アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(173)井上清「日本の歴史」

近代社会は基本、ある特定の分野に特化した分業・専門化した個人の集まりの社会だから皆が自身にとっての専攻得意分野を持ち、よって昨今の社会では個別分野にて異常なまでに優秀である人が「天才」と持てはやされる風潮にある。

しかしながら、私はそうした専門化の能力礼賛の傾向を少しも感心しないし、まったく感動もしないのである。そこには自身にとっての専門分野のことしか知らない、物事の全体の常識意識に欠ける「専門バカ」の陥穽(かんせい)があるし、特定分野での異様な能力発揮を無邪気に称賛する「能力信仰」の問題もある。各人が己(おのれ)の専門分野に各自没頭するため、全体を見渡せずセクショナリズムの縄張り争いにて全体組織が迷走して沈んでいく官僚主義の問題や、人間そのものを「使える」や「役に立つ」や「能力がある」云々の有用性観点のみからの判断評価に終始させる人間疎外の議論は、昔からある近代批判の議論にてもはや定番だ。

そうした専門分化の潮流は学問の世界にも確実にあって、確かに個人が学問を志す際には誰でも最初はほぼ白紙の初学の状態なのだから、まずは自身にとっての専攻分野の研究テーマを決めてそこから徐々に拡散して研究範囲を広げていくしかないのであるが、それにしても生涯に渡り自身の最初に設定し着手した狭い専攻テーマから何らはみ出さない「専門家な」学者が今は多い。

だが、例えば日本史研究にて自身の専攻の時代や特定の研究テーマを持ちながらも、原始・古代から中世と近世を経て近現代に至るまで広い視野にて日本の歴史の全体像を考察して書ける博学な人が昔は多くいた。「古代から近現代まで日本史通史ないしは日本史概論を一人で果敢(かかん)に書き切った尊敬すべき人」といえば、私のなかでは「日本倫理思想史」(1952年)の和辻哲郎とか、「日本文化史」(1959年)の家永三郎、「大学への日本史」(1973年)の安藤達朗、「日本文学史序説」(1975年)の加藤周一、「日本社会の歴史」(1997年)の網野善彦らがまずは思い浮かぶ。

もちろん、近年でも日本通史を原始・古代から近現代まで一人で執筆上梓した人は「形式的には」いるのだけれど、時代や分野ごとの得意と不得意とが透けて見える濃淡ある偏向した書きぶりや、明らかに欠陥のある歴史記述にどうしても私は感心できないのであった。

そうした思いを抱きながら最近、岩波新書の青、井上清「日本の歴史」全三巻(1963─66年)を読んだ。井上の「日本の歴史」全三巻は、原始・古代から近現代まで井上が一人で書き抜いた日本通史であり、定番史料の引用と先行研究を堅実に踏まえた歴史考察、歴史学の常套(じょうとう)の理論と研究手法と日本の歴史に対する著者の強い問題意識とに支えられて、全三冊を読了後に「一人で書き抜いた日本史概説として実に見事だ」の静かな感動の思いに私は包まれていた。

本書に対する、「著者がマルクス主義や史的唯物論の影響を受けている」云々の反共立場からの批判書評は昔から根強くあるが、それら言説には反共な政治立場や左派的歴史理論に対する感情的な不満の不服がもともと最初にあって、その上で「客観性や実証性の確保」の衣(ころも)をまとった「客観性や実証性に欠ける歴史認識だ」とする批判の、実質は保守や国家中心主義の歴史記述を暗に標榜するものがほとんどだから、岩波新書の青、井上清「日本の歴史」に対するそれら批判書評はせいぜい話半分だ。もともと参考にも相手にすらならないのである。