アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(293)宮城音弥「性格」

岩波新書の青、宮城音弥「性格」(1960年)は、紙面にて著者の宮城が自ら言うように本新書は「性格学概論」ともいうべき内容である。著者は心理学における性格の研究を踏まえて、性格学にての各種の性格類型を紹介し、その概要を解説する形で本論は進む。

例えば「気質の先天性」について、生まれつきの気質と体型に関係があるとするクレッチマーの三類型の分析が一般に有名だ。クレッチマーは歴史人物の肖像画の分析を通して三つの類型を導き出したのであったが、本書にもその概要が説明されてある。

「やせ型─分裂質(非社交的、無口、敏感で鈍感、心に内と外がある)、肥り型─躁鬱質(社交的、融通がきく、物にこだわらない、愉快な時と憂鬱な時が周期的にくる)、筋骨型─テンカン質(固く几帳面、きれい好き、丁寧だが時に激怒する、義理堅い)」

こうしたクレッチマーによる「内因性精神病と体型の関係」についての考察を見るにつけ、心理学や精神分析というのは、個別の具体的病状や個人の性格心理に類型概念を与え、それに振り分ける分析学であるのだということを私は痛感する。もちろん、本新書での宮城音弥を始めとして精神医学に従事の専門家は、それら類型があくまでも便宜のものであり、全ての患者や症例に必ずしもそのまま適合するものではないことを知っているし(例えば「肥り体型であっても非社交的で無口な人」もいる」)、宮城もそのことを本論にて断っている。

臨床医学の人間の異常人格の診断以外にも、社会参加を果たし価値形成をしていく正常な人格の類型に関する、シュプランガーの六つの価値分類の解説が本書にある。シュプランガーによれば、人間の文化的価値の内実は以下の六つの観点から考えられ、この六つの価値類型で全ての人間が分類できるという。すなわち理論型、経済型、審美型、権力型、宗教型、社会型である。ただ、それぞれの型はあくまでも理念的な典型モデルなのであって、一人の人物がすべて、例えば「理論型だけ」の価値追求で性格形成されているわけではないし、一つの型でその人の性格を規定し全体を説明できるわけでもない。ある人物は、例えば「理論型と権力型の複合」であり、ないしはその他の型も混じる混合の場合もあって、しかも個人によりそれぞれの型の割合に濃淡もある。「理論型と経済型と社会型の複合であるが、なかでも理論型重視の性格要素がかなり強い」個人もいるわけである。また各型の複合以外にも、例えば「意識的で表面的な言動は経済型の価値規範志向であっても、内心の無意識の衝動には権力型への渇望を隠し持っている」潜在のパターンもありうる。

さて、岩波新書「性格」ではクレッチマーやシュプランガーらの性格類型の分類が数多く紹介されており、さらには個人だけでなく民族性や国民性の歴史的・文化的な人間集団に関する「性格」についても詳しく言及されている。なかでもそれら考察の土台となる、そもそもの「性格とは何か」について最後に書いておこう。

著者の宮城音弥によれば、人間個人の性格は以下の4つの階層からなるという。ここでも「性格」の内実は、心理学や精神分析にての常套(じょうとう)の手法、個別の具体的現象に類型概念を与え振り分ける分析学のそれに依拠した説明になるのであった。

人間の性格の構造は、先天的で固定的な気質を中心として、そこに後天的で変化しやすい各層が同心円状に加わってできると考えられる。(1)内部の心の深層(コア)に中心的にあるのは「気質・体質」である。これは個人にとって「生まれ持った個性の人間的資質」とでもいうべきもので、先天的で固定的であり変えることはできない。(2)次に、気質を中心として環境の影響で次第に後天的な行動様式が作られていく。これが「狭義の性格」であり、また道徳的、社会的な意味をもつ「人格」である。(3)さらにその外側に後天的な社会条件下で形成される「習慣的性格」があるとされる。ある事物に対する好き嫌いといった「態度(行動の準備状態)」も後天的に作られる精神的傾向であり、これは習慣的性格に近い。(4)そうして性格構造の一番外側の周縁にあるのが、極めて後天的で社会的に作られた「役割性格」になる。これは、ある社会的場面に結び付いたものであり、例えば「教師が教師らしく行動し、部下は部下らしく行動すること」を指す。

以上をまとめると「人間の性格」とは同心円状で4層になっており、中心から外縁まで(1)気質・体質、(2)狭義の性格・人格、(3)習慣的性格・態度、(4)役割性格の各層により構成されている。(1)の円の中心に行けば行くほど先天的で変えようがなく、当人にとり深層の核心であり本質的な性格要因となる。いわゆる「その人らしさ」というか、その人独自の資質や個性といえる。そうして(4)の同心円の周辺に行けば行くほど後天的で変えることもできる精神的傾向であり、当人にとっては表層の比較的重要ではない性格要素となる。

だから、もしある人が当人の性格により、母子間や夫婦間や家庭内で良好な人間関係を構築できない、もしくは学校や職場や地域にて適切な社会参加が出来ない不適応の問題を抱えていて、そのために当人の性格改善が必要な場合、その改善アプローチは先の「性格の構造」の4つの階層のうち、一番周辺の後天的で変えることが比較的容易である(4)の「役割性格」の再検討から進めていくべきだ。例えば、現在の仕事が相当に精神的につらい場合には、本人の性格に合わないのだから、とりあえずその職業の性格役割を変更する、つまりは転職するとか。例えば家庭内での母子間での人間関係がうまくいかない時には一時的に母親の役割を降りて白紙にする。その間、夫に父親の役割遂行やその他の家族・親族に子育てを補完してもらうといった方策が考えられる。

さらには(3)の習慣的性格・態度も考慮し、自身の物の考え方の傾向や癖、行動に至るまでの準備状態たる日常的態度を客観視して再検討することも性格改善には有効だ。つまりは後天的な社会条件たる自分の習慣や態度そのものを変える。加えて習慣・態度を変えるために自身を取り巻く環境そのものを変えてみる。日常生活にてのルーティン(常同行動)の変更、イレギュラー(突発的で不規則)な行動の選択とか。例えば、長期休暇をとったり他地域への転居という方法が考えられる。

他方で個人の性格構造において、先天的で変えようがなく、当人にとり深層の核心であり本質的な性格要因となる「その人らしさ」ともいえる、その人独自の資質や個性に該当の(1)の気質・体質や(2)の狭義の性格・人格は、基本的に変えられないものであるから、いくら性格改善とはいえ、それらを改変しようとしたりしないほうがよい。当人の性格としてそのまま肯定するのがよい。これらを無理にいじると、その人に対しての性格否定や人格毀損になってしまうからだ。最悪、当人の性格が破綻してしまう。性格の深層の核にあるそれら気質・体質や狭義の性格・人格は生まれ持っての先天的なものであり、その人個人の本質的なものであって、もはや変更など出来ないのだから、これら性格の中心的構造部分は肯定で認めて「その人らしさの長所の美点」として褒(ほ)めて伸ばすか、多少の問題があったとしても割り切って一生付き合っていくしかない。

以上の「性格改善」の話は、岩波新書の青、宮城音弥「性格」に直接に書かれてはいないが、自分の人生経験からしても私は切にそう思う。

私がよく行く飲み屋に10代学生の双子の男性アルバイトがいる。私は毎回、酒を飲みながらそれとなく観察しているが、一卵性双生児なので顔も背丈も非常によく似ている。ほぼ同じである。ただし兄と弟で明白に体格が違う。それは双子特有の母胎内にいる時の母親からの栄養摂取の偏(かたよ)りであると思う。兄は骨格がガッチリしていて、弟は兄と比べて明らかに細く、まだ身体が出来ていない印象を受ける。双子の兄の方は体格がガッチリしているためか、動作が大きく男らしく無愛想であるけれど仕事が早くミスも少ない。店内での接客の声も大きくハキハキしていて、店長や社員からのウケがよい。他方、双子の弟の方は細くてまだ身体が出来ていないためか、どちらかといえば内気で声も小さく仕事が遅くてよくミスをする。しかし、接客が非常に細やかで愛想がよく、毎回、私が好きでよく頼むメニューをあらかじめ覚えていたりで、常連客へのウケが大変によい。

双子というのは希(まれ)な事例であって、前述の性格構成のうちの後天的な(3)から(4)の各層は衣食住のこれまでの生育環境が二人ともほぼ同じであるだろうから、双子の兄弟でここまで性格が対照するのは、もう先天的で固定的な生まれ持っての(1)の気質・体質の違いに由来しているとしか考えられない。そうして先天的で固定的な気質・体質は、すでにその人の変更できない個性的性格であるのだから、この双子の場合、例えば兄の方に、弟のようにもっと細やかな気の付く接客をしろとか、逆に弟の方に、兄のようにもっと素早くテキパキと作業しろなどと第三者の店長や客が指導・要求しても、それは性格の構造上おそらくは無理である。双子で容姿はほぼ同じでそっくり似ているにもかかわらず、双子の兄にも弟にも双方に生まれ持っての気質・体質から来る性格の、各人の「人としてのよさ」が個別にあるのだから双方の性格長所を認め、かつ性格短所は暗に見逃して、それぞれに人格尊重していくことが最善だと思える。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローの岩波新書の書評」(※これまでに書き溜めてきた書評記事の厳選集成であり、以前に別の場所でやっていたブログをそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「岩波新書の書評」は全7カテゴリーよりなります。「政治・法律」「経済・社会」「哲学・思想・心理」「世界史・日本史」「文学・芸術」「記録・随筆」「理・医・科学」です。

お探しの記事やお目当ての新書・著者は、本ブログ内の検索にて入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

最後に。大江健三郎による1960年代の最初の全エッセイ集「厳粛な綱渡り」(1965年)初版の単行本は二段組で全500ページほど。大江の1960年代の思想と文学と行動と生活がこの一冊にびっしり細かに丁寧に書き込まれている。評論・書評・ルポルタージュ、講演・インタビュー、広告文・コラム、日記・雑記…内容は多彩である。「何でもあり」なバラエティブックの様相である。書籍自体も辞書のようで非常に厚くて重い。私は本書を日々携帯し繰り返しよく読んでいたのだが、本書の書き出しは「この本全体のための最初のノート」であった。全六部を経ての巻末は、もちろん「この本全体のための最後のノート」である。大江健三郎「厳粛な綱渡り」全エッセイ集は私にとって昔から非常に感じのよい、もはや手離すことの出来ない極上書籍で愛読の内の一冊だ。大江健三郎には全くもって及ばないが、私も「このブログ全体のための最後のノート」記事をいつの日か書くだろうか。

岩波新書に愛を込めて。(2021・4・1記)

いちばんはじめの書評をめぐるコラム

私は若い頃から「図書新聞」をよく購読し、昔から書評やブックレビューの読みものを楽しんで読んでいた。私は自分で書評ブログを始める際、これまで他人の書評を日常的に読み、かつ研究した結果、自身に課したことがいくつかあった。

(1)自分の身辺雑記や個人情報は書き込まず、最初から書籍の話題にすぐに入り、できるだけ書籍のことについてだけ書く。(2)後々まで読まれることを想定して、時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにする。(3)書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく、「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような、横着な読者に便宜を供する都合のよい「書評もどき」の記事は書かない。(4)書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよい。点数をつけて採点したり、毎回、必ず評価を確定させなくてもよい。ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」掘り下げて説明するようにする。

(1)に関しては、最近はインターネット環境の普及で皆が「書評ブログ」をよく書くようになった。書き出しから書評本と自身の出会いのエピソード紹介(「本当はその分野の本には全く興味がなかったのに学生時代、恩師に薦められてつい」)とか、その書物をどういう状況で読んだか(「帰宅途中の電車で読んでいたら面白すぎて没頭してしまい、降りる駅をやり過ごして終点駅まで行ってしまった」)だとかの身辺雑記や個人情報を「枕の文章」として最初に熱心に長々と語る人がいるけれど、そうして「自分語り」だけ熱くやって書物のことにあまり触れないで、そのまま終わる「自分大好き」な困った人が時にいるけれども(笑)、そういうのは必要のない余計な情報だ。

普遍的な人生の真理として、「私が自分の生活や人生に関心があり大切に思っているほどには、実は他人は私の生活や人生に関心や興味はない。皆が自分のことだけ大事で案外、他人のことには無関心でどうでもよいと思っている」。だから、世間の皆がその人の私的なことまで知りたいと思っている芸能人や著名人ら余程の人気者とか有名人でない限り、一般の人は自身の身辺雑記や個人情報は語らずに最初から「即(すぐ)」でスムーズに書籍の内容記述に入って、書評の内容だけで終わらせるのがよい。

(2)については、例えば1990年代当時に「オウム真理教」の話題が世間を騒がせ人々の耳目を集めたが、時事論やニュース解説の文章でない場合に、あえて例えの説明に「オウム事件」云々を書き入れてしまうと、当時は時宜を得て(タイムリーで)新鮮でよいけれど、後に時間が経って2020年代に読むと、その書籍にはいかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。だから、自分の文章が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにした方がよい。

(3)の、書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく「書評」は今日、ネット上で確かに人気がある。おそらく、そうした方が確実にアクセス数も増えるに違いない。しかし、それは「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような(昨今は、こうしたことを期待する怠け者の横柄な人が本当に多い)横着な読者に便宜を供する都合のよい記事で、読み手を甘やかす堕落の「書評もどき」なので私は感心しない。

(4)のように、書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよいけれど、ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」を掘り下げて説明するようにしたほうがよい。ただ単に「これは絶対に読むべき名著だ」と激賞したり、逆に「この本は読むだけ時間の無駄」と酷評して採点するだけの、そのまま言いたい放題の放り投げで終わる短文書評を特に「アマゾン(Amazon)」のブックレビューでよく見かけるが、毎度読んで「あれは良くない」の悪印象が私には残る。

岩波新書の書評(517)田中彰「小国主義」(その3 石橋湛山)

前々回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、前回と今回で中江と石橋について改めて個別に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は、大正・昭和の経済評論家であり政治家である石橋湛山についてである。

「石橋湛山(1884─1973年)は経済評論家、政治家。 『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮のもとで、小日本主義といわれる朝鮮・満州など植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策を提唱。のちに東洋経済新報社社長。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の蔵相。1956年首相。日中・日ソ国交回復に尽力するも、病気のため2ヶ月で総理を辞任」

石橋湛山は大学卒業後、新聞社に就職しジャーナリストとして活動して、その都度、数回に渡りみずから志願し軍隊に入隊している。その後、経済専門誌出版事業の東洋経済新報社に入社する。「東洋経済新報」誌上で経済評論を発表し続け、やがて頭角を現し、東洋経済新報社の主幹(編集長)を経て代表取締役(社長)となる。石橋湛山は現場の叩き上げの経済記者から東洋経済新報社の社長にまで登り詰めたのであり、非常に優秀である。石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつも私はする。

石橋湛山は「小日本主義」を唱えた。小日本主義とは大正・昭和の時代、政府がとる軍事による大陸侵出の膨張路線である大日本主義に対し、平和的な貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州らの日本の植民地放棄を主張する立場である。特に満州事変後と韓国併合後の、満州と韓国の日本による植民地支配と外地への日本人移民の流出を強く批判したことから、小日本主義は「満韓放棄論」「移民不要論」と呼ばれることもある。石橋は小日本主義の論陣を張って、同時代の対華二十一カ条要求、シベリア出兵、満州事変ら大国主義の政治を厳しく批判した。 

石橋湛山の小日本主義の植民地政策批判に関しては、「どういった理由で石橋が、当時の政府にとっての最重要国策である東アジアへの大陸膨張路線の新たな植民地の獲得・経営たる大日本主義を批判し、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄を説いていたか!?」その内容を見極める必要があるだろう。石橋湛山による小日本主義の主張は、「青島は断じて領有すべからず」(1914年)、「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)、「大日本主義の幻影」(1921年)らの評論にてその都度、展開されているが、各論説ともに毎回連続し通底してある「日本が植民地放棄をすべき」主な論拠は以下の2点に集約される。

(1)日本が東アジアの大陸に侵出を重ね多数の植民地を獲得し植民地経営しても、何ら経済利益が見込めない。むしろ日本内地から台湾・朝鮮・満州の外地の植民地への資産持ち出しや現地支配の行政コストにより、日本の植民地経営は毎年、累積赤字が膨らむ一方であり、植民地の獲得・経営は経済的に無価値である。「日本の帝国主義的な覇権伸張」といった自国の領土拡大という目先の「小欲」の満足に溺(おぼ)れることなく、大局的見地から日本にとっての本当の意味での国益を考えるとき、一切の植民地を放棄をして、内地のみの小日本主義に徹するべきである。

(2)東アジアにて日本が奔放自由に軍事衝突の戦争を仕掛け戦勝にて多数の海外植民地を得ることは、中国分割など同じくアジア侵出を進める欧米列強の反感を買い、遂には日本が「極東の平和に対する最大の危険国」と見なされ警戒される。それで日本が国際的に孤立すれば諸外国との通商貿易にて大きな障壁となり、日本の国益を著(いちじる)しく損ねる。また軍事侵攻により露骨に中国侵略して現地の中国人に「不抜(ふばつ)の怨恨」を抱かせ結果、日本製品不買(ボイコット)運動ら海外市場からの締め出しを日本企業が喰らう懸念もあり、通商上、植民地獲得で大国化の膨張路線は日本にとって得策とは言い難い。ゆえに、わが国は植民地放棄の小日本主義に徹した方がよい。

これら石橋による、小日本主義における2つの「日本が植民地放棄をすべき」主要論拠が、いずれも日本にとっての経済的なコスト原則の損得勘定に依拠していることに留意されたい。思えば、石橋湛山は「東洋経済新報」の記者が出自の経済評論家なのであって、同時代の日本の海外政策を考える際にも最後はことごとく日本にとっての経済利益の話に収束させて、そうした経済的観点から思考判断するのが常であった。この意味で冒頭で述べた、石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつもするの、私の感慨理由も納得して頂けると思う。

石橋は台湾や朝鮮や中国の人達に対し、民族自決の原則を尊重し彼らのことを思って東アジアの人々の各国の独立を認めるような、他者の権利保障の規範原則の立場から、日本による海外の植民地支配批判の小日本主義を主張したのでは決してない。当面の日本にとって軍事侵略による植民地の獲得・経営が、日本の経済利益に全くなっていない(むしろ、逆に多大な経済損失を日本にもたらしている)という理由により、当時の日本の国策たる大国主義を批判し植民地放棄の小日本主義を彼は力説したのである。当の石橋湛山からすれば、日本の繁栄のために植民地は経済利益の点で全く必要でない。事実「朝鮮、台湾、樺太ないし満州は日本にとって経済利益に何らなっていない。だから、それら地域に対しては 『自由解放 』の政策で処するべき」旨の単純素朴な考えなのである。このように、民族自決の原則を尊重して東アジア地域の人々の解放と各国の独立を認める、他者の権利保障の規範原則の立場よりの日本の植民地放棄の主張では全くないことから、石橋は、例えばイギリスによるインドの植民地支配に関し「英国にとってインド支配は大いなる経済利益がある」ため肯定し、欧米列強によるアジアの植民地支配は積極的に認めて好意的であった。

日本にとっての経済利益の国益を考えた場合、軍事の戦争による大国化の膨張路線(大日本国主義)は得策でないので植民地の獲得・経営に依(よ)らない形で、つまりは日本は植民地放棄をして、直接の戦争による戦禍を出さない非軍事的な大陸アジアへの経済進出を果たすべき、の石橋の本意であるのだ。もともと日本が海外の東アジアへ侵出を果たすべきの日本国繁栄の念願はあるが、ただその実現のための現実的な方法として、軍事による戦争や植民地の獲得・経営のあまりに露骨な「力(暴力)の手段」に頼らないというだけなのであり、何も石橋湛山その人が戦前日本の軍国主義や日本による東アジアの植民地支配そのものを正面から問題視し、正当に批判していたわけでない。

台湾や朝鮮や中国ら東アジア領土分割の実質的な現地支配に、日本を加えた欧米各国が邁進していた当時の国際政治下にて、大陸アジアでの利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接の軍事行動(つまりは戦争)と植民地獲得以外での非軍事で経済的な日本によるアジア支配を石橋湛山は主張しているのであり、確かに戦争否定の日本の軍国主義批判で表層は「平和主義」的論調であるが、経済利益の点でイギリスによるインドの植民地支配を容認するなど、近隣アジアの人々の民族自決や独立解放を何ら強く訴えていないことから、石橋湛山は決して民主的な自由主義者、人道的な反戦平和主義者ではなかった。

ここに至って、石橋湛山が戦前の軍国日本の植民地政策を現象的に批判し、植民地放棄の「小日本主義」を主張したからといって、近代日本にて大勢を占めた当時の戦争翼賛の軍国主義に抵抗する、「例外的で貴重で希(まれ)な自由主義者であり反戦平和主義者」と即断して安易に石橋を称賛するような軽率は慎(つつし)まなければならないだろう。「真のリベラリスト」といった安直な石橋評価は、もともと経済評論家であり、そのため極めて「経済的な」石橋湛山その人に対する本質的理解を欠いている。

さて、石橋湛山の生涯には戦前・戦中の小日本主義の論説をめぐる経済評論家としての活動に加えて、戦後にもう一つの人生のクライマックスがあった。石橋は以前の小日本主義に基づく日本の植民地政策批判(植民地放棄の主張)の過去から、敗戦後は戦時から日本のアジア侵略の軍国主義を批判していた数少ない「正統な自由主義者」「筋金入りの反戦平和主義者」であると一部の人達に相当激しく誤解されていたのである(苦笑)。そのため敗戦時の石橋湛山は「リベラルで民主的な好人物」と見なされ、世間の評判はそこそこ良かった。そこで戦後日本の新しい平和憲法の国政下にて衆議院議員総選挙に出馬し(石橋は左派リベラルの日本社会党から誘いを受けるも、これを断わり、あえて保守政党の日本自由党公認で出馬している)、何度か選挙に挑戦の末、見事当選を果たし、石橋は東洋経済新報社の記者・経済評論家から転身し晴れて政治家になる。初めは日本自由党に所属し、1955年の自由党と日本民主党との保守合同を経て現在の自由民主党(自民党)に参画した。石橋は自身が専門の経済分野に精通し、数々の経済政策で着実に実績を積み重ねて、後に自民党総裁となり、当時自民党が政権与党であったため、遂には石橋湛山は第55代内閣総理大臣となって、1956年に石橋内閣の組閣に至る。

だが、ここが石橋湛山という人の全くのツキのなさと言うか、不運の極みの人生の酷薄さと言うか、石橋は総理就任直後、脳梗塞の発作に倒れ、2ヶ月で内閣総理大臣を辞任。石橋内閣は早々に退陣を余儀なくされてしまう。石橋の首相在任期間はわずか65日であった。幸いなことに病状は回復し、1957年の内閣退陣の後も長く生きて石橋は1973年まで存命であったが、肝心の首相就任の大切な時期に脳梗塞の病に襲われ、内閣総理大臣の重責をまっとうできずとは、何よりも石橋本人が無念であったに違いない。部外者の私からしても、戦後の石橋湛山はいかにも気の毒である。

岩波新書の書評(516)田中彰「小国主義」(その2 中江兆民)

前回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、今回と次回で中江と石橋について、特に「小国主義」という観点にとらわれることなく自由に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は明治の思想家、中江兆民についてである。

「中江兆民(1847─1901年)は高知出身の思想家。岩倉使節団と共にフランスに留学、74年帰国。東京に仏学塾を設けた。1881年以降、『東洋自由新聞』で自由民権論を説く。1890年、衆議院議員となったが、翌年自由党土佐派の妥協に憤慨して議員を辞職。『三酔人経綸問答』を著す」

中江兆民は自身のフランス留学の経験からフランス流の急進的自由民権論を唱えて、民権運動の理論的指導者となった。近代日本における自由民権運動の理論的指導者では中江兆民、植木枝盛あたりが一流の一級である。彼らは薩摩・長州の藩閥政府以外の出自のために自身が明治新政府の要職に就(つ)けない個人的不満とか、維新後の四民平等による旧士族が没落の私的怨念や、地方出身者で自由民権運動を足がかりに何とか立身出世を果たし世に出てやろうの下流の野心もなく、確かに西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景があって、理論的であり理性的であった。中江兆民なら人民主権に裏打ちされた社会契約論、植木枝盛ならば天賦人権論に裏打ちされた抵抗権・革命権の主張というように。

中江兆民は、もともと漢学の心得がある上にフランス語の外国語ができるので、思想内容以前に兆民による人々の耳目を強くひき付けるフレーズや彼独自の造語など文筆の才にあふれており、非常に優秀である。同時代の自由民権論者や啓蒙思想家の中で中江兆民は頭ひとつ抜けている。

例えば、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(「日本人は昔から自分で作った哲学を持たず、確固とした主義・主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がない」の意)の兆民の指摘は有名である。また明治憲法発布の当日、弟子の幸徳秋水によれば「兆民先生、通読唯(ただ)苦笑する耳(のみ)」で、中江兆民による「恩賜的民権から恢(回)復的民権へ」(「為政者から人民に施しとして与えられた限定つきの民権ではなくて、人民がみずからの手で獲得した権利へ発展させなければならない」の意)での、「恩賜的民権」「恢(回)復的民権」といった兆民独自の造語センスが抜群である。その他、兆民が帝国議会の衆議院議員辞職時の「(議場は)無血虫の陳列場」(「無血虫(むけっちゅう)」とは「血のない虫」で「冷酷でむごい人」の意味)という最後の去り際の捨てぜりふなど、実に傑作であり最高だ。私は今でもテレビで国会中継を視聴するとつい中江兆民の「(議場は)無血虫の陳列場」の言葉を思い出し、それを言い換え「議場は虫けら共の陳列場」とつぶやいて独り勝手に苦笑してしまう。

中江兆民はルソーの「社会契約論」を漢文調で抄訳した「民約訳解」(1882年)を出して日本に人民主権説を紹介したため、「東洋のルソー」と呼ばれることがある。「社会契約論」(1762年)を著した本家フランスのジャン・ジャック・ルソーは猜疑心が強く陰気で、いつも対人トラブルを起こし恋人や友人やパトロンらとの間で交際が長続きせず、自称「人間嫌い」の厭人病を発病して結果、すぐに孤立して孤独になってしまう、かなり気難しくて交際しにくい、周りの人達からして非常に扱いにくい困った人であった。他方「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は無類の酒好きで、皆と酒を飲んででいきなり下半身露出して往来に晒(さら)したり、宴会席で紙幣を100枚ほどばらまき芸者たちに拾わせては「ああ愉快、愉快」と大はしゃぎするような破天荒で人付き合いよく、友人らといつも楽しく過ごせる快活陽気な人だったのである。そのような豪快で好人物の兆民であってみれば、彼が「東洋のルソー」と呼ばれるのは何だか気の毒な思いがいつも私はする。中江兆民は日頃の深酒の痛飲がたたってか、喉頭がん(後に食道がんだったと判明)で54歳で亡くなってしまう。

中江兆民は生涯にわたり在野の人を貫いた。明治藩閥政府への激しい対抗批判をなす自由民権運動家に対し、明治政府は政府内での要職打診をしたり、費用を援助して海外留学させたりの懐柔策で民権論者を取り込み意のままに操ろうとした。自由民権運動下で板垣退助や徳富蘇峰らは、そうした懐柔策にはまり、やがて次々と藩閥政府に取り込まれていく。だが中江兆民だけは違った。兆民は一度も藩閥政府に日和(ひよ)って明治政府側に与(くみ)することはなかった。

しかし、その一方で兆民は、いつの時でも一つの仕事を我慢強く継続してやり遂げて自分のものにできなかったことも事実である。中江兆民はすぐに仕事を投げ出して次々と新しいことをやる相当に飽きっぽい性格であった。とにかく堪え性(こらえしょう)のない人だった。兆民は学校校長となったり新聞社主筆となっても、すぐに辞めてしまう。みずから立候補し見事当選して帝国議会で晴れて衆議院議員になるも、自由党土佐派の裏切りによる政府予算案成立に憤慨してわずか一年足らずで早くも議員辞職してしまう。その後、政治から離れて材木業や鉄道事業ら数々の事業に手を出すが長続きせず、ことごとく失敗している。

ところで、戦前昭和の日本に本格の探偵小説家で小栗虫太郎(1901─46年)という天才がいた。小栗の「黒死館殺人事件」(1934年)など日本の探偵推理において、突出した異才発揮の名作である。そうした天才の小栗虫太郎であるにもかかわらず、小栗は探偵小説を継続して書き続けることなく、戦時の生活苦から陸軍報道班員として突如、海外の南方に出向いたり、地方で果糖製造の事業を立ち上げたりで、本業の探偵小説業を中途放棄してあれこれやっているうちに過労が重なり、病に倒れ44歳の早さで亡くなってしまう。小栗虫太郎には、当時まだ探偵小説の読み手が少なく広く社会に探偵推理の文学が普及しておらず、探偵小説執筆の専業では食べていけない戦前日本の文学環境が未成熟の時代的不幸があった。

この小栗虫太郎の生涯にての探偵小説執筆での大成を果たせずに早世した事例を思い起こす度に、いつも私は明治の自由民権運動の思想家、中江兆民のことを思い出す。確かに兆民には辛抱せず長続きしない、すぐに仕事を投げ出してしまう飽きっぽい本人気質の問題もあったが、それ以前に兆民が生きた近代日本の明治期にて、自由民権論を唱え明治政府を批判しながら、そのことで自身の思いを遂げてつら抜く在野の思想家・ジャーナリストとして生きる世論や組織や制度の社会的基盤の成熟環境がなかった。中江兆民の著作「三酔人経綸問答」(1887年)と評論「国家の夢、個人の鐘」(1890年)は、西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景に支えられ理論的に特に優れている。これら論考は近代日本の民主的な思想潮流の中で時代的にかなり早く、完成度が高くて早熟である。

しかし、そうした民主的な民権思想家の中江兆民を許容して支える市民社会的基盤がまだ明治の日本にはなかった。結果、優れた自由民権思想家の中江兆民は学校校長や新聞社主筆や衆議院議員や実業家ら、さまざまな仕事を短期のうちに次々に転々として、必ずしも成功し大成したとは言い難い生涯を送り、最期は常日頃の深酒の痛飲がたたって喉頭がんで病に倒れ54歳で亡くなってしまう。非常に残念で、やるせない思いが兆民の著作および中江兆民研究を読むといつも私には去来する。

岩波新書の書評(515)田中彰「小国主義」(その1)

岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)は、タイトルの「小国主義」の反対である「大国主義」を「国際関係において、大国が自国の強大な力を背景に小国を圧迫する態度」「経済力・軍事力にすぐれた国がその力を背景に小国に臨む高圧的な態度」という辞書的意味定義から、その大国主義をして「明治維新以後の日本近代史は、ひたすら大国への路線を歩み、戦争につぐ戦争をくり返した大国主義の歴史にほかならなかった」(ⅱページ)というように、かの大国主義的衝動に終始し翻弄され続けた近代日本の歩みを批判的に総括しようとするものだ。こうした内容に合致して、本書の副題は「日本の近代を読みなおす」になっている。

思えば明治維新以来、近代日本の大日本帝国は日清・日露戦争、第一次世界大戦の東アジア戦線、ロシア革命に伴う対ソ干渉戦争たるシベリア出兵、満州事変、対中国の日中戦争と対アメリカの太平洋戦争とを主な内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)ら、対外戦争を重ねに重ね、軍事的・経済的な覇権をもって海外の植民地獲得と現地支配に躍起し奔走する「大国主義」の典型であった。著書の田中彰は書籍タイトルである「小国主義」の立場から、近代日本のそうした大国主義の潮流を非常に厳しく徹底的に批判する。これには本書執筆時の1999年の90年代には自衛隊の海外派遣がなされ、第9条の書き換えを争点にした憲法改正論議がいよいよ盛況となったことについての「日本の軍事大国化路線への転換」といった右傾化・反動化の認識が強くあり、それら動きを戦前日本への回帰として再びの日本の大国主義化を憂慮する、著書の田中彰の現状に対するかなりの危機意識があることも押さえておくべきだろう。

本書の中で、著者は「大国主義か、さもなくば小国主義か!?」の非常に限定された二項対立思考にあえて固執し事実、近代日本の歴史は大国主義のそれに他ならなかった、近代日本は小国主義の姿勢・立場を貫徹できなかったの趣旨で、日本にとっての「未発の可能性」である「小国主義」への移行を暗に強烈に望み、それとは反対の近代日本の大国主義の歴史を極めて厳しく批判する。また「近代の時代は日本のみならず、欧米列強がアジア・アフリカ地域に侵出し、各地域を植民地支配しようと各国が覇権のしのぎを削る大国主義で領土拡張の帝国主義戦争の時代であったのだ。だから近代日本が維新の開国以来、明治と大正そして戦前昭和の各時代において朝鮮半島や台湾の実質現地支配に始まり、遂には北は華北と満州、南は東南アジアと太平洋各諸島に至るまで、大国主義の方針でアジアの各地域を広く占領支配したとしても、それは当時は当たり前の国際常識であり、何も近代日本の大日本帝国だけが集中的に非難される事柄ではない。そのような大国主義への衝動欲求は当時の国際政治にて当たり前で自然なことだった」とするような日本の大国主義擁護の意見に反論するかのように、近代日本でも当時から同時代にて大日本帝国の大国主義を批判し、日本は近隣アジアへの無理筋の大陸膨張路線はやめて、維新の開国当時の日本列島国内領土の保全に専念し、その分、海外進出の国外政治ではなく国内政治での民主化や近代化に注力するべきという近代日本における、大国主義批判の「小国主義」の水脈の伏流を本書にて明治・大正・昭和の時系列で順次紹介していく。すなわち、

「Ⅰ・近代日本の選択肢を求めて・岩倉使節団のめざしたもの。Ⅱ・自由民権期の高揚と伏流化・植木枝盛・中江兆民の位置。Ⅲ・ 『小日本主義』の登場・大正デモクラシーの中で・三浦銕太郎・石橋湛山。Ⅳ・日本国憲法をめぐって・小国主義の理念の結実」

以上の全4章にて、明治・大正・昭和の各時代の「小国主義」の事例を取り上げ、必ずしも対外膨張路線の大国主義は、当時から当たり前の国際常識であったわけではない、近代日本にて明治の岩倉使節団から自由民権運動、大正デモクラシー、昭和の敗戦後の日本国憲法制定ら、各時代にて各人や制度・事柄による大国主義批判の「小国主義」の主張・運動は確実にあった、の証左を順次、歴史的に示していくのである。

そもそも原理的に考えて、対外膨張して自国以外の所での他国の領土支配や他地域での覇権伸張をもくろむ大国主義は、相手国の国権や民族自決や地域の経済自立を軽視し、時に明確に否定した上でなされるものであり、大国主義は他国に戦争を仕掛けて軍事侵攻で戦勝の結果に多額の賠償を得たり、軍事的・経済的圧力でもって不平等条約の締結を相手国に強要したり、領土割譲したり自国の要人を送り込んで保護国化したり、遂には植民地化支配したりすることでなされるものである。他者尊重の健全な常識的振る舞いにて国家は滅多なことで、そう簡単に大国化したりしない。

ゆえに国際政治上での法的措置がなく違法規制がなくとも、大国主義には他国や他民族の他者に対する権利侵害の、人道倫理的な悪の後ろめたさが常に伴う。近代日本の歴史を大国主義の見地から概観するとき、中国本土や朝鮮半島に対外侵出の、かの大日本帝国の大国主義に関し、中国・朝鮮の人達のことを考えて日本の大国路線を批判的に理解したり、今日でも「軍事大国アメリカの脅威」とか「現代中国の大国化への懸念」など、アメリカや中国の大国主義への志向を胡散(うさん)くさく怪しいものと感じてしまうのは、大国主義に他国の他者に対する権利侵害の反人道倫理な悪の要素があるからに他ならない。岩波新書の赤、田中彰「小国主義」は、そうした大国主義の倫理的悪の胡散くさい怪しさを読む者に教えてくれる。そこが本新書の最良さだと私には思えた。

最後に田中彰「小国主義」に関し、岩波新書編集部が出している公式の紹介文を載せておく。

「明治期に中江兆民が『小国主義』を唱え、大正期には三浦銕太郎や石橋湛山らが『小日本主義』を主張して、政府の『大国』路線を厳しく批判したことはよく知られている。日本近代史上、ときに浮上し、ときに伏流化した小国論とは何であったか。日本国憲法こそ小国主義の結実とする著者が示す、知的刺激に満ちた日本近現代史」

岩波新書の書評(514)川喜田二郎「発想法」

(今回は、中公新書の川喜田二郎「発想法」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、川喜田二郎「発想法」は岩波新書ではありません。)

川喜田二郎「発想法」(1967年)は、昔からよく読まれている書籍で有名である。本書の概要は以下だ。

「長い間、書斎科学・実験科学だけにとじこもっていたわれわれは、『現場の科学』ともいうべき野外科学的方法に眼をむけるときにきている─と提言する著者が、問題提起→外部探検(情報集め)→観察→記録→分類→統合にいたる野外科学的方法とその応用について具体的に説きながら、独創的発想をうながす新技術として著効をうたわれるKJ法の実技と効用とを公開する。職場で書斎で、会議に調査に、欠かせぬ創造性開発のための必読書」(表紙カバー裏解説)

本書はタイトル通り「発想法」の具体的方法を教授するものだ。本書のサブタイトルは「創造性開発のために」となっている。「発想法」といっても様々なものがある。例えば、「ブレインストーミング」(判断・結論は下さないの前提で自由に思いつくままに大量のアイデアを連続で出していくことで、相互交錯の連鎖反応や新発想の誘発を期待する方法)、「ディベート」(あえて自分とは対立する立場の人との論争競技を通して、思考の弱点・強みを再発見したり、改善を加えて考えを深めていく方法)、「水平思考」(分析的で論理的な垂直方向の思考の積み重ねではなく、一見突飛で非常識で主観的な、多面的な水平方向の思考から新たにアイデアを掘り起こす方法)などが昔からあった。

そして川喜田二郎「発想法」で述べられているのはKJ法とされるものである。なぜKJ法と呼ばれるのかといえば、それは著者みずからが自身の名前の川喜田二郎(kawakita・Jiro)のイニシャルを取って勝手に「KJ法」と命名しているだけなのだが(笑)。だが、しかし川喜田二郎が奨励する「発想法」が、すでにKJ法の名称で一般的に広まっているのも今日では確かなようである。

「発想法」の著者である川喜田二郎は文化人類学者である。川喜田が自身の研究を進める上で取られた発想の方法なため、「発想法」の本書でも冒頭から「書斎科学と実験科学の相違」「野外科学の方法と条件」など氏が専攻の文化人類学についての話が長く続く。本書を読む読者はそうした文化人類学の学問内容ではなくて、文化人類学の研究を進めるうちに川喜田二郎が発見し会得したという「発想法」の概要を、どのような分野の学問研究であっても、また一般の学生の勉強や社会人の仕事にも幅広く適用でき活用できる川喜田二郎の名前由来のKJ法という発想法の抽象的原理や具体的方法を知りたいのであるから、「文化人類学における野外科学の方法と条件」云々の話は飛ばして、「一体、KJ法とはどういった発想法であるのか!?」の解説部分に傾注して重点的に読むのが賢明であろう。

ここで改めて川喜田二郎が提唱の発想法であるKJ法の概要を要約するとすれば、以下の通りだ。

「KJ法とは文化人類学者の川喜田二郎がデータをまとめるために考案した発想の手法である。まず(1)データ・知識・アイデアを収集しカードに記述して(カードの作成)、次に(2)カードをグループごとにまとめ、見出しをつけ(グループ編成)、続いて(3)それら断片的なカードを統合して全体として図解し(図解化)、最後に(4)その図解を論文等の文章に落とし込んで形にする(叙述化)。こうした4つの作業の各過程を経ることで、最初に集めた雑多なデーター・知識・アイデアが相互に関係づけられ整理され統合されて、全体的な図解化による気付きや発見を通して新たな発想が生まれ、後にそれを言語で文章化し明確な形に仕上げるというわけである。その際、断片的なカードを統合して全体として図解する(3)の「図解化」の工程はKJ法A型、全体図解を論文等の文章に落とし込んで形にする(4)の「叙述化」のそれはKJ法B型と川喜田により、それぞれに名付けられている。(1)(2)の情報収集メモからカード作成とカードのグループ編成の詳しい手順は本書48・49ページにイラスト図掲載で詳しく説明されている。(3)のKJ法A型の図解の実例は、例えば90・91ページにある「自然と自然災害」に関するような、全体の意味関係図が書ければよい。また(4)のKJ法B型の叙述の実際は、例えば153ページにKJ法A型の図解をKJ法B型の文章に落とし込んだ対応図の実例があるので、これを参考にするとよい。その他、KJ法A型図解法におけるグループ編成の基礎となる『基本的発想データ群(BAD)』への言及(105─114ページ)も参考になる」

私は川喜田二郎「発想法」を初読の際、そこまで驚かなかったし、正直そんなに感心もしなかった。本書で川喜田二郎は、あたかも自身が初めて発見し生み出した画期的な発想法であるがごとく、KJ法という自分のイニシャル表記から命名の専売特許のように誇らしげに得意そうに終始述べているけれども、ここに書かれてある「発想法」のKJ法とか、私は本書を読む以前の10代の大学生の頃から早くも当たり前のようにやっていたけどなぁ(笑)。当時、私は川喜田二郎「発想法」は未読でKJ法という言葉を全く知らなかったが。私の周りの人達も大学のゼミ発表やレポート提出、卒業論文の執筆にて、川喜田二郎「発想法」に書かれてあるKJ法のようなことは、ほぼ皆が普通にやっていた。

川喜田二郎が専攻の文化人類学とか実験科学とか野外科学的方法などの特殊個別的な事象は外して、氏が奨励の「発想法」たるKJ法を一般の人々の日々の知的活動に当てはめてみれば、KJ法の4つの過程のうち、なるほど断片的なデータ・情報を統合して全体として図解する(3)の「図解化」のKJ法A型の手続きは、読みながら本から得た情報の図解まとめやメモ作成を通して深く全体理解する読書の文章読解にあたり、また全体図解・メモを論文等の文章に落とし込んで形にする(4)の「叙述化」のKJ法B型のそれは、読書の時に作成した図解のまとめ・メモを明確な言葉の形にする執筆の文章記述に該当するわけである。

私達は読書で文章を読み、その意味内容を理解する際には、一文ごとの一文字ずつの文字配列を機械的に正確に覚えているわけでは決してなく、文全体の中での核となるキーワードや重要センテンスや先々の論理展開など一度は頭の中で図解化しイメージ化して幾つもの了解を重ねていっている。それら多数の了解の積み重ねが文章理解の読書というものである。

よって学術書を読むとき私はそのまま漠然と読み流さずに、必ず書き抜きのメモを取ったり、要点のまとめや全体構成の展開図などをノートに書きながら、各部分相互の関係性に留意し掘り下げて読書するし、小説でも複雑な人間関係の長編推理小説などでは人物相関図や家系図、時系列の簡略な出来事年表を作成メモしながら、伏線らに注意して慎重に読み進める。つまりは川喜田二郎が奨励の「発想法」における「データ・情報収集から図解化へ」のKJ法A型のようなことは読書の際には、もう無意識に頭の中で、もしくは実際のメモやノートを作成しながらすでにやっている。同様に文章記述の際にも、ただ何となくの無計画でいきなり書き始めたりせず、それなりによく使う言葉や決めの重要センテンス、伏線の張り巡らしと回収、文章の全体の流れの図解を頭の中に想定して、もしくは紙に書き出してからその構想メモに従って実際に文章を書いている。すなわち、川喜田二郎が奨励の「発想法」における「図解から叙述化へ」のKJ法B型のようなことも執筆の時、すでに当たり前のようにやっているわけなのである。

だから、川喜田二郎「発想法」の表紙カバー裏解説にあるような、「独創的発想をうながす新技術として著効をうたわれるKJ法の実技と効用とを公開する。職場で書斎で、会議に調査に、欠かせぬ創造性開発のための必読書」云々の妙に変に力の入った紹介文も何だか読んでいて恥ずかしい思いがする。本書で川喜田二郎が提唱・奨励の「発想法」のKJ法など、私は本書を読むはるか前から早くも当たり前のようにやっていたし、川喜田の著書を未読であっても川喜田二郎「発想法」に書かれてあるKJ法のようなことは人々には既知であると思うので。

岩波新書の書評(513)ドイッチャー「ロシア革命五十年」

前回に引き続き今回も「ロシア革命」についての話である。

ヨーロッパ近代史を本質的に知るには、それぞれに各地域で起こった市民革命を中心に学ぶのが有効だ。西洋近代において、特に注目すべき革命はイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命に加えてのロシア革命の「三大革命プラス1」である。これら4つの市民革命の共通と相違とに留意しなから歴史を概観するとよい。

念のため「ロシア革命」の概要を確認しておくと、

「1917年にロシアで起こった三月革命(ロシア暦二月革命)と十一月革命(ロシア暦十月革命)のこと。特に史上初の社会主義革命である後者を指すこともある。第一次世界大戦中、ロシア社会の矛盾は一層深刻になった。外国資本は引きあげ、低い労働条件はさらに低下し、労働者は革命化した。また軍は拙劣な指導と劣悪な装備のため連敗し、兵士も革命化した。さらに戦争への農民・家畜の動員は農業生産を低下させ、輸送ルートは麻痺して、都会の食糧危機を招いた。1917年3月、首都の食糧危機が原因で革命がおこり、300年あまりに渡ったロマノフ朝の支配は終わった。その後成立した臨時政府はブルジョアジー側に立ってイギリス・フランスとの関係を重視し、戦争継続策をとったが、労・農・兵はパンと平和を求めてソヴィエトに結集し、二重権力の状態となった。ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先から帰国後、ソヴィエト内での勢力拡大に成功し、11月7日臨時政府を打倒し、社会主義政権を樹立した」

そもそも「騒擾・クーデター」は、人々の漠然とした不満が渦巻いて蜂起の無秩序の内に現体制が倒されたり、軍部やそれに類する政治組織が軍事的な非合法の権力奪取にて現政権を倒して取って代わる混乱である。他方「革命」とは、確固たる新たな政治体制や社会観をもって現政権を打倒した革命勢力による新秩序(政体や憲法や経済体制ら)構築のための権力体制や組織構造に関する根本的な社会変革のことである。騒擾・クーデターの単なる無秩序の混乱とは異なり、革命には一時的な混乱があっても後の新たな秩序形成を必ず伴う。何となれば、「革命(レボリューション)」の原義は「回転する」であり、これは天文学での天体の回転運動に由来する用語だからである。天文学にて天体の回転は時間経過で様々な位相を示すけれども、常に一定の秩序立てた星座構成を維持しながら、周期を巡りやがては元に戻る。天文用語に由来する「革命」概念は、天文学での天体の規則正しい回転のように、抜本的社会変革を経て後に新秩序形成に至り、世界史が新たに転回(展開)するイメージであるのだ。

ゆえに転回する世界史の革命には、従前のやがては打破される旧体制と、後に新たにそれに取って代わる革命勢力との間に明確な対照の対立点が存在し、その対立点をいわば「革命論点」として革命が進行するのが常である。そうした「旧体制と革命新勢力との間での相違、何をめぐって対立し遂には革命にまで至るのか」の革命論点について西洋近代の市民革命、「三大革命プラス1」に関し、それぞれ以下のようにまとめることができよう。

☆イギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)は、旧体制の絶対主義(イギリス国教会)と、新体制の国王権力制限の立憲君主制(英国カルヴァン派の清教徒)との間での政体の問題。☆アメリカ独立革命は、本国イギリスの立憲君主制と、独立を果たそうとする新興国アメリカの王権否定の共和制との間での政体の問題。☆フランス革命は、前半の革命勃発・七月革命は旧体制の絶対主義(ブルボン王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の二月革命・パリコミューンは、革命時の一大勢力たる共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。☆ロシア革命は、前半の三月革命は旧体制の絶対主義(ロマノフ王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の十一月革命は、革命時の臨時政府の共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。

近代の革命にて、国王専制の絶対主義から制定憲法により国王の権力制限の立憲君主制への移行、ないしは国王専制の絶対主義から王権廃止の共和制への移行の革命は、主な担い手が新興の市民階級(ブルジョワジー)だったことから市民革命(ブルジョワ革命)という。市民革命では前近代の封建的身分制が廃止され、個人の自由を保障する社会の形成がめざされた。続く市民革命後の資本主義から資本主義否定の社会主義への移行の革命は、主な担い手が労働者階級(プロレタリアート)だったことから社会主義革命(プロレタリア革命)という。社会主義革命では近代の私有財産制(資本主義)が否定され、生産手段の公有化による経済上平等な社会(社会主義)の形成がめざされた。

イギリス革命からロシア革命までの「三大革命プラス1」にて、フランス革命は画期であった。フランス革命以前のイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)とアメリカ独立革命では、革命論点は絶対主義から立憲君主制ないしは共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)の単一論点だけだった。ところがフランス革命以後、革命は一つの論点で終わらずに、絶対主義から共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)に加えて、資本主義から資本主義否定の社会主義へ移行の経済の問題(プロレタリア革命)の二つの論点を含む複合革命となっている。

フランス革命以後の世界において、市民革命にて達成された、前近代の封建制を脱しての個人の「自由」保障だけでは不十分になっていた。革命が呼び寄せる世界史の新たな時代の転回は近代の資本主義社会も脱して、遂には人々の貧困の生活苦、「平等」保障の経済格差の問題にまで踏み込まなければならないのであり、そこに市民革命を経ての更なる社会主義革命勃発の世界史の必然があった。フランス革命での七月革命と二月革命、ロシア革命での三月革命と十一月革命というように、革命論点は単一の市民革命(ブルジョワ革命)のみで終了せず、必ず市民革命の後に社会主義革命(プロレタリア革命)を連続して伴うニつの論点の複合革命(ブルジョワ革命+プロレタリア革命)の様相であったのだ。この意味で「三大革命プラス1」の中で、確かにフランス革命は一大画期だった。

さて、史上初の社会主義革命であるロシア革命を成就させた革命指導者のウラジーミル・レーニンは労働者階級(プロレタリアート)の共産主義者であったため、十一月革命以前は三月革命を経て成立したロシア本国の臨時政府(ブルジョワ政権)からの弾圧を逃れてスイスに亡命していた。その時、ケレンスキーが首相の臨時政府のロシア共和国は、第一次世界大戦に参戦しドイツと戦争していた。そこで交戦国のドイツはスイスに亡命中のレーニンに封印列車(レーニンら革命家にドイツ通過中は列車外との接触を禁じるという条件で乗車させた特別列車)を提供しロシアに帰国させる。ブルジョワ政権の臨時政府への対抗で、レーニンのボリシェヴィキら共産主義者を支援しプロレタリア革命運動を焚き付けて目下、交戦国であるロシアの内部崩壊を狙ったのである。

そうしてロシアに帰国したレーニンは武装蜂起し、遂には臨時政府を倒してソヴィエト政権を成立させる(十一月革命)。臨時政府のロシア共和国に取って代わった社会主義政権のソ連は、自国にかなり不利な条件のもと即時講和の戦争離脱の方針(「平和に関する布告」)を打ち出し、また他地域でのプロレタリア革命勃発の連鎖を恐れる欧米各国による、社会主義国・ソヴィエトに対する厳しい包囲網たる反革命の対ソ干渉戦争を招いて、ドイツの当初の思惑通りソヴィエトは一時的に弱体化した。

戦争で敵国に勝つためには、戦場にて直接的に軍事力で相手を圧倒する以外に、交戦相手の政府に敵対する反政府勢力を秘密裏に支援して、戦時に政権交代の革命やクーデターを促すことで敵国を内部崩壊させ間接的に結果、戦勝を得るやり方もある。これは効率的な謀略であり、極めて高度な政治的裏工作である。レーニンによる史上初の社会主義革命であるロシア革命の成就には、こうした当時の交戦国・ドイツからする謀略の後押しもあったのである。

岩波新書の書評(512)クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」

「季節と読書」の関係で言うと毎年、夏の暑い盛りの八月になると、太平洋戦争ら先の日本の戦争についての書籍をなぜか読みたくなる。これは私が紛(まぎ)れもない日本人であるからに相違ない。同様に冬の寒い季節になると、今度はロシア革命に関する書籍を決まって無性に読みたくなるのであった。これには社会主義革命であるロシア革命の運動理論であり、その思想的原動力となったマルクス・レーニン主義に私が一目置き、昔から熱中していたことによる。ただし私は昔も今もこれまでに一度も日本共産党に入党したことはないし、自分が共産主義者だと思ったこともないのだが。

寒い冬の季節にロシア革命についての書物を手に取り読むと、極寒ロシアで当時に革命に関わった人たちのことに思いを馳(は)せ思いが募(つの)り、読んで胸が熱くなる。極寒の厳しい環境の中で生活の困窮から人々が立ち上がり、その流れが社会主義革命の一大潮流にまでなって遂には既存の政治体制打倒の刷新に至り、世界史が大きく転回する。厳しい寒冷気候地域で勃発した史上初の社会主義革命であるというのが、ロシア革命の絶妙な味である。気候的寒さに共産主義志向の社会主義革命はよく似合う。

ここで「ロシア革命」の概要を軽く確認しておこう。

「1917年にロシアで起こった三月革命(ロシア暦二月革命)と十一月革命(ロシア暦十月革命)のこと。特に史上初の社会主義革命である後者を指すこともある。第一次世界大戦中、ロシア社会の矛盾は一層深刻になった。外国資本は引きあげ、低い労働条件はさらに低下し、労働者は革命化した。また軍は拙劣な指導と劣悪な装備のため連敗し、兵士も革命化した。さらに戦争への農民・家畜の動員は農業生産を低下させ、輸送ルートは麻痺して、都会の食糧危機を招いた。1917年3月、首都の食糧危機が原因で革命がおこり、300年あまりに渡ったロマノフ朝の支配は終わった。その後成立した臨時政府はブルジョアジー側に立ってイギリス・フランスとの関係を重視し、戦争継続策をとったが、労・農・兵はパンと平和を求めてソヴィエトに結集し、二重権力の状態となった。ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先から帰国後、ソヴィエト内での勢力拡大に成功し、11月7日臨時政府を打倒し、社会主義政権を樹立した」

ロシア革命を概説した書籍は昔から数多くある。図版・イラスト豊富な初学者向けの易しい入門書から、箱入り重厚な専門研究書までロシア革命に関する書物は実に様々にある。ジョン・リード「世界を揺るがした十日間」(1919年)、トロツキー「ロシア革命史」全5巻(日本語版、2000年)、E・H・カー「ロシア革命」(1979年)などは、やはり必読で定番の古典であろう。岩波新書でいえば、クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」(1955年)やドイッチャー「ロシア革命五十年」(1967年)らの新書があった。特にクリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」は古いものだが、ゆえに最新のロシア革命研究の成果は盛り込まれてはいないけれど、革命指導者であるレーニンに焦点を定め、「革命のまえ」「革命」「革命のあと」の三部構成でレーニンを中心にロシア革命を初学者向けに簡潔に概説していて、本書は名作であると思う。現在でも十分に読まれる価値がある。

またレーニンの著作「帝国主義論」(1916年)、彼が生涯に渡り書き留めたマルクスについての文章を集成した岩波文庫のレーニン「カール・マルクス」(1971年)も古典の名著であり、その理論的精密さは今でも無心に読まれるべきものがある。

レーニンを始めスターリンや毛沢東ら共産主義者で社会主義革命をなした政治指導者は革命後の政治も含めて、同志間での権力闘争や一党独裁、自身への個人崇拝強要や人民に対する粛清弾圧ら実際に大いに問題もあるけれど、彼ら共産主義者はマルクスの文献を読み込んで政治的実践に臨んでおり、文献を読めるし理論考察もできる知識蓄積と理論研鑽(けんさん)とで相当に鍛えられた、俗に言う「勉強ができて頭が良い秀才」な人達であった。事実、レーニンや毛沢東はマルクス主義の文献を読んで、政治・経済の表面的なものにとどまらない、弁証法的唯物論の物事の道理に関する深い洞察を有していた。彼らは、単なる権力奪取で自身が権力者としてありたい私的欲望の動機のみで動いていたわけでは決してない。

共産主義者が志向する社会主義革命には、前近代の封建的専制に対する批判と、近代の資本主義国の帝国主義的振る舞いに対する理論闘争の明確な批判意識の「革命の大義(正当性)」があった。史上初の社会主義革命であるロシア革命において、革命の理論的正当性は、例えば「平和に関する布告」(1917年)、ブレスト=リトフスク条約(1918年)に見られる「無併合・無賠償・民族自決」という第一次世界大戦でのソヴィエト独自の戦争終結方式の原則のうちに見事に集約されていた。欧米各国の資本主義の帝国主義が戦勝によりアジア・アフリカら第三国を併合し賠償請求して各地域の民族自決を否定し次々に植民地化して覇権を広げていく動きの完全な逆を行って、「無併合・無賠償・民族自決」の原則を掲げ、それら帝国主義的な資本主義国と対抗することでレーニンが指導の社会主義国のソ連は自らを鍛え上げ、ロシア革命の理論的正当性を保持したのであった。第一次大戦下でレーニン指導のソ連は、「無併合・無賠償・民族自決」といった誰もが公然と否定できない国際人道上の正義の看板を味方につけていた。

これら「平和に関する布告」、ブレスト=リトフスク条約に象徴的に見られるロシア革命時のレーニンによる帝国主義戦争に対する批判(「平和に関する布告」)といった自らに理論的正当性を引き寄せる国際政治姿勢の戦略は、現実に当時のソ連が北欧や東欧らの第三国に対し「無併合・無賠償・民族自決」の他国尊重の「平和」の正義で誠実に処したかどうかは別にして、たとえそれが建前上のポーズであったとしても実に見事だという他ない。ロシア革命をなしたウラジーミル・レーニンは確かに「理論的には」正しかったのだ。

最後に岩波新書の青、クリストファー・ヒル「レーニンとロシヤ革命」の帯にある文章を載せておく。

「ロシヤ革命の影響は年をへるごとに世界的にひろまり、現在世界の三分の一では社会主義が現実となっている。いかなる人もこの事実に眼を掩(おお)うことはできないであろう。本書はなんら予備知識をもたない読者を対象に、レーニンの活動と思想の発展のあとを辿(たど)り、彼の生涯の事業であった革命の本質と成果を解明する。著者はイギリスの著名な歴史学者」