アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(481)井波律子「論語入門」(儒教を考える その2)

儒教は、古代中国の孔子(前551頃─前479年)を祖として、その孔子の教えを継承し発展させた思想・学派の総称である。孔子は、春秋戦国時代末期の魯(ろ)の曲阜(きょくふ・山東省)の人で周の政治を理想とし、魯の国政改革に参加したが失敗して諸国を巡歴した。後に帰郷して古典の整理や弟子の教育に専念した。孔子の死後、弟子たちが編纂(へんさん)した孔子と弟子との言行録が「論語」である。「論語」は、儒教の四つの根本教典である「四書」(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の内の一つとされる。

儒教の教典である「論語」に関し、私はいつも思い出すことがある。昔、私は大学に籍を置いて京都や大阪の関西圏のいくつかの高校に教員として教えに行っていたことがあった。その中のある中高一貫の私立高は創業者一族の父子が校長と副校長とを務めていて、千人以上の全校生徒を毎朝、校庭に集めて朝礼をやる。毎日必ずやる。全教員も参加である。そこで校長は毎日、講話をする。決まって校長が毎日、講話をやるので、さすがに話の内容(ネタ)も尽きて以前に聞いたような講話も繰り返し循環で出てくる。その限られた話のパターンの中で相当な割合で連日、孔子の「論語」の話が頻繁に語られていた。「論語」に書かれてあるような儒教道徳に則(のっと)り、「若い学生諸君は、指導してくれる当校の教師や学校に通わせてくれている親に感謝の気持ちを持って日々、精進し学業とスポーツに邁進しなければならない。周りの人への感謝の気持ちを決してを忘れないように」というようなことを。後述するように、私は当時から孔子が創始した儒教思想全般に半信半疑の醒(さ)めた気持ちで相対的に時に批判的に読み、儒教に関する大概の事は知っていたので毎朝、朝礼に立ち会い校長の講話を聞きながら、「あーまた孔子の『論語』の話か…」と内心思ったものである。もちろん、こうした自身の本音は決して口外しないし、「もう校長の『論語』の話はウンザリだ」の表情や言動は周りに気付かれないよう相当に気遣って自分の肚(はら)の中だけに隠し、慎重を期していたのである。そうしないと学校内での自分の立場が危うくなるから(苦笑)。

(※ある特定の一族が所有・主催している組織(企業や会合や派閥やサークルなど)に非縁故者であるけれども属さなくてはいけない場合、明らかな反社会的行為(犯罪、法令違反など)や、あからさまな非人道的行為(ハラスメントやいじめなど)以外のこと(人事決定や日々の作業形式や伝統ルーティンなど)では、いたずらに逆らわず自分の我(エゴ)を出さずに無難に務めるのが賢明である)

当時から私は、例えばヴェーバー「儒教と道教」(1915年)などが好きだったのである。ゆえに孔子が創始の儒教ならびに孔子と弟子たちの言行録である「論語」についても、その問題点を即(すぐ)に指摘できた。例えば以下のように。

☆儒教道徳の基本は「五倫五常」であり、「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の人倫の「道」をまっとうすべきことを説いて、ことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いるもので、ここから「五倫五常」を人倫の基本とする儒教の教義は、厳しい身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」として以前に機能していた。☆封建時代を脱した現代においても、儒教道徳が説く人倫がそのまま素朴に集団組織に適用された場合、家庭での親からの子に対する「しつけ」と称した暴力・精神的抑圧や、企業での上司からするパワハラ圧力、社会全体にはびこる男尊女卑(女性蔑視)の風潮、学校での教師や先輩ら年長者からする「矯正・シゴキ」の教育的制裁(指導的暴力)の正当化の蔓延につながる。

☆為政者における「徳」の道徳性の重視で、政治をことごとく道徳に還元させる「徳治主義」を内実とする儒教は、法律制度ら外部からの公的な客観的規範の強制がないため、道徳的人格の完成者であるべき為政者、つまりは「君子」の私性の道徳的素養にもっぱら依拠し、恣意的な曖昧(あいまい)解釈に基づく「徳」を名目とした「私」の不当な利益享受のむさぼりや私的独占の強引な政敵排斥の独裁政治の名目として、かの「徳治主義」は時に使われてしまう。結果、儒教による政治は「仁政安民」への配慮ら公的政治意識の欠如にて、為政者個人(とその一族やシンパ)の私的政治への腐敗・堕落を招きやすい。☆もともと孔子が標榜する有徳者たる「君子」は、当人の生まれの血統・出自や生育環境による先天的な要素が大きいため(人間の人徳形成には当人の個人努力の要素は比較的少ない)、特定一族の礼賛、その一族での個人の徳性を考慮せずしての為政者世襲の黙認、「君子」個人への非合理な熱狂的崇拝・心酔に傾きやすい。

☆儒教道徳の「五倫五常」は、「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の人倫の「道」をまっとうすべきことを説き、ことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いて、厳しい身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」として現実には機能するため、父子・君臣・夫婦・長幼の各関係にて、内心では相手に親愛の情や尊敬の念は何もないのに、表面的・儀礼的に目上の上位者に対し恭順にわざとらしく振る舞う偽善・堕落が、社会の人間交際に蔓延する。☆儒教倫理は上位者への恭順・服従を暗に広く強力に説くため、各自が主体的に考えて行動する近代的主体の形成を阻害する。結果、人々の間に「無気力・卑屈の気風」の無責任の精神が広がる。またこうした儒教道徳では人間個人に関する権利保障の観念(人権意識)が希薄なため、儒教道徳の奨励は前近代な封建的人間関係を保持したままで、社会・文化の停滞を招く。

以上のような儒教に関する問題点の批判的認識を当時より持っていたので、儒教の創始者である孔子に傾倒していたり、儒教の根本教典である「四書」の内の一つとされる「論語」を愛読し儒教道徳に依拠して、年上の師・先輩への「忠」や親に対し「孝」の敬(うやま)いの気持ちを尽くすことを社会儀礼の「礼」と見なして強く勧め、その恭順姿勢の遵守を人の「道」として説教臭く熱心に人前で語りたがる人たちを内心、私は馬鹿にしていたのである。もちろん、決して相手や周囲の人には気付かれないように。

近年でも孔子と「論語」は人気だ。その支持者と愛読者は多いようである。だが、私は昔から孔子と弟子たちとの言行録である「論語」を読んで、いつも次のような不信の不満を感じていた。すなわち、

「孔子は、春秋戦国時代末期の魯(ろ)の国の出身で、長い苦学の末に52歳でやっと魯の官吏となり、その知識と実力を認められて魯の国政に参加した。しかし、政治改革をめぐる政争に敗北して56歳の時に魯を去り、以後14年間、弟子とともに諸国を遊説し、自身の理想政治(徳治主義!)を説くが、結局はどの国にも採用されず仕官の願いは叶(かな)うことなく、晩年は魯に帰り弟子の教育に専念して74歳で亡くなった。孔子は遂に自分の意を遂げることなく、志半(こころざし・なか)ばにして人生を終えた人であった。

そうした孔子の激動の不幸な経歴からして孔子は、自身が唱える政治の理想や諸政策に興味を示し、その趣旨に賛同したり、孔子を自分の国の国政に迎え入れようと尽力した諸侯・官人に対しては、『徳』を身につけ道徳的人格を完成させた『君子』に近い見どころある人物として時に肯定的に評するが、他方、自身の徳治主義の理想政治を何ら理解せず、孔子ら一同に『礼』を尽くさず招聘(しょうへい)しようとしない各国諸侯に対しては、目先の利益のみを求める取るに足らない『小人』として否定的に断じて切り捨てる。孔子においては、他者からの自身への評価によって自身からの他者への人物評価を切り替える傾向が強い。

そして、師の孔子と同行して各国へ仕官志願の遍歴を重ねた弟子たちも、彼らの間で師の孔子に気に入られ、孔子よりの好人物評価を得て、師である孔子から一目置かれる人物になることを暗に願い互いに競うような、孔子への忠誠競争の序列争いに弟子の各人が腐心している『閉鎖的小集団内での忠誠・序列競争の気の毒な話』にも『論語』は読める。そうしたことが『論語』を読むと私にはいつも感じられて案外、馬鹿らしい気持ちになる。『論語』における孔子と弟子たちとのやり取りが『美しい師弟間の人倫』には、どう読んでも思えない」

以上に尽きる。

さて岩波新書の赤、井波律子「論語入門」(2012年)である。本書の帯には「誰しも元気がわいてくる・孔子の稀有の魅力にふれる」と書いてある。また本新書の「序」には、

「本書は、つごう五百有余条の『論語』から、百四十六条を選びだし、各条を『孔子の人となり』『考えかたの原点』『弟子たちとの交わり』『孔子の素顔』の四章に分類・収録するという構成をとっている。『論語』にみえる孔子自身の発言を中心に、おりにつけ弟子たちの発言をまじえながら、孔子の生きかた、考えかた、弟子たちとの交わりかた、溌剌とした感情表現等々を、具体的にたどることによって、孔子という人物の大いなるイメージを浮き彫りにしようとする、一つの試みである。この試みによって、孔子を中核とする大古典『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力を、いささかなりとも、いきいきとした形で『今、ここに』とらえかえすことができれば、これにまさる喜びはない」

とある。「孔子を中核とする大古典『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力を」と著者は意気込んでいるが、私からすれば「『論語』の無類の面白さ、稀有の魅力」を期待して本書ならびに孔子の「論語」を直に読んでみても、話半分である。私には、ほとんど「元気がわいて」こない(苦笑)。

ただ岩波新書の井波律子「論語入門」には、著者により厳選された「論語」の文章が必ず「白文と書き下し文と現代語訳」の三点セットで丁寧に掲載されており、漢文学習の文章読解のための格好の練習教材として「論語」は読むのに適している、といった程度である。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローの岩波新書の書評」(※これまでに書き溜めてきた書評記事の厳選集成であり、以前に別の場所でやっていたブログをそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「岩波新書の書評」は全7カテゴリーよりなります。「政治・法律」「経済・社会」「哲学・思想・心理」「世界史・日本史」「文学・芸術」「記録・随筆」「理・医・科学」です。

お探しの記事やお目当ての新書・著者は、本ブログ内の検索にて入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

最後に。大江健三郎による1960年代の最初の全エッセイ集「厳粛な綱渡り」(1965年)初版の単行本は二段組で全500ページほど。大江の1960年代の思想と文学と行動と生活がこの一冊にびっしり細かに丁寧に書き込まれている。評論・書評・ルポルタージュ、講演・インタビュー、広告文・コラム、日記・雑記…内容は多彩である。「何でもあり」なバラエティブックの様相である。書籍自体も辞書のようで非常に厚くて重い。私は本書を日々携帯し繰り返しよく読んでいたのだが、本書の書き出しは「この本全体のための最初のノート」であった。全六部を経ての巻末は、もちろん「この本全体のための最後のノート」である。大江健三郎「厳粛な綱渡り」全エッセイ集は私にとって昔から非常に感じのよい、もはや手離すことの出来ない極上書籍で愛読の内の一冊だ。大江健三郎には全くもって及ばないが、私も「このブログ全体のための最後のノート」記事をいつの日か書くだろうか。岩波新書に愛を込めて。(2021・4・1)

いちばんはじめの書評をめぐるコラム

私は若い頃から「図書新聞」をよく購読し、昔から書評やブックレビューの読みものを楽しんで読んでいた。私は自分で書評ブログを始める際、これまで他人の書評を日常的に読み、かつ研究した結果、自身に課したことがいくつかあった。

(1)自分の身辺雑記や個人情報は書き込まず、最初から書籍の話題にすぐに入り、できるだけ書籍のことについてだけ書く。(2)後々まで読まれることを想定して、時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにする。(3)書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく、「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような、横着な読者に便宜を供する都合のよい「書評もどき」の記事は書かない。(4)書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよい。点数をつけて採点したり、毎回、必ず評価を確定させなくてもよい。ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」掘り下げて説明するようにする。

(1)に関しては、最近はインターネット環境の普及で皆が「書評ブログ」をよく書くようになった。書き出しから書評本と自身の出会いのエピソード紹介(「本当はその分野の本には全く興味がなかったのに学生時代、恩師に薦められてつい」)とか、その書物をどういう状況で読んだか(「帰宅途中の電車で読んでいたら面白すぎて没頭してしまい、降りる駅をやり過ごして終点駅まで行ってしまった」)だとかの身辺雑記や個人情報を「枕の文章」として最初に熱心に長々と語る人がいるけれど、そうして「自分語り」だけ熱くやって書物のことにあまり触れないで、そのまま終わる「自分大好き」な困った人が時にいるけれども(笑)、そういうのは必要のない余計な情報だ。

普遍的な人生の真理として、「私が自分の生活や人生に関心があり大切に思っているほどには、実は他人は私の生活や人生に関心や興味はない。皆が自分のことだけ大事で案外、他人のことには無関心でどうでもよいと思っている」。だから、世間の皆がその人の私的なことまで知りたいと思っている芸能人や著名人ら余程の人気者とか有名人でない限り、一般の人は自身の身辺雑記や個人情報は語らずに最初から「即(すぐ)」でスムーズに書籍の内容記述に入って、書評の内容だけで終わらせるのがよい。

(2)については、例えば1990年代当時に「オウム真理教」の話題が世間を騒がせ人々の耳目を集めたが、時事論やニュース解説の文章でない場合に、あえて例えの説明に「オウム事件」云々を書き入れてしまうと、当時は時宜を得て(タイムリーで)新鮮でよいけれど、後に時間が経って2020年代に読むと、その書籍にはいかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。だから、自分の文章が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにした方がよい。

(3)の、書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく「書評」は今日、ネット上で確かに人気がある。おそらく、そうした方が確実にアクセス数も増えるに違いない。しかし、それは「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような(昨今は、こうしたことを期待する怠け者の横柄な人が本当に多い)横着な読者に便宜を供する都合のよい記事で、読み手を甘やかす堕落の「書評もどき」なので私は感心しない。

(4)のように、書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよいけれど、ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」を掘り下げて説明するようにしたほうがよい。ただ単に「これは絶対に読むべき名著だ」と激賞したり、逆に「この本は読むだけ時間の無駄」と酷評して採点するだけの、そのまま言いたい放題の放り投げで終わる短文書評を特に「アマゾン(Amazon)」のブックレビューでよく見かけるが、毎度読んで「あれは良くない」の悪印象が私には残る。

岩波新書の書評(480)武内義雄「儒教の精神」(儒教を考える その1)

1938年に創刊され、その初期配本として戦前に刊行された旧赤版の岩波新書の中で、すでに百年近く経た今日の2020年代以降でもいまだ増刷され続け、多くの読者に広く長く読まれている新書がある。例えば、旧赤版の斎藤茂吉「万葉秀歌」上下(1938年)や、同じく旧赤版の鈴木大拙「禅と日本文化」(1940年)などだ。

今回の「岩波新書の書評」で取り上げるのも、同じく戦前発行の岩波新書の旧赤版で、こちらの新書はあまり世間的に有名ではないかもしれないが、私は日々愛読し、昔から良書であり名著だと強く思えるのである。岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」(1939年)である。

本書は「儒教の精神」を明らかにするに当たり、周到な二部構成になっている。前半は、孔子が創始の儒教について、成立時の古代中国の春秋時代から宋代の朱子学と陽明学の展開に至るまでの中国の儒教の歴史を概観している。後半は、中国で成立した儒教が後に日本に伝わり、特に近世の江戸時代に幅広く展開した「日本の儒教」の各学派(朱子学、陽明学、古学)の歴史を概説する内容となっている。いうまでもなく「儒教」は古代中国の思想家である孔子の教えを継承し、発展させた思想学派の総称である。この儒教が後に学問的に体系化されて、儒教は「儒学」にもなった。

岩波新書「儒教の精神」は戦時の1939年に発行され当時、日本は中国と日中戦争(1937─45年)の最中であったから交戦国たる中国由来の思想である儒教に対し、「憎むべき敵国・中国の伝統思想」とか「近代化がいまだ果たされざるアジア諸国が停滞の主な要因」などと、戦時の日本人である著者の武内義雄から否定的に論じられているのかと思いきや、本新書を一読して誠に公平で、「儒教概論」のテキストとして今日でも十分に通用するであろう極めて適切な学術的記述だったので以前に初読の際、私は非常に驚いて痛く感動した思い出がある。この点は武内義雄と同時代人、例えば津田左右吉の、儒教を始めとした中国思想全般に対し戦時に痛烈な全面否定を展開させていた、かの「明治人に特有な脱亜的ナショナリズム」といわれるような当時の日本の知識人の一般的態度と比べて、武内義雄の中国の儒教思想に対する正当評価の公平な姿勢に大いに感心してもらいたい。

岩波新書「儒教の精神」の前半部分に当たる「支那(中国)儒教を論じた部分」は、本書内での著者の言によれば、以前に「岩波講座世界思潮」(1928年)のために「儒教思潮」と題して寄稿したものであった。ゆえに岩波新書「儒教の精神」は現在読み返しても、その考察内容は学術的に信頼できて有用である。だからこそ、武内義雄「儒教の精神」は、今の人にはあまり広く知られてはいない戦時の昔の岩波新書であるけれど、今日でも読まれるべき揺るぎない良書の名著と私には強く思えるのだ。

以下では、武内義雄「儒教の精神」にも一通り書かれてはいるが、本書を読む際の儒教に関する初歩の基本的な事柄を取り急ぎ簡略に示すことで、岩波新書「儒教の精神」への導入、ないしは儒教思想一般への紹介(イントロ)としたい。未読な方には、岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」を実際に手に取り、是非とも読んで頂きたい。

「儒教の精神」における「儒教」とは、古代中国の「孔子」を祖とし、その孔子の教えを継承し発展させた思想・学派の総称である。

儒教─孔子を祖として、「徳治主義」(為政者みずからが道徳の修養を積んで徳を身につけ、それを周りに及ぼして人民を道徳的に感化することで国家を統治する考え。徳を身につけ道徳的な人格を完成させた、人民を治めるにふさわしい者を「君子」、また目先の利益のみを求める者は「小人」とされる)の立場をとる。孔子は人と人とを結ぶ親愛の情を「仁」と呼び、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれたものが「礼」(礼儀作法や社会規範)であると考えた。そして、権力による強制・抑圧に基づく政治の法治主義を否定し、「仁」の徳によって人民の心を感化し、「礼」によって人々の行動を整える「徳治主義」を説いた。

孔子の死後、その教えは孟子や荀子らによって継承された。特に孟子は儒教において、開祖の孔子に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名で「孔孟の教え」ともいわれる。孟子はさらに「五倫」を説いた。五倫は儒教における五つの道徳法則である。「親・義・別・序・信」の五つの徳を指し、それぞれの徳目に対応した五つの具体的人間関係(人倫)が社会の基礎を形成するとされる。すなわち、「父子の親(親愛の情)、君臣の義(主君と臣下の礼儀)、夫婦の別(男女のけじめ)、兄弟の序(長幼の順序)、朋友の信(友の信頼)」の五つの人倫である。

また後に儒学者の董仲舒が、孟子の説いた「四徳」(仁・義・礼・智)に「信」の徳目を加えて、「五常」とした。五常とは「仁・義・礼・智・信」の五つの徳目であり、個人が修養を通じて備えるべき基本的な徳とされる。「五常」の徳性を拡充することによって、「父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友」の人倫の道をまっとうすべきとされる。以後、「五倫五常」は儒教道徳の基本とされた。儒教は後の前漢時代に官学とされて以降、歴代王朝の専制体制を支える正統教義となった。

孔子─儒家の祖。春秋戦国時代末期の魯(ろ)の曲阜(きょくふ・山東省)の人(前551頃─前479年)。周の政治を理想とし、魯の国政改革に参加したが失敗して諸国を巡歴した。後に帰郷して古典の整理や弟子の教育に専念。家族道徳の実践から「仁」の完成を目指す。「修身・斉家・治国・平天下」の道は、後に儒教の道徳政治の理念として定式化された。孔子の死後、弟子たちが編纂(へんさん)した孔子と弟子との言行録が「論語」である。「論語」は、儒教の四つの根本教典である「四書」(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の内の一つとされる。

さて、ここで儒教における「五倫五常」のそれぞれの五つの徳目から、実際に遵守することを厳しく要請される人間社会を規定する具体的人倫の五つを改めて確認してもらいたい。

「父子の親(親愛の情)、君臣の義(主君と臣下の礼儀)、夫婦の別(男女のけじめ)、兄弟の序(長幼の順序)、朋友の信(友の信頼)」

である。最後の「朋友」を除いて、その他の人倫が「父子・君臣・夫婦・兄弟」でことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いるものである。ここから「五倫五常」を人倫の基本道徳とする儒教の教義は、厳格な身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」となった。

孔子の創始で古代中国由来の儒教が後に日本に伝わり、近世江戸の幕藩体制下にて、「君臣の義」(主君に対する臣下の忠義)と「父子の親」(親の恩に対する子の孝行)を中心に説く儒教(朱子学)が、正統学問の「封建教学」として徳川幕府から重宝され儒教が時代の隆盛を極めるのは、このためである。林羅山ら江戸時代の儒学(朱子学)者により、君臣上下の関係は「上下定分の理」として封建社会下での固定的身分秩序の正当化がなされた。そうして儒教は徳川幕府の江戸時代を過ぎても明治期の近代天皇制国家にて、かの「五倫五常」の中の「君臣の義」「父子の親」は「忠」と「孝」の徳目に巧妙にそれぞれ言い換えられて、いわゆる「儒教主義」として、軍人勅諭と教育勅語の「絶対主義イデオロギー」の支柱ともなった。戦前の近代日本の軍人や日本の国民一般は、主君たる天皇に対し「忠」の徳目を尽くすべき「臣下」であり「臣民」の家臣なのであって、かつ家長である天皇を擬似的な親と見なして「孝」の徳目を以て天皇に報ずべき「赤子」の子であった。

しかしながら、孔子を祖とする儒教の成立から後の時代的展開を概観して、そもそもの開祖である孔子による儒教の本来性を見れば、孔子において儒教の基本徳目はどこまでも「仁」なのであって、孔子は人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」の徳目を最重要視したのであった。この対等に人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」が何よりも最初にあって、その「仁」の徳目から自然ににじみ出るものが、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれた「礼」(礼儀作法や社会規範)である。この「礼」から、「君臣の義(主君と臣下の礼儀)や夫婦の別(男女のけじめ)や兄弟の序(長幼の順序)」らの人倫が副次的に自然と生じ、成立するのであった。

孔子は儒教成立以前の中国の伝統思想にて、「仁」に該当するような何ら心からの親愛の気持ちもないのに、中身は空っぽで、しかし表面的にはあたかも手厚く礼を尽くし儀礼に即して恭(うやうや)しく応対したり、自身や祖先に対し、いかにもな恭順な態度で形式的な礼のみを尽くすのを他人に強要することの偽善の不毛を身をもって知っていたのである。

今日まで一般に広く信じられており、また現実に深く機能していた、「仁」が看過され欠落して「忠」と「孝」の徳目が異常なまでに拡大解釈されている「封建制イデオロギー」として後に機能した儒教一般に対し、開祖である孔子の儒教の本来性に今一度立ち返って古代中国から近代日本に至るまでの儒教の歴史を批判的、問題史的に捉え直して頂きたい。このことを岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」を始めとして、儒教に関する書籍を読む際には是非とも確認してもらいたい。 

そもそもの孔子が創始の儒教の基本徳目は「忠」や「孝」ではなくて、「仁」である。

岩波新書の書評(479)ロビンス「組織行動のマネジメント」

(今回は岩波新書ではない、ロビンス「組織行動のマネジメント」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、ロビンス「組織行動のマネジメント」は岩波新書ではありません。)

昨今では行動経済学や管理経営学、組織行動学、行動心理学、組織心理学…らの研究書籍が流行して、例えばドラッカー「マネジメント」(日本語版、1974年)が、間歇(かんけつ)的に繰り返し時折ブームで世間の話題になったりしているけれども、この手の経営管理学の書籍は昔からあった。

そもそもの企業組織に属する個々人の適正能力・労働意欲(モチベーション)や組織への忠誠を高めたり、個人の反組織的行動を諌(いさ)めたり事前に防止したり、組織全体の生産性を向上させて企業の経営効率を高めたり、無用な派閥抗争や組織全体の倫理的腐敗・反社会的な逸脱行動を防いだりする、そのような目的での「経営管理学」の研究は、確かに早くからなされていた。この点については、いわゆる「科学的管理法(労働の科学とその管理)」を説いたテイラー(「テイラー・システム」の提唱=課業管理、作業の標準化、作業管理のための最適な組織形態))と、「管理原則の父」とされるファヨール(「経営管理」の定義=計画、組織、指揮、調整、統制の5つの要素)に、今日の経営管理学の礎(いしずえ)は求められると思う。テイラーもファヨールも20世紀初頭の人で1910年代に集中して経営管理の主要著作を出しており、そこから今日流行の労務管理を主とする経営管理学、組織行動学は本格的になされたのであった。こうした経営管理学ないしは組織行動学の成立は、特に1900年代に入ってからの資本主義の急激な発展・変化に伴い、多くの人々が会社組織に属し雇用され組織人として協調して効率的に働く(べき)労働形態にて、自身と家族の生活を成り立たしめる賃金労働者になった20世紀近代の社会状況に、実に見事なまでに対応していた。

私は経営学専攻ではないし、何ら専門的に学んでいないが、経営管理や組織行動学の書籍は人並み程度に読んで知ってはいる。この手の経営管理ないしは組織行動学の書籍が会社経営者や労務管理者の一部の人にとどまらず、それ以外の一般読者にも普及して広く読まれ出したのは、確かにドラッカー「マネジメント」の大ヒットの功績があったからに相違ない。何しろ現代の日本では会社経営者や労務管理者ではない、「高校野球の女子マネージャー」までもが「マネジメント」を読んで実践するほどのドラッカーの「マネジメント」ブームなのである(笑)。

そして先日、たまたまロビンス「新板・組織行動のマネジメント」(2009年)を読んだ。「マネジメント」(経営管理)と「組織行動」学の両域にまたがり、その全体を概説した書籍である。本書は「マネジメントと組織行動学の分野における世界一のベストセラー教科書」であり、「これまでの本の売上げは200万冊を超え、…アメリカ国内の1000以上の大学で教科書として採用され、世界各国でも使われている」という。以下、ロビンス「新板・組織行動のマネジメント」の目次を書き出してみると、

「第Ⅰ部・組織行動学への招待、第1章・組織行動学とは何か、第Ⅱ部・組織の中の個人、第2章・個人の行動の基礎、第3章・パーソナリティと感情、第4章・動機づけの基本的なコンセプト、第5章・動機づけ・コンセプトから応用へ、第6章・個人の意思決定、第Ⅲ部・組織の中の集団、第7章・集団行動の基礎、第8章・チームを理解する、第9章・コミニュケーション、第10章・リーダーシップと信頼の構築、第11章・力(パワー)と政治、第12章・コンフリクトと交渉、第Ⅳ部・組織のシステム、第13章・組織構造の基礎、第14章・組織文化、第15章・人材管理の考え方と方法、第16章・組織変革と組織開発」

全4部に渡る全16章を読んで、もう決定的であると思う。大学の経営学の講義にてテキスト(教科書)として広く世界各国で採用されていることからも明白なように、ロビンス「組織行動のマネジメント」は非常に優れている。冒頭の第1章での「組織行動学とは何か」の定義から始めて、以降の各章で「マネジメント」の経営管理学を基底に、心理学や社会学や人類学や政治学ら近接の学問の最新知見をその都度取り入れながら、「組織行動に関係する行動科学」の全容を明らかにしている。

日本の経営学専攻の人が、同じ大学講義用のテキストとして経営管理や組織経営に関する著作を上梓しているが(「行動分析学」「組織の行動学」「組織開発」などの言葉を用いた類似タイトルの書籍)、それら類書を読んでも、ロビンス「組織行動のマネジメント」ほどには手際(てぎわ)よく上手にまとめられているようには見受けられない。そのためロビンス「組織行動のマネジメント」の読後には、経営管理・組織経営の同じテーマの日本人による著作を何冊読んでみても、ロビンス「組織行動のマネジメント」の二番煎じ、再編集版、簡易の要約本のような悪印象が拭(ぬぐ)えない。

仮に経営学での単位認定の筆記の論述試験が近日中にあるとして、そこで「優」の高得点をもぎ取るくらいの強い心持ちで、本書「組織行動のマネジメント」をテキストとして読み返し内容理解を深めて、会社経営者や労務管理者は、日々の労働現場での健全な対人・組織マネジメントとして現実に活かすべきであるし、また一般労働者や労働運動の労組の執行部は、経営者と企業総務の心持ちや人事管理の常套手法を本書から読み取り学び知って、それ相当の日々の適切労働に努めるべきか。その辺りが本書の最適な読まれ方の使われ方であろう。

ロビンス「組織行動のマネジメント」を一読して大変参考になり、学ぶべき所は大いにあるが、その反面、私には若干の不満も正直残る。それは著者のロビンスの記述のあり方や個々の理論・考察に関する疑義ではなく、マネジメント(経営管理)と組織行動学という理論的研究そのものに対する限界性の指摘の全体的な批判である。最後にその要点を手短に挙げておく。以下、ロビンス「組織行動のマネジメント」を始めとして、マネジメント(経営管理)と組織行動学という理論考察全般に共通する問題である。

(1)全体に論述の進め方が分析羅列的の箇条書きで、平板図式的で表面的である。分析羅列的な箇条書きの一律解説なため考察内容に深まりがなく、単調機械的な説明の悪印象が残る。

例えば企業組織内の労働者個人の、労働作業への動機づけ(モチベーション)に関する理論が、「第4章・動機づけの基本的なコンセプト」に解説されている。そこで「マズローの欲求五段階論」や「マクレランドの欲求理論」がそれぞれの欲求項目別に羅列・説明されている。これは本書で展開される組織行動学や経営管理学だけの問題ではなく、それら学問のために借用してきた近接の心理学や社会行動学そのものの根本的問題でもあるのだが、仮に「マズローの欲求五段階論」の理論に依拠して、人間欲求の五つ(「自己実現的欲求」から「生理的欲求」まで)を淀(よど)みなく列挙でスラスラ言えたとしても、そのことを以て「人間行動の起動・持続の機構(動機=モチベーションのメカニズム)を解明できた」とか、遂には「人間とは何か」を本当に深く理解したということにはならない。

単に分解して列挙した機械的平面分析では、それら各項目要素の関係性や相互作用、それら部分から変容影響を受ける全体への還元作用まで掘り下げて明らかにした事には、決してならないからである。

(2)組織行動学という学問が、組織の中での個人の心理的操作・誘導に特定環境下で極めて実利的に使われる危険性がある。特に組織行動学や社会心理学の理論が、経営管理学(マネジメント)の企業組織に落とし込まれる時、それは会社経営者や労務管理者からする、会社組織のために個の労働者に犠牲を強いる「他者の操作」という反倫理的な問題を少なからず含む。これは昨今、同様に流行し大人気である「行動経済学」にも共通する問題といえる。

「マネジメント」を著したドラッカーを始め「組織行動のマネジメント」のロビンスも、その理論考察を経ての労働者への「労働の動機づけ強化」の応用実践の指南は、「個人が組織内で働くこと」に対する精神論的で根性論的な動機付けの提示、例えば自身の中での仕事遂行の達成感や、仕事を介しての自分自身の精神的な成長とか他者や社会への利他的貢献などを説いて、劣悪な労働環境下(低賃金、長時間、無理な達成目標の設定・遂行の強要、厳しい研修・指導など)でも個人に過酷な労働を強いる「やりがい搾取」や「パワハラまがい」と紙一重であるし、時にそれら企業の組織内暴力の正当化にも「組織行動のマネジメント」は機能する。少なくとも組織内の個の労働者が、そうした企業の組織的暴力に原理的に正面から抗(あらが)えない形での考察理論の提供に、今日の経営管理学は終始する傾向が多分にある。

これは元々、経営管理学が「どうすれば企業組織内での非生産的コンフリクト(統制されない対立)を回避し、組織全体の生産性を向上させ企業の経営効率をより高めることが出来るのか」という労務管理を行う側の経営者目線から発想され、その要請に応えるかたちで取り組みが始まった研究である事情に由来している。

岩波新書の書評(478)佐藤正午「小説の読み書き」

「昨今活躍の人気作家が、自身が昔に読んだ文学作品の名著を岩波書店の月刊誌『図書』にて毎月紹介していく書評連載企画を後にまとめた岩波新書」という点で、岩波新書の赤、佐藤正午「小説の読み書き」(2006年)は一読して、同岩波新書の柳広司「二度読んだ本を三度読む」(2019年)とその読み味は似ている。

柳広司は「黄金の灰」(2001年)でデビューし、後に「ジョーカー・ゲーム」(2008年)らのヒットを飛ばした人気作家である。岩波新書「二度読んだ本を三度読む」は、柳による岩波書店の月刊誌「図書」での2017年10月号から2019年2月号までの小説紹介の連載を後に一冊にまとめたものであった。同様に、佐藤正午は「永遠の2/1」(1984年)でデビューし、近年では岩波書店から「月の満ち欠け」(2017年)を出して、本作「月の満ち欠け」は映画化もされた(2022年)。岩波新書「小説の読み書き」は、その佐藤による岩波書店の月刊誌「図書」での2004年1月号から2005年12月号までの書評連載(「書く読書」)を一冊の新書にまとめたものだ。

ただし、佐藤正午「小説の読み書き」と柳広司「二度読んだ本を三度読む」は一読、両書の読み味は確かに似ているけれど、著者が目指すところの内容はそれぞれに多少異なっている。ここで二冊の岩波新書のタイトルをよく見較べて頂きたい。柳広司の「二度読んだ本を三度読む」は、題名の通り文学作品を「読む」ことだけに集中した書評連載だが、他方、佐藤正午の「小説の読み書き」は、文学作品の「読み」に加えて「書き」にも着目した日本近代文学の文章に特化した内容になっているのだ。岩波新書「小説の読み書き」の元の連載時の原題は「書く読書」であって、この連載で佐藤正午は小説を「読む」ことよりも、それがどのように書かれているか、「書き」の文章に内容を絞って考察した文章読本的な連載であった。

佐藤正午「小説の読み書き」は読んで正直、私には面白くなかったし、あまり感心もできなかった。このように書くと著者の佐藤に失礼かもしれないが、この人は小説家であり、プロの現役作家であるにもかかわらず、当人の日本語文法・修辞に関する元々の知識と力量のなさに加えて、そもそも毎月連載で短期間で一気に日本近代文学の各作品の文体・修辞に関する気付きや発見の理論を、しかも優れて読者を毎回感心させて唸(うな)らせるような傑作な文体書評を通常、人はそう簡単には連発できないものである。

佐藤正午「小説の読み書き」は、初回の川端康成「雪国」から始めて夏目漱石「こころ」や三島由紀夫「豊饒の海」らを経て、最終回の自作の佐藤正午「取り扱い注意」まで全24作品に関する文章論を展開させている。しかし中には、かなり怪しい文体分析や真面目に参照するに値しない、どうでもよくてつまらない瑣末(さまつ)な文章読本的な話の回も多く、読んで私にはかなり辛いのであった。

話が抽象的すぎる。ここで本新書の内容を詳しく述べると「ネタばれ」になってしまい著者の佐藤正午と本書担当の岩波新書編集者には申し訳ないが、全24回に渡り展開されている本書内での文章書評の中の一つだけ以下に詳しく紹介しよう。

「小説の読み書き」に林芙美子「放浪記」(1930年)を扱った回がある(79─91ページ)。そこで著者の佐藤正午は以下のような林芙美子の文章をして「(私はこの書き方が)気になって仕方がなかった、というよりも正しくは、気に障(さわ)って仕方がなかった…つまりその種の書き方に対して全否定的で、書き手たちに対して苛立(いらだ)っていた」と批判的に断ずる。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、いまは切ない私である」(林芙美子「放浪記」)

林芙美子「放浪記」作中でのこの文章に対し、佐藤正午は書く。「ふつうなら引用の文は『私はいま切ない』または『いまの私は切ない』と結ばれるところだろう。しかし、この作品には…こういった『いまは切ない私である』のような、ふつうの感覚から言えば転倒した表現が好んで用いられている」。そうして本来は「私はいま切ない」もしくは「いまの私は切ない」であるべきところを、わざわざ「いまは切ない私である」とするような「ふつうの感覚から言えば転倒した表現」を林芙美子を始め、今日では多くの人が用いている現象由来について、著者なりのあれこれ推察の分析を披露している。例えば、

「いま問題にしているスタイルは、人が自然に話すようには書かれていない。私はいま切ない、とは人は話すかもしれないが、いまは切ない私だ、とは話さない。少なくとも僕の感覚では話せない。林芙美子は話さずに歌っている。歌うように書いている。散文の中へ詩歌の文体を紛れ込ませている」(85・86ページ)

と解釈するような「散文の中に詩歌の文体を取り入れた」説。他にも、この文を厳密に書けば「私はいまは切ない私である」と本来するべきところで、

「(『私はいまは切ない私である』では)つまり主語である『私』がダブっている。そのダブっている主語が林芙美子の文では省略されているのだが、僕のような読者には(無意識に頭の中で補足して)読み取れる。だから僕も含めて中にはこの種の書き方に違和感をおぼえる人がいる。そうかもしれない」(88ページ)

とするような、後に出てくる「私である」の「私」とダブるので本来最初に置くべき「私は」の主語を故意に省略している説。そのため「(僕のような読者には)日本語の文に主語がないと居心地が悪いと感じる」など。こうしたいくつかの自説の「理屈」を展開させた後に佐藤正午は以下のように結ぶ。

「いずれにしても、ここで一つ認めておかなければならないのは、当時の僕が、『いまは切ない私である』のような書き方が気になって仕方がなかった、というよりも正しくは、気に障って仕方がなかったという点である。つまりその種の書き方に対して全否定的で、書き手たちに対して苛立っていた。いったいどこからそんなものを見つけてきて便利グッズみたいに自在に使いこなしているのか。もしかして誰か偉大な先人に敬意を払い、その仕事を継承しようと努めているのか。それともアナウンサーの読みあげるニュース原稿のまねをして面白がって使っているだけなのか?できればはっきりしてほしい。ほんとうに、僕にはわからないから教えてほしい」(佐藤正午「小説の読み書き」90ページ)

本書を読むまで私は、「いまは切ない私である」とする書き方に特に違和を感じることはなかったし、それまでこの種の問題について私は真剣に考えたこともなかった。「私はいま切ない」と普通に書いて発言するが、時と場合によっては「いまは切ない私である」とも書いたり発言したりすることは私の場合、日常的に普通にあり得る。「いまは切ない私である」と書くことに、佐藤正午とは違って私は何ら抵抗や否定的な苛立ちの感情を持たない。そして「私は××である」記述が、なぜ「××な私である」というような「転倒した表現」に時になるのか、その背景と理由を私は即座に指摘しうる。

(1)強調したい語句と文意のために文章の語順をわざと変えており、その結果「私は××である」記述が、「××な私である」という「転倒した表現」に必然的になった。

日本語でも英語でも、どの言語も強調したい語句を倒置を用いて文頭に持って来ると強調の文意になる。「私はいま切ない」と「いまは切ない私である」とでは、強調したい語句並びに意味の力点が異なり、ゆえに意味内容の細かなニュアンスも違ってくる。「私はいま切ない」を、わざわざ「いまは切ない私である」とするのは、「いまは切ない」の文頭にある倒置された一連の語の意味内容が殊更に強調されて、「今まさに私は切ないのだ、私は切なさの渦中に今まさにいるのだ」という意味になる。この意味内容の観点から、単に「私はいま切ない」と書く場合と、かたや「いまは切ない私である」とする際の文意の強調力点の内容の違いを確認してもらいたい。

また「いまの私は切ない」と「いまは切ない私である」とでも、同様に意味内容の強調力点の相違がある。「いまの私は切ない」とせず、「いまは切ない私である」とあえてするのは、「いまは切ない私である」とする「××な私である」といった、文後の「私」という名詞に文頭の「いまは切ない」の形容詞が連用修飾で係る文の構造(「いまは切ない私」=「形容詞+名詞」)は、「いまは切ないが、時間の経過と共にやがては切なくなくなる私」といった、「いま以降は切なくない私」の「形容詞+名詞」の同じ対比の構造文を即座に読み手に連想させる。その対比連想の効果で「いまは切ない私である」の文は、「今まさに私は切ないのだ、私は切なさの渦中に今まさにいるのだ(そうして「いまは切ない私」だが、「いま以降は切なくない私」へ時間の経過と共にやがては移行していく)」の含意の意味に強化されるからである。ここでも意味内容の観点から、単に「いまの私は切ない」にするのと、「いまは切ない私である」とわざわざする場合とでの文意の強調力点の内容の相違を確認して頂きたい。

(2)単に客観的事実や書き手の主観を述べる「私は××である」記述ではなくて、「××な私である」という「転倒した表現」には、記述・発話の書き手や話し手の側に「××な私」を相手に伝え、是非とも知ってもらいたい強い思いがまずあって、そのため自分の「私」の事であるにもかかわらず、「××な私である」というようにあえて自分を分離し自分から離れ「私」を見て、自分自身を客観視して「××な私」を他者の前に丁寧に差し出し提示する、いわぱ自己紹介の自己宣伝(プレゼンテーション)のような語順になっている。

この意味で、単に「私はいま切ない」と書くのと、わざわざ「いまは切ない私である」とする場合とでは、文章の書き手に込められている本意の相違は明白である。「私はいま切ない」は単に書き手が自身の「私」を伝える相手のことを何ら深く考えず自己完結して、素朴に主観的に書いている。しかし「いまは切ない私である」になると、この場合、書き手は明らかに「私」のことを伝えたい他者の読み手の存在を意識して、その読み手に「××な私である」がよく伝わるよう、「××な私」を他者の前に丁寧に差し出し提示する書き方になっているのだ。

岩波新書「小説の読み書き」の中で著者の佐藤正午がいうように、「私は××である」記述ではなくて「××な私である」という「転倒した表現」が、林芙美子「放浪記」の作中のみならず、他の現代作家においても、また今日では一般の人の間でも日常的な文章や会話にて多用されるのは、それが「もしかして誰か偉大な先人に敬意を払い、その仕事を継承しようと努めているのか」や「それともアナウンサーの読みあげるニュース原稿のまねをして面白がって使っているだけなのか?」といったことでは全くない。

「私は××である」ではなくて、「××な私である」の記述・発話が今日多用される現象を、単に「先人の言い回しの継承」とか「誰かのまねの流行」と言ってしまっては身も蓋(ふた)もない。より厳密に正確にいえぱ、現代の人が昔の人と比べて、単に主観的で自己完結した素朴な記述・発話(「私は××である」)をするだけの状況にいることに許されなくなってきているからである。常に自分自身が他者にどう見られ、自分が他者にどう写って見えて伝わるか、現代人はそのことに配慮せずにはいられない。自分の「私」の事であるにもかかわらず、「××な私である」というようにあえて自分を分離し自分から離れ「私」を見て、自分自身を客観視して「××な私」を他者の前に差し出し提示する、自己紹介の自己宣伝(プレゼンテーション)を強いられる延長環境のような過酷な状況に現代の人々が置かれがちだからである。だから「××な私である」というような「転倒した表現」が今日、多くの人に使われる傾向にあるだけのことだ。

たまたま今回は林芙美子「放浪記」作中での文章指摘の事例を挙げて詳しく書いたが、その他にも岩波新書「小説の読み書き」を読んで、文体書評として本質的ではない枝葉末節(しようまっせつ)な、正直どうでもよくてつまらない文章読本的な話や、プロの作家ではない一般人でもすぐに反駁(はんばく)し訂正できてしまう、かなり怪しい文章分析が多くある。「どうしてこの人は、こんなつまらない引っ掛かり方をするのだろう」「なぜ、こんな的外れな文章解説ばかり連発するのか!?」の徒労の辛い思いが、岩波新書の赤、佐藤正午「小説の読み書き」を読んで私には残った。

「小説家は小説をどう読み、また書くのか。近代日本文学の大家たちの作品を丹念に読み解きながら、『小説の書き方』ではない『小説家の書き方』を、小説家の視点から考える斬新な試み。読むことは書くことに近づき、読者の数だけ小説は書かれる。こんなふうに読めば、まだまだ小説だっておもしろい。小説の魅力が倍増するユニークな文章読本」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(477)中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」

岩波新書の青、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」(1966年)は、しばしば実施される岩波新書の推薦書目のアンケート企画にて「必ず読んでおくべき名著」として昔から毎回、挙げられる定番で有名な書籍である。本書の概要はこうだ。

「野生時代のものとは全く違った存在となってしまった今日のムギやイネは、私たちの祖先の手で何千年もかかって改良に改良を重ねられてきた。イネをはじめ、ムギ、イモ、バナナ、雑穀、マメ、茶など人間生活と切り離すことのできない栽培植物の起源を追求して、アジアの奥地やヒマラヤ地域、南太平洋の全域を探査した貴重な記録」(表紙カバー裏解説)

本書は全部で7つの章よりなる。

「Ⅰ・栽培植物とは何か、Ⅱ・根菜農耕文化(バナナ・イモ)、Ⅲ・照葉樹林文化(クズ・チャ)、Ⅳ・サバンナ農耕文化(雑穀・マメ)、Ⅴ・イネのはじまり(一0億の食糧)、Ⅵ・地中海農耕文化(ムギ・エンドウ)、Ⅶ・新大陸の農耕文化(ジャガイモ・トーモロコシ)」

冒頭に「栽培植物とは何か」、つまりは「野生植物とは異なり、『栽培』や『農耕』の人間の行為が加わって、利用可能部分の収穫部の増大や植物自体の大型化や生育環境への適応を遂げたり、人による農耕作業の効率化を促すもの。また人間による栽培環境下でなければ生育存在できない植物種のこと。人間の食糧になりうるよう長年に渡り人為の下で改良され栽培された、イネやムギなどの現在の品種が栽培植物の典型」という旨の栽培植物に関する定義の総論を置き、その上で第Ⅱ章以降の各章でそれぞれ各地域の代表的な栽培植物について現地調査での著者の体験も交え具体的に論ずるという展開にて、非常にバランス良く周到に記述されている。

まず「Ⅱ・根菜農耕文化」では、フィリピンや南太平洋沿岸および島嶼部ら東南アジア地域の農耕起源を扱い、その際の栽培植物の品目はバナナとイモである。続く「Ⅲ・照葉樹林文化」ではヒマラヤ・ブータンと中国南部・朝鮮・西日本の東アジア地域のそれであり、栽培植物の品目はクズと茶である。そして「Ⅳ・サバンナ農耕文化」では、アフリカからネパール・インドの西アジア地域にかけての農耕起源とその西域伝播を考察し、雑穀と豆の栽培植物について述べている。「Ⅴ・イネのはじまり」では、「一0億(人)の食糧」として今日まで人類の主な主食の一つになっているイネの栽培植物を、アフリカ系とインド・東南アジア系の二つの栽培イネの起源に求め解説している。そうして「Ⅵ・地中海農耕文化」では、ギリシア、エジプト、オリエントら地中海沿岸地域の農耕起源をムギとエンドウの栽培植物を通して、同様に「Ⅶ・新大陸の農耕文化」では、今度は北アメリカと南米の「新大陸」地域の農耕起源として、ジャガイモとトウモロコシの栽培植物について、それぞれに考察がなされている。

著者の中尾佐助は「照葉樹林文化論」(日本人の生活文化の基盤は、ヒマラヤ、ブータン、中国南部、台湾、西日本に渡り半月弧状に植生する照葉樹林地域と共通の文化圏に属するという説)を提唱して、その体系化に昔から尽力した人なので、岩波新書「栽培植物と農耕の起源」でも、「Ⅲ・照葉樹林文化(クズ・チャ)」の章に著者の筆の力が強く込められているように読み取れる。本新書ではこの「Ⅲ・照葉樹林文化」の章を特に精読するべきだと私は思う。

本書を一読すればわかるが、人類における「栽培植物と農耕の起源」を概説するに当たり、ちょうど上手い具合に世界各地に起源の農耕地域をまんべんなく等価に散らして、またその栽培食物の品目も複数挙げて世界的な規模で考察し論述されているのだ。この点は、あらかじめの著者による本書構成の妙であり、各章立てが非常にバランス良く周到に配置されている。著者のこの周到さにより、例えば「今日の人類の文明はヨーロッパ発祥で欧米人が主に築いた」旨のヨーロッパ中心主義史観や、「弥生時代以降の本格的な水稲稲作の開始を以て日本人は米生産中心の勤勉な農耕民族であった」とするような日本人=稲作文化の単一農耕民族説を原理的に排することができている。岩波新書「栽培植物と農耕の起源」をして、「ヨーロッパ中心主義を打破した多元的歴史叙述」とか、「日本という一国史の単一民族史観の自民族中心主義を相対化するもの」などと昔から好意的に評される所以(ゆえん)である。

こうしたある特定地域の起源中心史観や特定の国家・民族の称揚の歴史語りをある程度は相対化して無効にできるのは、著者である中尾佐助の本新書内でのあらかじめの章立てと論述の周到さに依(よ)るものも確かにあるが、著者の中尾が専攻している農林生物学の、中でも特に遺伝育種学や栽培植物学という学問自体の性格が、そもそもそうした地域中心史観や国家・民族の称揚の歴史語りを相対化しうる普遍的で多元的な価値意識に基づく学術研究であるからに他ならない。

例えば麦の栽培と発展は、なるほど地中海農耕文化により、古代オリエントとギリシア・ローマ地域で発生し、この農業文化が発展して、ある時代には地中海沿岸地域で古代ヨーロッパ文明が非常に栄えたことは事実である。しかし同時に他地域でも、例えば東南アジアでは同様に根菜農耕文化としてバナナやイモの栽培がなされ文化の中心として隆盛を極め、同時期に別の農耕文化圏として多元的に並列して存在していたのだった。同様に稲の栽培に関しても、何も弥生時代以降の日本人だけが独占して模範勤勉的に稲作を行っていたわけではない。元は米作の水稲栽培の品種と技術は遠くインド・東南アジアから伝播し、後に東アジアの日本にまでもたらされたのであって、ここから特定の地域国家や民族のみを無駄に称揚する排他的な自民族中心主義の一国史観は誤りだと明確に分かる。

「栽培植物と農耕の起源」は、ある特定地域が起源であっても、そこから近接の各地域へ次々と伝播し、その伝播の過程で栽培植物の品種は変容し、やがては改良されて他地域や他民族や他国家へと広く普遍的に広がりを見せるものである。ちょうど起源地域の優越性やある民族や国家の独占栽培の枠を超えて、それら起源や民族や国家を根こそぎ相対化しながら無化していく形で。本書で使われている農林生物学の、中でも特に遺伝育種学や栽培植物学という学問の基本的性格が、そうした特定地域中心史観や民族・国家の称揚の歴史語りを相対化しうる普遍的で多元的な価値意識に基づくものであることに何よりも留意されたい。

加えて、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」を読む際には、例えば「Ⅳ・サバンナ農耕文化」とあって、アフリカからネパール・インドの西アジア地域にかけての「農耕の起源」とその西域伝播として雑穀と豆の「栽培植物」など、発生起源の地域と栽培植物の品目の詳細にのみ気を取られることなく、本書の論述全体を貫く、必ずしもまとめて明瞭に書かれてはいないが、本論記述の行間からにじみ出る以下の旨の著者・中尾佐助による遺伝育種学、栽培植物学専攻の学者の立場からする静かな、しかし並々ならぬ怒りの筆致をぜひ読み取ってもらいたい。すなわち、

「お前らは、文明の発祥や発展といった場合、すぐに芸術や美術や文学や工業技術の原子力工学らを思い浮かべて主に述べるけれども、植物栽培と農耕も人間の手による立派な人為の文明であるのだ(怒)。今日まで長く広範囲に栽培され人々に食されている、例えばバナナや麦や茶が最初から今のような品種の形態で人間が手を加えずとも、勝手に自然に豊かに繁茂していたなどと、まさか思ってはいないだろうね。そんな人間の食糧に給するよう都合良く地球上の植物はもともとはじめから出来てはいない。あれは最初に野生植物としてあって、その後に数千年以上の相当な長い年月を経て、人による種子の厳選や植物の植え替え、他地域への持ち込みの伝播とそれに伴う品種の改良や植物自体の環境適応、人による初期農業の工夫の成果として、つまりは『栽培』や『農耕』の人間の行為が加わってはじめて、利用可能部分の収穫部の増大や、また人間による栽培環境下でなければ生育存在できない植物種の出現など、人間の食糧になりうる現在の品種の栽培植物に至るのだ。農業というのは『アグリカルチャー』で『カルチャー(文化)=耕す』の意である。農業作物は、何も勝手に自然に生育し繁茂して人間の食に供するよう最初から最適化されて存在していたわけではない。そこには『栽培』と『農耕』という長い間の継続人為的な確固とした人間の文化的営みがあるのだ。そのことを意識して、文明の発祥や発展といったら芸術や美術や文学や工業技術の原子力工学らのみを安直に思い浮かべずに、それ以外にも植物栽培と農耕も、同様に人間の手による立派な人為の文明であることに早く気付けよ!」

というような。もちろん、こうしたことは直接に本書に文章として書かれてはいない。そして、中尾佐助は立派で常識ある大人な方であるから、このような乱暴な言葉遣いで、もちろん述べてもいない(笑)。だが、こうした内容の著者の静かで強い怒りの感情を察して知ることが、本書が本当に読めているかどうかの一つの試金石というか、ここが本書の読みの落とし所の一つであるという気が私はする。

岩波新書の青、中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」に関しては、「イネをはじめ、ムギ、イモ、バナナ、雑穀、マメ、茶など人間生活と切り離すことのできない栽培植物の起源を追求して、アジアの奥地やヒマラヤ地域、南太平洋の全域を探査した貴重な記録」ということから、稲や麦やイモやバナナら各栽培植物の起源と伝播と改良の詳細を本書を通し生物科学的・歴史地理的に知ることは確かに大切である。だが、そうした詳細の細かい眼目にのみ拘泥(こうでい)してはいけない。より広い視点で本書の記述全体に通底して流れる「植物栽培と農耕は人為による確固とした人間の文化的営み」とする主旨の著者の本意の思いに気付き、読み取ることが必要だ。

岩波新書の書評(476)原武史「『昭和天皇実録』を読む」(その2)

近代日本における「昭和」は、大正天皇の死去(崩御)を受けて、昭和天皇が践祚(せんそ・天皇の位を受け継ぐこと)した1926年に始まる。この時、昭和天皇(天皇裕仁)は弱冠25歳。以後、昭和の時代の日本は急激に戦争にのめり込んで行く。1931年の満州事変を契機に日本の大陸侵出はより本格化し、1937年には中国との日中戦争に突入して、さらには1941年に対米英戦である太平洋戦争も同時にやり、果てしなく戦線は拡大して大日本帝国は戦禍の泥沼に自ら深くはまり込んでいった。そうして遂にはアメリカによる本土爆撃、二度の原子爆弾投下を受けて、1945年の日本の敗戦に至る。

この状況には、昭和の時代に入って以降の帝国陸海軍の軍部の政治的拡大があった点が前よりよく指摘される所である。すなわち、昭和の以前は「政治と軍事」は内閣と陸海軍の間で互いに独立不干渉であり、その原則が守られていた。それまでの帝国陸海軍は、軍事専門の基本的には国政には不介入の立場を取る非政治的な組織であったのだ。しかし昭和の時代に入ると、軍部が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝(どうかつ)をやり、時に二・二六事件のような軍事クーデターまで起こし倒閣して軍みずからが政治を動かし、軍本体が組織として急速に政治化していった。

確かに、昭和期以前の明治・大正の時代から「統帥権の独立」があり、帷幄上奏(いあくじょうそう)にて軍が倒閣をなしたことはあった。しかし明治・大正の陸海軍は、あくまでも陸軍大臣と海軍大臣が参加の内閣の傘下にあって、軍は天皇や元老・重臣、政治家や文民の制御(コントロール)支配下にあったのである。そうした「軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないこと」の原則が初めて破られたのが、昭和の時代に入ってからであった。ゆえに極度に政治化した軍部の国策としての戦争衝動の軍事的暴走を、天皇を始めとして元老・重臣も政治家も外交官ら官僚も結局は誰も止めることが出来ず、前述のように、昭和の時代の日本は日中戦争や太平洋戦争の開戦を次々となし、さらには果てしなく戦線拡大して戦禍の泥沼に自ら深くはまり込んで、やがて大日本帝国は敗戦の自滅に至るのだった。

そして、このように軍が急速に政治化して、陸軍大臣と海軍大臣は時の内閣に所属の一員であるにもかかわらず、軍への天皇や元老・重臣、内閣や官僚ら文民の制御(コントロール)支配が効かなくなった最初の重大な転換の契機が、張作霖爆殺事件の現地での陸軍の首謀者の処罰問題、すなわち、内地の陸軍参謀本部を始めとして内閣も、軍隊の統帥権を有する「大元帥」である天皇ですら、軍紀(軍人の紀律)維持の下、現地での軍事工作に独断専行した関東軍の現場責任者に対する処罰を誰もなし得なかった事案にある、と私には強く思えるわけである。

確かに、この張作霖爆殺事件後の現地の陸軍への処罰問題対応の曖昧(あいまい)さを以て、これ以降、軍部は目に見えて増長した。以後、「軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないこと」の従来原則は破棄され、陸海軍が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝を繰り返して軍みずからが政治を動かすようになっていった。この昭和史の大きな節目の転換契機である張作霖爆殺事件が起こったのは1928年、昭和天皇の践祚からわずか二年後の間もない頃であり、当時の天皇裕仁はまだ27歳の若い君主であった。

張作霖爆殺事件とは、北京から汽車で奉天に引き揚げてきた北方軍閥の指導者、張作霖が日本の関東軍により爆殺された事件である(1928年)。張作霖は「満州軍閥」「奉天軍閥」ともいわれる北方軍閥の巨頭であり、日本の支援により満州を統一。後に北京政界に進出するも、蒋介石の北伐軍に圧迫され、北京から敗走の中途で日本の関東軍の謀略により列車とともに爆殺されたのだった。関東軍は、日本と親密な張作霖の爆殺を蒋介石の国民革命軍の仕業によるものと見せかけ、それを口実に南満州に侵進し占領しようとしていた。そのため、張作霖の暗殺は日本軍の仕業であることは絶対に知られてはならず、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐らへの処分は大してなされなかった。当時、張作霖爆殺事件の真相は隠され「満州某重大事件」とされた。張作霖の爆殺は、内地の内閣と陸軍参謀本部からの決定・司令はなく、現地の関東軍の独断専行による計画・決行の明らかな軍事的暴走であった。このことを受け、張作霖爆殺事件に際して首相の田中義一は、諸外国からの日本への国際的信用を保つためと「軍紀維持」のため、河本ら事件容疑者を軍法会議にかけ厳罰に処するべきとして、その旨を天皇に上奏した。だが結局は陸軍の強い反発に遭(あ)い事件関係者を処罰できず、事後の対応は実質は処罰なしに等しい放置のままに終わったのである。

軍法会議によって容疑者を厳罰に処すると前に主張していたにもかかわらず、首相の田中義一は、関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇に再度上奏したため、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問し、「田中の言うことはちっとも判らぬ。再び話を聞くことはない」旨を述べた。これを侍従長を通して聞いた首相の田中は涙を流して恐懼(きょうく)し、田中義一内閣は、張作霖爆殺事件の事後処理に失敗して事態の混乱を招き、昭和天皇の信任を失って総辞職した。

この時の昭和天皇の首相・田中義一への詰問と激怒の様子を、関係者である岡田啓介の回想から引こう。岡田啓介は田中内閣に入閣して当時、海軍大臣だった人である。後に首相在任中に二・二六事件で岡田は陸軍青年将校らに襲撃されるも、間一髪で難を逃れた人でもあった。

「陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色がお変わりになり、読み終わるや否や『この前の言葉と矛盾するではないか』とおっしゃった。田中は、恐れいって『そのことについては、いろいろ御説明申し上げます』と申し上げると御立腹の陛下は、『説明は聞く必要がない』と奥へおはいりになったそうだ。田中はうちしおれて帰ってきて、閣議でこのことを話しすると、…はじめから真相をただすというきっぱりした態度でやればよかったんだ。そういうことをしないでおいて、今さら騒いでもしかたがない。しかし田中は、政友会の連中に励まされて、あくまで御説明申し上げようと参内、ふたたび拝謁を願いでると、そのときの侍従長は鈴木貫太郎だったが、気の毒そうに、『お取りつぎはしますが、おそらくむだでしょう』といった。こうなってはもはや陛下の御信任を失った、と思わざるを得ない。田中は辞職を決意してすごすごと引きさがった」(「岡田啓介回顧録」1950年)

実のところ、首相の田中に対する昭和天皇の詰問、叱責の発言は史料によりそれぞれに違っている。ここで引用した「岡田啓介回顧録」では、「この前の言葉と矛盾するではないか。説明は聞く必要がない」となっているが、他の回想録らの史料では、例えば原田熊雄「西園寺公と政局」(1950年)は、昭和天皇は田中に対し「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と言ってに奥に入り、そして侍従長の鈴木貫太郎に向かって「田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ」と言われた、となっている。また細川隆元「田中義一」(1958年)では天皇が田中に「政治上の責任はいったいどうするのか」と叱(しか)ったという話もある、と書かれており、保阪正康「昭和天皇」(2005年)には「初めに言ったことと違うのではないか。それで軍紀は維持できるのか。もう田中の言うことは聞きたくない」と激しく叱責した、となっている。田中義一に対する昭和天皇の具体的な発言はそれぞれに多少異なっているのである。これは「岡田啓介回顧録」が「…だったそうだ」という伝聞記述になっていることからも明白だが、いずれも各人が田中が参内して天皇に上奏する場に侍立していない、つまりは誰もその場に実は居合わせていない、そのことから「昭和天皇は田中にこう述べたらしい」の伝聞憶測の各人記述になったと考えられる。

しかし、近年「昭和天皇独白録」が公開され、実際に昭和天皇が田中義一に何と言ったか、その発言内容は当事者の昭和天皇の「独白」回想により明らかとなった。「昭和天皇独白録」とは、昭和天皇が戦前と戦中の出来事に関し敗戦後の1946年に側近に対して語った談話をまとめた記録である。この「独白録」が作成されたのは敗戦間もない1946年であったが、それが公開されたのは昭和天皇没後の1990年であった。これは発言者の昭和天皇みずからが述べているのであるから、その場に居合わせていない周囲の者による伝聞や憶測ではなく、当事者本人による極めて信頼性ある証言といえる。以下、昭和天皇の首相・田中義一への詰問と激怒の様子を当事者である昭和天皇自身の「独白」回想から同様に引こう。先に引用の「岡田啓介回顧録」のそれと読み比べて頂きたい。同じ上奏の場面であるので大体は同じであるが、田中へ向けての昭和天皇の発言内容が岡田らの回想の他史料とは微妙に異なっている。

「この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云う事であった。そして田中は牧野(伸顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云ったそうである。然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、…日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終った。そこで田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした」(「昭和天皇独白録」1946年)

ここでの「辞表を出してはどうかと強い語気で云った」の田中に対する天皇の叱責は、これまでの側近の回想にはない証言であり、かつ当時の発言当事者の昭和天皇の「独白」回想であるためかなりの信頼性があり、極めて重要である。これは決定的であると思う。昭和天皇は田中義一に対し、「それでは前と話が違うではないか」の詰問に加えて、「辞表を出してはどうか」の内閣退陣まで直々に言及したのであった。昭和天皇が直接に「辞表を出してはどうか」と強くいい、田中義一は恐れ入って内閣総辞職したというのが事実である。

上述のような、田中義一の上奏に際しての一連の天皇発言があって、田中内閣は総辞職した。狭心症の既往があって健康問題にもともと不安があった田中に、張作霖爆殺事件の処理で天皇の不興を買ったことはやはり心身に応(こた)えた。総理退任後の田中は、あまり人前に出ることもなくふさぎがちだったという。そして内閣総辞職から二ヶ月後に田中義一は急性の狭心症により死去した。65歳没(田中の急死には既往の狭心症によるもの以外に、傷心の上での自殺説もある)。

このことを受けて昭和天皇は、自身が田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか田中義一を死に追いやる結果になったかもしれないことを痛感し、(後述のように)以後は内閣の方針に不満があっても口を挟(はさ)まないことを決意したという。

田中義一は、かつて日清・日露戦争に従軍し、特に日露戦争では陸軍屈指のロシア通として頭角を現した。また田中は山口出身だったため同郷の軍閥(長州閥)で元老の山県有朋の後ろ盾もあって、陸軍大将を経て後に政界に進出し立憲政友会総裁となり、昭和初期には内閣総理大臣にまで上り詰めた人物であった。張作霖爆殺事件の事後処理に失敗して事態の混乱を招き、昭和天皇の信任を失って内閣総辞職した時、田中義一は65歳。他方、その田中を厳しく叱責して「辞表を出してはどうか」と田中に退陣を「忠告」した昭和天皇は、践祚してわずか三年目のまだ28歳の青年君主であった。だからこそ、後の昭和天皇の「独白」回想にて、「こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした」というような、若い時分の「若気の至り」の自身を責めるやや悔恨の語りになっている。先の「昭和天皇独白録」の続きを引こう。

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っても裁可を与える事に決心した。…田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、 『ベトー』(註─vetoで「君主が大権をもって拒否または拒絶すること」)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云うが『ベトー』は云わぬ事にした」(「昭和天皇独白録」)

張作霖爆殺事件の事後処理に絡(から)む田中義一内閣総辞職の一件を経て、これ以降、昭和天皇は内閣や軍部の決定に「不可」をいわない自身の意見を直接に表明しない沈黙する天皇、イギリス式の「君臨すれども統治せず」の立憲君主を志向するようになっていった。同時に、そこには天皇を始めとして、誰もが表立った意思表示はせず、皆がその時々の日和見主義な無責任で、そのため事態はなし崩しに勝手に進んで行き、ゆえに事後の問題責任も誰も積極的には取ろうとはしない「無責任の体系」たる近代天皇制の精神的病理を社会全体に蔓延させる結果となった。他方、張作霖爆殺事件の事後にて、現場の関東軍に対し実質は処罰なしに等しい大甘の事態収束に終わったため、これ以降、軍部は目に見えて増長した。現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝を繰り返して、軍みずからが政治を動かすようにやがてはなっていった。特に大陸前線の満州では、関東軍は張作霖爆殺事件の「前例」に味をしめて行動をより先悦化させていった。昭和の時代が進んで極度に政治化した軍部の国策としての戦争衝動の軍事的暴走を、天皇を始めとして元老・重臣も政治家も外交官ら官僚も、もはや誰も止めることが出来ない状況に次第になっていったのである。

してみると、このように軍が急速に政治化して、陸軍大臣と海軍大臣は時の内閣に所属の一員であるにもかかわらず、軍への天皇や元老・重臣、内閣や官僚ら文民の制御(コントロール)支配が効かなくなった最初の重大な転換の契機が、張作霖爆殺事件の現地での陸軍の首謀者の処罰問題、すなわち、内地の陸軍参謀本部を始めとして内閣も、軍隊の統帥権を有する「大元帥」である天皇ですら、軍紀維持の下、現地での軍事工作に独断専行した関東軍の現場責任者に対する処罰を誰もなし得なかった事案にあった、とやはり私には強く思えるのである。

岩波新書の書評(475)原武史「『昭和天皇実録』を読む」(その1)

戦前、戦中、戦後の昭和天皇(天皇裕仁)のその時々の意思や発言や行動を知る重要な史料に、原田熊雄「西園寺公と政局」(1950年)と「木戸幸一日記」(1966年)と「昭和天皇独白録」(1946年作成、1990年公開)と「昭和天皇実録」(2014年)がある。これらが最重要の、いわゆる「一次史料」と呼ばれるものであり、世に多く出ている昭和天皇に関する研究や評伝を参照すると、ほとんどが前出の4つの基本史料に依拠して、そこから引用し書かれていることが分かる。ゆえに、とりあえず昭和天皇に関しては、これら基本の一次史料から順次当たるのが妥当である。

原田熊雄「西園寺公と政局」は、昭和天皇の実際の言動に関し、昔からある相当に定番な史料といえる。「西園寺公と政局」は、大正後期から昭和の太平洋戦争開戦の前まで元老であった西園寺公望の私設秘書を務めた原田熊雄による、元老側近の西園寺に仕えた原田を通しての、宮中での昭和天皇についての一般には知られざる貴重な証言である。本書は原田の口述であり、内容が詳細で信頼性がそこそこあるため、だいたいどの識者も昭和天皇に関しては「西園寺公と政局」からの引用とこの証言を元にした考察が多い。続く「木戸幸一日記」も、昭和天皇に関し昔から定番の基本の史料であって、「西園寺公と政局」と共によく引用される。木戸幸一は、明治の維新期に功労をなした木戸孝允の孫であり、西園寺公望が元老を退いた後、太平洋戦争開戦前から1945年の日本の敗戦まで内大臣として最も近くで昭和天皇を支えた人物であった。

「昭和天皇独白録」は、昭和天皇が戦前と戦中の出来事に関し敗戦後の1946年に側近に対して語った談話をまとめた記録である。「独白録」は、外務省出身で当時宮内省御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。この「昭和天皇独白録」の存在が一般に明らかされたのは、昭和天皇没後の1990年であった。

「昭和天皇実録」は、宮内庁による公的な昭和天皇の伝記(「実録」)である。昭和天皇の生誕から死去までを年代順に記述している。「実録」は1990年より編纂(へんさん)が始まり、24年の歳月をかけて2014年に完成した。これまでの史料に比べて、「昭和天皇実録」は全19巻で一冊の総ページ数も多く、全冊を精読するのは相当に大変である。既出の昭和天皇に関する信頼ある史料全てにほぼ触れる形で編年体で評伝記述されており、かなりの分量の詳細なものとなる。またこの「実録」で初めて明らかにされた昭和天皇に関する秘話も多い。私は「昭和天皇実録」全巻だけは所有していない。他の「昭和天皇独白録」らは所蔵して時折、目的もなくパラパラ読んでいるのだが。「昭和天皇実録」は冊数多く、しかもなかなかの高価であるので「実録」は地域の公立図書館で日常的によく借りている。

これら昭和天皇に関する基本の史料は天皇に深く関係し、また当時、昭和天皇の近くにいた人達により書かれた(語られた)公的文書と私的な日記であるから、それら書かれた人の立場から当然に加わる、それぞれの偏向(バイアス)も考慮して、あくまで書かれたものをそのまま鵜呑(うの)みにせず、時に醒(さ)めた意識で批判的に読んで処していくことも必要であろう。

「西園寺公と政局」と「木戸幸一日記」は、昭和天皇側近の西園寺公望の私設秘書の原田熊雄への聞き書きと、日米開戦から敗戦までの時期に内大臣を務めた木戸幸一の日記である。彼らは天皇の側にいて内閣製造の組閣の奏薦をやり、やたら戦争をしたがる軍部への対抗をなして戦争遂行には消極的であった勢力であり、一般にいう「宮中リベラル」であるから、「西園寺公と政局」「木戸幸一日記」では、開戦や戦線拡大を常に主張する強硬外交の帝国陸海軍、その他、枢密院や外務省らの好戦的な人達は割合厳しく痛烈に書かれている。その反面、昭和天皇と天皇の近くにいた元老や侍従ら自分たち宮中の人間に関しては良イメージで肯定的に書く傾向が強い。

「昭和天皇独白録」は、外務省出身の経歴を持ち昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成によるその作成過程からして、この「独白録」は敗戦直後、東京裁判開廷前に戦勝国のアメリカ側に提出されている。つまりは「昭和天皇独白録」とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で天皇が戦犯として訴追される可能性を懸念し、天皇の戦犯追及をかわす免責を狙ってGHQに提出することを念頭においた「弁明書」であるため、昭和天皇への戦争責任追及を回避するような、戦時に天皇は開戦や戦争継続には何ら主体的に深く関与していないことを暗に強調する故意のアリバイ作り的な「独白」記述に最初からなっている。「昭和天皇独白録」を読む際には、この点に留意して、ある程度は批判的に読む意識が必要だ。

「昭和天皇実録」は、宮内庁により編纂された生誕から死去までの昭和天皇の伝記(「実録」)であり、評伝の決定版で集大成のような記録である。宮内庁書陵部により公的に編纂され、しかも多人数が執筆に携わっているため、先の「木戸幸一日記」や「昭和天皇独白録」の一人のみの記述・語りとは異なり、私的な推測や個人的感情記載の面は少ない。「実録」は、昭和天皇に関する公式記録の「正史」として後々の時代にまで残り、末永く多くの人々に読まれることを意識して慎重に記述されている。「昭和天皇実録」には、確かに天皇の病歴や学業成績ら私的(プライベート)なことは書かれていない。かつ兄弟の秩父宮や高松宮との衝突・不和の事柄や、戦時に昭和天皇自身が戦争に前のめりになっている好戦的言動の詳細や、天皇が戦争遂行に走る軍部の暴走をもはや止めることができず、統帥権を有する「大元帥」としての天皇の無力さや立憲君主としての機能不全の実際を、他史料とは異なり、なるべく抑(おさ)えて書こうとするフシが宮内庁公式の「昭和天皇実録」を読んで私には一貫して感じられた。「昭和天皇実録」には天皇に対しての厳しい評価記載をあらかじめ周到に回避するような、官製の顕彰的評伝記述に徹する傾向が確かにある。

さて近年の岩波新書にて、昭和天皇の史料刊行に関連してその都度、出された書籍といえば、1990年に初めて公開された「昭和天皇独白録」を受けてのそれへの読み込みと検証である吉田裕「昭和天皇の終戦史」(1992年)、そして2014年の「昭和天皇実録」の完成を受けての読み込みと解説である原武史「『昭和天皇実録』を読む」(2015年)があった。

それぞれの新書の概要について、吉田裕「昭和天皇の終戦史」は、

「戦争責任ははたして軍部だけにあったのか?天皇と側近たちの『国体護持』のシナリオとは何であったか?近年、社会的反響を呼んだ『昭和天皇独白録』を徹底的に検証し、また東京裁判・国際検察局の尋問調書など膨大な史料を調査・検討した著者は、水面下で錯綜しつつ展開された、終戦工作の全容を初めて浮き彫りにする」(表紙カバー裏解説)

また原武史「『昭和天皇実録』を読む」は、

「昭和天皇の生誕から死去までを年代順に記述した『昭和天皇実録』。その細部を丁寧に読みこむと、これまで見えてこなかった『お濠の内側』における天皇の生活様態が明らかになってくる。祭祀への姿勢、母との確執、戦争責任と退位問題、キリスト教への接近…天皇と『神』との関係に注目し昭和史・昭和天皇像を刷新する」(表紙カバー裏解説)

となっている。

「昭和天皇独白録」と「昭和天皇実録」の近年に公開・完成の史料伝記を読む前後で、これら二冊の昭和天皇に関する岩波新書を読んでおくのは誠に有益である。「昭和天皇と戦争」を柱とする昭和史に対するより深い理解の助けになるだろう。