなから、やはり本書の読み所は西山の筆による当時の事件と報道関係者に対する全方位的な批判の怨(うら)みであろう。もちろん、西山太吉は大人で良識ある社会人であって、元新聞記者で言うなれば「文筆のプロ」であるから、直接的な怨みの言葉の中傷や目に見えたあからさまな感情的筆致で本書を著してはいない。だが行間から紙面から、そして書籍全体から西山太吉の深い怨念の恨みは感受できるのである。すなわち、沖縄返還にて沖縄米軍基地の土地返還に際し日本側が原状回復費を内密に肩代わりする密約を交わした、西山が言うところの「隠蔽体質の総本山」(208ページ)である日本の外務省、同様に沖縄返還時の密約の存在を隠蔽し当初より国会の場で否定し続けた保守自民党政権の佐藤栄作内閣、密約の存在有無を何ら確かめずに「機密漏洩」の罪状で西山を起訴した検察と最終的に西山に有罪判決を下した司法の裁判所、密約の電文入手の過程での西山の男女スキャンダルを扇情的に書きたてた週刊誌マスコミ、そして男女間のセンセーショナルな話題に押されて外務省と佐藤内閣に対する密約追及キャンペーンの強い論調から中途で急速にトーンダウンし、西山を最後まで守りきれなかった西山が在籍の毎日新聞社、それら全てに対する全方位的な西山太吉の直接的には書かれざる言外の内心の深い怨みが、本書にて確かに明確に読み取れるのである。
本事件で徹底的に叩かれ窮地に追い込まれたのは、隠蔽した密約の問題追及をされる側の日本政府の佐藤内閣と外務省ではなくて、なぜか密約の存在を突き止め追及した側の新聞記者、西山個人であった。西山太吉は消耗し、やがて彼は社会から疎外され孤立していく。
ここで改めて、いわゆる「西山事件」または「外務省機密漏洩事件」の概要を確認しておこう。本事件に関し、西山太吉の個人名を冠にした「西山事件」、ないしは「機密漏洩」の事項にのみ不自然なまでに故意に焦点を当てた「外務省機密漏洩事件」の呼称は正しくない。本件は、西山の支援者や主に在沖縄の新聞・テレビのメディアにて今日通例で使用されている「沖縄密約事件」と呼ぶのが適切である。沖縄密約事件の概要は以下だ。
「1971年6月に調印、翌72年5月に発効した沖縄返還協定にて、第3次佐藤栄作内閣はリチャード・ニクソンアメリカ合衆国大統領との間で、公式発表では地権者に対する米軍用地復元補償費400万ドル(当時のレートで12億円強)をアメリカ合衆国連邦政府が日本国へ『自発的支払いを行なう』と記されていたが、実際には日本国政府が400万ドルを肩代わりして支払うという密約を交わしていた。沖縄返還に際しての日米交渉を取材していた毎日新聞社政治部記者の西山太吉は、外務省の女性事務官から複数の秘密電文を入手し、『アメリカ政府が払ったように見せかけて、実は日本政府が肩代わりする』とする秘密電文があることを把握。西山は同電信文を基に日本社会党議員に情報提供し、野党議員が国会で密約問題を追及。1972年、当時の政権与党・自民党の佐藤内閣の責任が問われる事態となった。
新聞報道スクープと野党の追及に対し、日本政府は密約の存在を否定。東京地検特捜部は同年、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。記者が取材活動によって逮捕された事態に対し、報道の自由と知る権利の観点から『国家機密とは何か』『国家公務員法を記者に適用することの正当性』『取材活動の自由と限界』が国会と言論界を通じて大論争となった。一方で東京地検が出した起訴状で『(女性事務官と)ひそかに情を通じ、これを利用して』と書かれたことから、世間の関心は密約資料の入手方法に関する西山個人の男女間のスキャンダルの面に大きく転換していく。西山と女性事務官はともに既婚者でありながら不倫関係にあって、その男女間の不適切な関係を通じて西山は女性事務官から密約電文のスクープを手にしたとする、週刊誌を中心としたスキャンダル報道が過熱して密約自体への追及は次第に色褪(あ)せていった。逆に毎日新聞は倫理的非難を浴びた。起訴理由が『国家機密の漏洩行為』であったため、審理は機密資料入手方法の是非に終始し、密約有無の真相究明は東京地検側から行われなかった。女性事務官は一審の東京地裁での有罪判決が確定。西山は一審では無罪となったが、二審の東京高裁で逆転有罪判決となり最高裁で有罪が確定した。
沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うはずの米軍用地復元補償費を内密に日本が肩代わりする、しかし表向きはアメリカが自発的に支払い負担したことにする裏取引の密約の成立は、沖縄返還時の1971年にアメリカは当時ベトナム戦争(1961─1973年、アメリカは1965年より参戦)をやっており軍費がかさんでいたため、日本への沖縄返還には合意したものの、返還に伴う米国からの諸費用負担をアメリカ側が拒否したこと。他方、当時の日本の自民党保守政権は『沖縄本土復帰』を念願としており、だが沖縄での米軍用地復元補償費を占領国のアメリカではなく被占領国の日本が肩代わり負担することは、沖縄返還に際しての日米間の不均衡で片務的、アメリカに対し明らかに日本が格下で義務負担が多い現実をさらすことであって、沖縄返還のこの事態に対し日本国民が不満を募(つの)らせ暴発する最悪事態を絶対に避けねばならなかったからだといわれている。沖縄本土復帰時に『本来は占領使用側の米軍が支払うべき沖縄軍用地復元補償費を日本国が肩代わりして、日本はアメリカから沖縄を金銭で買い戻した』の汚名が着せられることを、当時の佐藤内閣は相当な危機感を持ってかなり危惧していたとされる。だからこそ沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うべきはずの米軍用地復元補償費を日本が肩代わりすることは、極秘の裏取引の『密約』にして是非とも隠蔽しておかなければならなかったのである。
当初より政府が否定し続けた密約の存在は、2000年代にアメリカでその存在を裏付ける公文書が相次いで見つかり、当時の日米交渉での日本側の責任者だった外務省元アメリカ局長の吉野文六も密約があったことを後に証言している。さらに後のアメリカの公文書公開により、沖縄返還時に日本政府が肩代わりして支払った400万ドルのうち300万ドルは沖縄の地権者には渡らず、米軍経費に流用されたこと、日本政府が西山のスクープに対する口止めを当時アメリカ側に要請していた事実の記録文章も明らかになっている」
沖縄返還に際しての密約スクープに関し、新聞記者の西山太吉と外務省の女性事務官への逮捕・起訴ならびに有罪判決は不当であると私は思う。沖縄返還時に日米間で極秘に交わされた、公式発表では地権者に対する米軍用地復元補償費400万ドル(当時のレートで12億円強)をアメリカ合衆国連邦政府が日本国へ「自発的支払いを行なう」と記されていたが、実際には日本国政府が400万ドルを肩代わりして支払うという密約事項は何ら国家機密に該当しない。「機密」というのは、自国の軍装備の詳細や軍事作戦・用兵に関する統帥事項などの極秘情報であり、それらを故意に外部に漏らすことで自国の国益に著しい損失を与えることが「機密漏洩」の罪と本来はされるのである。「沖縄返還に際しての日米間の不均衡で片務的、アメリカに対し明らかに日本が格下で義務負担が多い事態に日本国民が不満を募らせ暴発する最悪事態を想定し、事前に回避しようとする当時の沖縄返還時の佐藤内閣の政略により、実は裏側では日本政府が基地用地復元補償費を肩代わりして内密に支払っていたのに、沖縄の地権者に対する米軍用地復元補償費はアメリカが日本に対し自発的支払い負担すると表向きに虚偽の公式発表した」云々の日米両国政府間での密約の存在をマスコミ報道を通し明らかにし問題追及することは、何ら「機密漏洩」の罪には当たらない。当時より日本政府は日本国民に対し、密約の隠蔽で虚偽の政策発表をしてそのままやり過ごしていたのだから、そうした密約の隠蔽という政府による国民に対する虚偽を暴いて事実報道することは民主国家における「国民の知る権利」の正当な行使であり、時に腐敗する政治権力(国家)の監視を主とするマスコミ報道の社会的役割のまっとうな遂行である。女性事務官が西山に密約に関する複数の秘密電文を提供した行為は、違法な「機密漏洩」ではくて、民主政治における合法な「外部告発」「公益通報」である。西山記者の逮捕は、言論の自由に対する国家権力の不当な介入の言論弾圧といえる。
ところが、当時の日本政府の佐藤内閣と外務省は国会答弁や裁判証言にて密約の存在について明確な否定と「記憶にない」の紋切り口上の連発、ときには「守秘義務」を理由に一切答えない態度を貫くとともに、密約資料の入手方法をめぐっての西山個人の男女間のスキャンダルの面をクローズアップして喧伝する戦術に出た。女性事務官と西山記者を国家公務員法の機密漏洩の罪と教唆の罪にて起訴するに当たり、東京地検が出した訴状での「(女性事務官と)ひそかに情を通じ、これを利用して」という文言を前面に押し出して、政府は西山個人と毎日新聞社に対する倫理的非難の弾幕を張った。あたかも「西山が密約スクープの電文証拠を入手したいがために、共に既婚者でありながら外務省の女性事務官に近づき不倫の不義の関係を結んで彼女をそそのかした」旨の週刊誌のスキャンダル報道が先行し過熱して、密約自体への問題追及は色褪せていった。密約問題を追及された首相の佐藤栄作は、西山と女性事務官の不倫関係をして「ガーンと一発やってやるか」の下世話な下ネタ発言で揶揄(やゆ)するほどの強気のあり様であった。逆に西山個人と毎日新聞社は、不倫の不義の関係とそれに基づく取材手法で世間からの非常に厳しい倫理的非難を浴びた。密約スクープの当初より「国民の知る権利」「取材報道の自由」キャンペーンを大々的に行っていた毎日新聞は中途で急速にトーンダウンし、所属政治部記者である西山を最後まで守りきれなかった。
沖縄密約事件についての書籍は、事件の当事者である西山太吉が執筆の岩波新書「沖縄密約」を始めとして関連書は多い。なかでも澤地久枝「密約」(1978年、2006年に岩波現代文庫に収録)は本事件の概要・背景と問題の本質を的確に押さえた基本の良書であろう。近年復刊された岩波現代新書の澤地「密約」の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。
「沖縄返還交渉で、アメリカが支払うはずの四百万ドルを日本が肩代わりするとした裏取引─。時の内閣の命取りともなる『密約』の存在は国会でも大問題となるが、やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされていく。政府は何を隠蔽し、国民は何を追及しきれなかったのか。現在に続く沖縄問題の原点の記録」
沖縄返還交渉の過程で、地権者に対しアメリカが支払うはずの米軍用地復元補償費を内密に日本が肩代わりする、しかし表向きはアメリカが自発的に支払い負担したことにする裏取引の密約があった沖縄密約事件にて、「時の内閣の命取りともなる『密約』の存在は国会でも大問題となるが、やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされていく」。政治部新聞記者の西山太吉の行為は違法な「機密漏洩」ではくて、民主政治下での合法な「外部告発」「公益通報」に当たり、民主国家における「国民の知る権利」の正当な行使であるはずだ。しかし、これが西山のとった取材方法が下世話な男女スキャンダルの話に政府の側から故意に強引に印象操作されて、まさに「密約」の著者の澤地久枝が指摘するように「やがて、その証拠をつかんだ新聞記者と、それをもたらした外務省女性事務官との男女問題へと、巧妙に焦点がずらされてい」ったのである。
かつての沖縄密約事件に対する正当な問題追及を阻(はば)む、この後味の悪さの割り切れなさ。元毎日新聞政治部記者の西山太吉のことを思い出すたびに私はどこか気の毒な、非常にやるせない思いに襲われる。