アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(344)山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」

2020年は、社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が多く刊行されている。

マックス・ヴェーバーの何よりの学問的業績は「近代」の定義にある。西洋の「近代」を他から区別する根本原理は「合理性」にあり、その合理性生成の系譜は「現世の呪術からの解放」であって、それはヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)にての、キリスト教カルヴァン派の「プロテスタンティズムの倫理」たる世俗内禁欲と生活合理化が、当時勃興期の近代資本主義のブルジョアジー(新興の中産階級市民)の勤勉労働と貯蓄と投資を通しての利殖を追求する「資本主義の精神」に、キリスト者当人らの主観的意図や目的意識とは全くの別の次元の別の所で、当人たちの思惑をはるかに越えた所で期せずしてつながっているとするヴェーバーの考察指摘である。

このキリスト者の信仰の宗教意識に基づくエートス(ある時代のある共同体に共有されている精神的雰囲気、心的・倫理的態度のこと)の精神的なものから「資本主義の精神」の生成を説いていくヴェーバーの立ち位置は、「存在が意識を規定する」とする現実社会の物質的な生産力の増大や確立された生産様式が最初にあって、その変容を伴って人間の階級意識の精神的なものが後に形成されてくるとするマルクスの唯物史観と真っ向から対立する。いうなれば「資本主義の精神」の生成に関し、経済的な物質的生産様式から説明づけるマルクスにおいては、人間の思想形成は「物質→精神」であるが、他方、同様に「資本主義の精神」の生成についてキリスト者のプロテスタンティズムの宗教意識から説明づけるヴェーバーにて、人間の思想形成は「精神→精神」なのであった。ここに「ヴェーバーとマルクス」をセットにし、かつ両者を対立的に論じる昔からの社会科学にての伝統議論人気の所以(ゆえん)がある。

思えばマックス・ヴェーバーという人は、プロテスタンティズムや古代ユダヤ教や儒教ら、人間行為の動機付けたる倫理・道徳に強い関心のこだわりを見せて、その精神的なものに思想形成の由来を一貫して求める人であった。

マックス・ヴェーバーが現代の社会科学に寄与した「近代」の成立とその定義に関する考察理論の学問的業績は実に偉大だ。「近代とは何か」を知りたい者は、まず何よりもヴェーバーを読むべきだ。私達は今まさに「近代」という時代の実に苛烈な資本主義の中にいて、「資本主義の精神」たる合理性や効率性や利潤の追求があまりにも当たり前で自然なことで、人間として誰もが志向すべき好ましい精神的美徳のように思い込んでいるけれども、例えば今日では多くの日本人があらゆる分野にて目指したがり、日々そのために奔走している「最小限の労力にて最大限の成果を上げるような、効率性に基づく果てしのない利益の獲得と利殖の追求」など、これは「近代」という特定の時代とその浸透地域に限られた極めて特殊で例外的な精神であって必ずしも自明で、いついかなる時代の地域の人々にも当てはまる普遍的な倫理では決してない。「近代」以前の前近代の時代や「近代」以降の脱近代(ポストモダン)潮流にて、かつ西洋の「近代」が席巻する以外の非ヨーロッパ地域において、そのような「近代」のせわしない合理性や効率性や利潤の追求以外の、例えば「真善美の文化的価値を追究して慈(いつく)しみ、じっくりと深く味わう」ような、「近代」の消費文化に抗する全く別の倫理価値の意識も存在するはずだ。マックス・ヴェーバーによる「近代」の成立とその定義に関する考察理論は、そうした西洋の「近代」が実は極めて特殊例外的な、ある時代のある地域の人々にのみ自明視され「普遍的」と未だに信じられている欺瞞を暴いて結果、ヨーロッパ「近代」の相対化を現代の私達に促してくれる。そこがヴェーバーの「近代」論の非常に優れた学問的業績のうちの一つである。

マックス・ヴェーバーの社会科学は、西洋における「近代」成立と定義、さらにその「近代」の問題をあぶり出し批判して、ヨーロッパの「近代」を乗り越える脱近代(ポストモダン)への問題意識の射程をも有するものであった。

ところで、私達はヴェーバーの著作やヴェーバー研究を日々よく目にするが、実は海外では日本ほどマックス・ヴェーバーは人々に広く深く読まれているわけではない。とりあえず、諸外国と比べての「日本人のヴェーバー好き」「日本におけるヴェーバー人気の高さ」は認めざるをえない。それは先の第二次世界大戦の戦時の総力戦体制の時代から、敗戦を迎えての「戦後民主主義」の時代、そして現代思想のポストモダン潮流の現在に至るまで特に日本人はヴェーバーを介して「そもそも近代とは何か」「どうすれば近代化を達成できるのか」「近代の問題は何であり、近代の超克はいかになされるべきか」を考え続けてきたことによる。それは非ヨーロッパの日本が西洋の「近代」にコンプレックス(劣等感)を持ち、いつの時代でも「近代」について日本人が一貫して考えてきたからに他ならない。日本でのヴェーバー人気のヴェーバー研究の並々ならぬ蓄積と成果の獲れ高は、このことに由来している。

そうした日本におけるマックス・ヴェーバー研究にて、経済史学者の大塚久雄(1907─96年)の存在は外せない。もちろん、大塚久雄のヴェーバー研究のヴェーバー理解に少なからずの問題があることを私達は知っている。だが、着目すべきは大塚が戦中から戦後にかけて、いつの時代でも連続して律儀にヴェーバーに言及していることであって、その時々の大塚久雄のヴェーバーに関する言説から日本でのヴェーバー研究の時代推移の全体像はおおよそ把握できるのである。すなわち、非ヨーロッパの日本がマックス・ヴェーバーからヨーロッパの「近代」を意欲的に学び取る姿勢は絶えず一貫して保持したままで、

(1)戦前─戦時動員の文脈にて、主体的に戦時の総力戦体制を担って国家への能動的献身をなし、最高度の自発性を発揮するような「近代」的な人間主体の模範を、勤勉で積極的活動性を有するヴェーバーを介した西洋「近代」に求める。(2)戦後─民主化を進める戦後啓蒙の文脈にて、戦前の「前近代」的な天皇制国家の神権性・非合理性を反省し批判して乗り越えるような「戦後民主主義」に見合った「近代」的な人間主体の模範を、合理的で理性的なヴェーバーを介した西洋「近代」に求める。(3)現代─近代批判のポストモダン議論の文脈にて、物質的な「生活の貧しさ」はほぼ解消されたが、逆に精神的な「心の貧しさ」が増大した現代における「近代人の疎外」状況を克服するようなポストモダン(脱近代)な人間主体の模範を、近代の画一的個の強制や官僚主義のセクショナリズムの問題を指摘したヴェーバーの「近代」批判に求める。

このなかで特に注目すべきは(2)であって、民主化を進める戦後啓蒙の文脈にての、戦前の「前近代」的で反動的な天皇制国家の神権性・非合理性に対置させる、合理的で理性的で開明的な「近代」主義の立場からのヴェーバー理解が比較的よく知られている。こうした「近代主義者としてのヴェーバー像」が今日まで広く一般的に浸透している。

取り急ぎ、以上のような相当に大まかではあるが最低限の前知識を持った上で没後百年を迎えるマックス・ヴェーバー関連の書籍に当たれば、それほどの致命的な読み間違えはなく、いくらかスムーズに正当なヴェーバー理解に到達できるものと思われる。

最後にマックス・ヴェーバーの没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が多く刊行されている中で岩波新書の赤、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(1997年)を私は強く推薦したい。

本新書は、先に挙げたヴェーバーの3つの読まれ方のうちの(3)の近代批判のポストモダンの立場からヴェーバーを読み直そうとするものである。そのため本書では「近代知の限界」や「近代知を超えて」や「近代科学の脱構築(ディスコンストラクション)」など、ポストモダン的言辞がやたら出てくる(笑)。そうしてポストモダンの立場からヴェーバーを読み直すということは、これまでのヴェーバー研究にて大勢を占めていた(2)の戦後啓蒙における近代主義賛美の過去のヴェーバー研究を批判することに他ならないのであって、確かに岩波新書「マックス・ヴェーバー入門」では、戦後日本でのヴェーバー研究の主流をなした大塚久雄と内田義彦に対する著者の山之内靖による厳しい批判が展開されている。本書ではヴェーバーの言説(「精神のない専門人、心情のない享楽人」云々)に依拠する形で、ヨーロッパ近代の合理性に対する深い疑いの批判が行われている。

また本新書は「マックス・ヴェーバー入門」というだけあって、最初の章からアダム・スミスとカール・マルクスとヴェーバーとのつながりや異同を指摘して、ヴェーバーを全く知らない読者のためにゼロ知識から読み始めても、この新書一冊を最後まで読み通すことで読了の際にはマックス・ヴェーバーの思想についてのおおよその事柄は分かるようになる、初学者に向け誠に親切丁寧なタイトル通りの「入門」記述となっており、著者の配慮が周到である。その他、「ヴェーバーと神経症」の精神疾患が学者に与える影響やギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミアの非ヨーロッパ地域の古代史探訪を通してのヴェーバーにおけるヨーロッパ中心主義克服の契機とその思想的意義の確認や、従来のヴェーバー研究にてあまり重要視されてこなかった「ヴェーバーとニーチェ」の親縁性の指摘など、「入門」の基本内容を越えた野心ある「ヴェーバー書き換え」の新しい試みも多くあって、岩波新書の赤、山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」は力作であり、読み味が爽快(そうかい)な好著である。

「いまヴェーバーはどう読まれるべきなのか。従来無視されてきたニーチェとの親縁性を明らかにし、ヴェーバー社会学の方法を解きほぐしながら、近代社会に根源的批判の目をむけ知の不確実性を見すえたヴェーバーの姿を浮き彫りにする。通説にラディカルな書き換えを迫る本格的入門書であり、同時にまたとない社会科学入門の書でもある」(表紙カバー裏解説)

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローの岩波新書の書評」(※これまでに書き溜めてきた書評記事の厳選集成であり、以前に別の場所でやっていたブログをそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「岩波新書の書評」は全7カテゴリーよりなります。「政治・法律」「経済・社会」「哲学・思想・心理」「世界史・日本史」「文学・芸術」「記録・随筆」「理・医・科学」です。

お探しの記事やお目当ての新書・著者は、本ブログ内の検索にて入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

最後に。大江健三郎による1960年代の最初の全エッセイ集「厳粛な綱渡り」(1965年)初版の単行本は二段組で全500ページほど。大江の1960年代の思想と文学と行動と生活がこの一冊にびっしり細かに丁寧に書き込まれている。評論・書評・ルポルタージュ、講演・インタビュー、広告文・コラム、日記・雑記…内容は多彩である。「何でもあり」なバラエティブックの様相である。書籍自体も辞書のようで非常に厚くて重い。私は本書を日々携帯し繰り返しよく読んでいたのだが、本書の書き出しは「この本全体のための最初のノート」であった。全六部を経ての巻末は、もちろん「この本全体のための最後のノート」である。大江健三郎「厳粛な綱渡り」全エッセイ集は私にとって昔から非常に感じのよい、もはや手離すことの出来ない極上書籍で愛読の内の一冊だ。大江健三郎には全くもって及ばないが、私も「このブログ全体のための最後のノート」記事をいつの日か書くだろうか。

岩波新書に愛を込めて。(2021・4・1記)

いちばんはじめの書評をめぐるコラム

私は若い頃から「図書新聞」をよく購読し、昔から書評やブックレビューの読みものを楽しんで読んでいた。私は自分で書評ブログを始める際、これまで他人の書評を日常的に読み、かつ研究した結果、自身に課したことがいくつかあった。

(1)自分の身辺雑記や個人情報は書き込まず、最初から書籍の話題にすぐに入り、できるだけ書籍のことについてだけ書く。(2)後々まで読まれることを想定して、時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにする。(3)書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく、「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような、横着な読者に便宜を供する都合のよい「書評もどき」の記事は書かない。(4)書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよい。点数をつけて採点したり、毎回、必ず評価を確定させなくてもよい。ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」掘り下げて説明するようにする。

(1)に関しては、最近はインターネット環境の普及で皆が「書評ブログ」をよく書くようになった。書き出しから書評本と自身の出会いのエピソード紹介(「本当はその分野の本には全く興味がなかったのに学生時代、恩師に薦められてつい」)とか、その書物をどういう状況で読んだか(「帰宅途中の電車で読んでいたら面白すぎて没頭してしまい、降りる駅をやり過ごして終点駅まで行ってしまった」)だとかの身辺雑記や個人情報を「枕の文章」として最初に熱心に長々と語る人がいるけれど、そうして「自分語り」だけ熱くやって書物のことにあまり触れないで、そのまま終わる「自分大好き」な困った人が時にいるけれども(笑)、そういうのは必要のない余計な情報だ。

普遍的な人生の真理として、「私が自分の生活や人生に関心があり大切に思っているほどには、実は他人は私の生活や人生に関心や興味はない。皆が自分のことだけ大事で案外、他人のことには無関心でどうでもよいと思っている」。だから、世間の皆がその人の私的なことまで知りたいと思っている芸能人や著名人ら余程の人気者とか有名人でない限り、一般の人は自身の身辺雑記や個人情報は語らずに最初から「即(すぐ)」でスムーズに書籍の内容記述に入って、書評の内容だけで終わらせるのがよい。

(2)については、例えば1990年代当時に「オウム真理教」の話題が世間を騒がせ人々の耳目を集めたが、時事論やニュース解説の文章でない場合に、あえて例えの説明に「オウム事件」云々を書き入れてしまうと、当時は時宜を得て(タイムリーで)新鮮でよいけれど、後に時間が経って2020年代に読むと、その書籍にはいかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。だから、自分の文章が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにした方がよい。

(3)の、書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく「書評」は今日、ネット上で確かに人気がある。おそらく、そうした方が確実にアクセス数も増えるに違いない。しかし、それは「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような(昨今は、こうしたことを期待する怠け者の横柄な人が本当に多い)横着な読者に便宜を供する都合のよい記事で、読み手を甘やかす堕落の「書評もどき」なので私は感心しない。

(4)のように、書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよいけれど、ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」を掘り下げて説明するようにしたほうがよい。ただ単に「これは絶対に読むべき名著だ」と激賞したり、逆に「この本は読むだけ時間の無駄」と酷評して採点するだけの、そのまま言いたい放題の放り投げで終わる短文書評を特に「アマゾン(Amazon)」のブックレビューでよく見かけるが、毎度読んで「あれは良くない」の悪印象が私には残る。

岩波新書の書評(521)中野敏男「ヴェーバー入門」

(今回は、ちくま新書の中野敏男「ヴェーバー入門」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、中野敏男「ヴェーバー入門」は岩波新書ではありません。)

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。中野敏男「ヴェーバー入門」(2020年)は、そのうちの一冊である。

中野敏男「ヴェーバー入門」は、直裁(ちょくさい)に言ってマックス・ヴェーバー研究ではない。本書はヴェーバーに関連した現代評論の思想的読み物である。ヴェーバーの思想内実を明らかにした厳密な学術研究ではなくて、「私ならヴェーバーをこのように読む。こう読み解いてヴェーバーを現代思想に活かす」程度の話の「ヴェーバー入門」なのであった。

つまりは、著者である中野敏男が「実はヴェーバー社会学には、このような深い考察の広い問題射程まで有するものであるから、そこを押さえてマックス・ヴェーバーは正統には読まれるべき」旨の、没後百年の節目に当たり、2020年の現代に生きる中野自身による個人的な独我的読みの解釈披露たる「ヴェーバー入門」なのであって、マックス・ヴェーバー当人の本意を汲(く)んだ、20世紀初頭のドイツに生きた実際のヴェーバーその人についての厳密なヴェーバー研究ではない。しかも「ヴェーバー入門」といいながら内容はそこそこに複雑高度であり、今回初めてヴェーバーに接する初学者に向けての分かりやすい解説記述に必ずしもなってもいない。そのため、著者の中野敏男をあまり知らない人、これまでの彼の社会学研究の問題関心や政治的立場を共有できていない者、全くのマックス・ヴェーバー初心者には、中野「ヴェーバー入門」は訳が分からず、本新書に関し酷評の低評価も十分にあり得る。

ここで本書の目次を見よう。中野敏男「ヴェーバー入門」は「はじめに」「おわりに」を巻頭巻末に置いて全四章よりなる。

「はじめに・ヴェーバー理解社会学を再発見する、第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生、第2章・理解社会学の最初の実践例・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む、第3章・理解社会学の仕組み・『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む、第4章・理解社会学の展開・『世界宗教の経済倫理』を読む、おわりに・理解社会学における『近代』の問題」 

まず「はじめに」にて、これまでの「ヴェーバー入門」と称する先行書籍がことごとくヴェーバーの理解社会学にほとんど触れていない無理解を批判し、そうして「第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生」でヴェーバーにおける理解社会学の原理的概要を解説し、次の「第2章・理解社会学の最初の実践例」で、先の理解社会学の手法に基づいてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)を実際に読んでみせる。さらに「第3章・理解社会学の仕組み」で、「経済と社会」(1921年)の中の「宗教ゲマインシャフト」の項を読み、そこから社会を「行為と秩序」の二元論的構成でとらえて、それまで社会を漠然とした一元論で単純認識していた、いわゆる「二つの流出論」「自然主義的一元論」に対する批判をヴェーバーの著述から読み取る。また「第4章・理解社会学の展開」では、同様に「世界宗教の経済倫理」(1915年)を読んで、そこからピューリタンを始めとする各種宗教の倫理から「合理主義の系譜」=宗教的担い手における意味への問いの否認(反知性主義)を読み取る。その上で、これまでの本論を踏まえ「おわりに」でヴェーバーの理解社会学により、

(1)社会を「行為と秩序」の、行為者とシステムの二元論の概念構成にて相対的かつ相補的な関係性で理解することを通して、文化領域の社会システムに人間主体が容易に囲い込まれ硬直する(「精神なき専門人、心情なき享楽人」の人間疎外の深刻状況になる)ことを批判的にとらえ、そうした事態にならないよう「人間と社会の脱一体的理解」へと導く。

(2)ある種の宗教倫理から来る、宗教的担い手における意味への問いの否認を、物象化した合理化・専門化である所の反知性主義と否定的に措定して、それへの対抗たる、世界を分裂・矛盾の連続過程として問題的にとらえ人間主体の世界認識である知性の更新を絶えずはかるような「知性主義」を、この反知性主義に対置させる。

こうして(1)(2)により、人間社会への静的理解である「物象化」の弊害を回避し、動態的理解の更新を絶えず重ね続ける脱近代(ポストモダン)な理解社会学を基礎としたヴェーバーの読み解きを行うことこそが、例えば本書にて著者の言う「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」ことの意味であるとする。

しかし、それにしてもヴェーバーの理解社会学から社会の物象化批判とか、宗教倫理を通しての反知性主義への対抗まで勝手に読み込む、中野「ヴェーバー入門」でのポストモダンなヴェーバー像の提示に、さすがに私は度肝を抜かれる。20世紀初頭に生きた社会科学者のマックス・ヴェーバーに、近代社会の物象化批判や脱近代の知性主義を過剰に万能に読み込み過ぎである(笑)。ここまで超人的な洞察でヴェーバーが現代社会の物象化や反知性主義の問題にまで論及できていたとは、にわかに私には信じられない程である。もはや、ここにあるのは現実に生きた歴史上のヴェーバーではない。

私はヴェーバー全集での主要著作もヴェーバー研究も、それなりに読んでいる。私の知る限り、マックス・ヴェーバーという人は、若い頃からドイツの軍隊に何度か志願し入隊して、50歳を過ぎた晩年にも健康が優れない中で第一次世界大戦に従軍し母国ドイツの戦勝を心から願って、だが第一次大戦にてドイツは敗北し、しかも戦時のドイツ革命を経てドイツ帝国の崩壊からドイツ共和国への移行に伴い、合理性の観点から新生ドイツ再建のために政治論文を意欲的に執筆した、彼はせいぜいよく言って近代の健全な国家主義者(ナショナリスト)といった程度である。ヴェーバーは決してポストモダン論者などではなかった。

本書を未読の人は、以下のような妙に力の入った(笑)、著者による並々ならぬヴェーバー読み込みの決意が表れた表紙カバー裏解説文を踏まえた上で実際に本書に当たるとよい。また本書を既読の方には本論内容に照らして以下の、著者のかなり熱い思いが込められた表紙カバー裏解説文を今一度、確認し味わって頂きたい。

「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える。これが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった。だが、奇妙なことに従来の議論では、彼自身のこの問題意識が見落とされている。本書では、ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす。主要著作を丹念に読み込み、それらを貫く論理を解き明かす画期的入門書」(表紙カバー裏解説)

何しろ「理解社会学こそが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった」の強い断定の上で、かのマックス・ヴェーバーに関し「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」の壮大で過剰な読み込みの中野敏男「ヴェーバー入門」であるのだ。ゆえに本書を読んで現実のマックス・ヴェーバー、社会科学者のヴェーバーの実像とは異なるなどと激怒して、安易に批判してはいけない。

私も中野と同様、理解社会学がヴェーバーの社会科学の思想的営みの中心の根底にあったと考える。ただ「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える」理解社会学は何もヴェーバーのみが突出して唱えた彼の専売特許であったわけではない。ヴェーバーが生きた20世紀初頭のドイツでは、ディルタイ(1833─1911年)やジンメル(1858─1918年)ら同時代の他の社会学者にも「生の哲学」として一般的に広く見られた研究手法であり、理解社会学の方法は当時の社会科学での時代の流行(トレンド)だった。ヴェーバーの時代には、社会事象を考察する際に、個人と事柄の外面的な因果関係の説明で無難に済ませることでは不十分で、もはや許されず、社会行為をなす行為者当人にとっての主観的な意味・動機の了解(理解)機成にまで踏み込み、掘り下げなければならない近代社会学の学問になっていたのである。

ヴェーバー読解のヴェーバー把握にて、ヴェーバーの理解社会学の試みを不当に軽く見て看過することは出来ないが、また他方で本書「ヴェーバー入門」での中野敏男のようにヴェーバーの理解社会学の要素を余りにも前のめりで過剰に多く見積もり、そこまで高く持ち上げる必要もないというのが、本書読後の何よりの私の率直な感想である。

最後に。ここまで散々に書いてきて、もう誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こう見えて私は昔から中野敏男のファンである。中野の論文や著作や座談など今まで公的に刊行されたものは全てだいたい読んでいる。中野敏男の仕事にはヴェーバー、丸山眞男、大塚久雄、北原白秋、高村光太郎、近代法システム、戦時動員と戦後啓蒙、日本の戦争責任、沖縄基地問題ら多岐に渡って優れたものが多くある。

なかでもマックス・ヴェーバー関連でいえば、日本人にヴェーバーを大々的に紹介した日本でのヴェーバー研究の第一人者である大塚久雄(1907─96年)に関する中野の研究は特に優れている。中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」(1997年、中野「大塚久雄と丸山眞男」2001年に所収)は、十五年戦争時の戦中の戦時動員から、1945年の敗戦後の戦後啓蒙へと大塚がみずからの思想的立ち位置を大きく変える際に、戦前初出のヴェーバーに関する研究である大塚「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」(初出1943年、改訂1946年)の結語を戦後の改訂版では都合よく、こっそり大塚が書き換えて改変しているという大塚久雄のヴェーバー研究における巧妙な書き換え策術を指摘し明らかにしており、読んで非常に面白い。中野「ヴェーバー入門」に続いて、中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」をまだ未読な方には是非、本論文まで手に取り読んで頂きたい。

岩波新書の書評(520)今野元「マックス・ヴェーバー」

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。今回の「岩波新書の書評」で取り上げる新赤版の今野元「マックス・ヴェーバー」(2020年)も、そのうちの一冊である。

「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をはじめ、今も読み継がれる名著を数多く残した知の巨人マックス・ヴェーバー(一八六四─一九二0)。その作品たちはどのようにして生み出されてきたのか。百花繚乱たるヴェーバー研究に新たな地平を拓く『伝記論的転回』をふまえた、決定版となる評伝がここに誕生」(表紙カバー裏解説)

これまでのマックス・ヴェーバー研究では、彼の主要著作を任意に挙げその都度、読み方解釈が解説なされてきた。例えばヴェーバーの代表作「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)、「職業としての学問」(1917年)、「経済と社会」(1921年)らに関し、その言わんとする内容を適切に読み取り、それをマックス・ヴェーバーの業績の高評価につなげ、さらにこのヴェーバー著作から読み取れる所を現代社会や特に近代日本の歴史に落とし込んで、現代社会の問題指摘や日本の近代化批判に活かすような研究操作が一般的であった。そして、このような手法を取る従前のマックス・ヴェーバー研究の蓄積は膨大な数に上(のぼ)る。まさに「百花繚乱たるヴェーバー研究」の様相であるのだ。

今般の今野元「マックス・ヴェーバー」は、それら先行研究とはヴェーバーへの近接方法が少し異なっている。つまりは従来のようにヴェーバーの著作を任意に挙げて、読み方の解釈を自由に論じるのではなく、彼の生誕から逝去まで、同時代のドイツの歴史を随時参照しながら時系列の年単位で厳密に人生の行く筋を追跡することにより、マックス・ヴェーバーの生涯とその思想的営みの内実を見極めようとする「評伝」記述の手法を一貫して取っているのである。著者は本新書冒頭にていう、

「本書は、マックス・ヴェーバーの『人格形成物語』を描く試みである。その狙いは、個別作品の鑑賞ではなく、それを生み出した文脈、つまりヴェーバーの生涯およびそれを取り巻く歴史的文脈の解明にある。こうした手法的転換を、本書では『伝記論的転回』と読んでいる」(「はじめに」)

また本書巻末にても、

「私はヴェーバー研究の『伝記論的展開』を提唱している。…作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。それはちょうど、映画をそのメイキング映像と合わせて鑑賞するようなものである。思想研究と歴史研究との融合と言ってもよい」(「おわりに」)

なるほど、マックス・ヴェーバーにおける個別作品の解釈ではなく、「伝記」を押さえ理解することの「手法的転換」を通してなされる、本書はヴェーバーその人についての「人格形成物語」である。確かに、本書は著者みずからが言う通り「伝記研究」なのである。没後百年の節目で手に取り読んだ幾つかのヴェーバー関連書籍のうち、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」は、私には強く印象に残った。読んで新鮮に感じた。というのも、これまで主に私か読んできたマックス・ヴェーバー研究は、任意の著作を主に挙げて読みの解釈を自由に論じる方法、著者がいう所の「作品解釈に没頭する従来の研究手法」に依拠するものがほとんどで、そこまで時系列の評伝記述にこだわったヴェーバー研究を意識的に読んだことがなかったので。

私は、これまでマックス・ヴェーバーについては経済史学者の大塚久雄(1907─96年)のものを中心に愛読してきた。2000年代以降の現在ではそうでもないが、日本の戦後(1945年)から大塚が存命中の1990年代くらいまでは、大塚久雄は日本におけるマックス・ヴェーバー研究の第一人者であり大家であって、ゆえに影響力があった。何よりもヴェーバーの代表作である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を本格的に日本語全訳(1955年、岩波文庫)したのは大塚久雄であったし、大塚は十五年戦争時の戦中から1945年の敗戦を経ての戦後民主主義の時代に至るまで、いつの時でもヴェーバーに言及し続けた人だった。

大塚はマックス・ヴェーバーを通して、戦時の天皇制ファシズムの神権性・非合理への傾斜の前近代的なものを合理的な近代主義の立場から後に明確に批判できたし(「魔術からの解放」1946年)、他方で「精神なき専門人、心情なき享楽人」といった近代人の疎外状況や近代社会における画一的個の強制、官僚主義のセクショナリズムの問題指摘(「生活の貧しさと心の貧しさ」1978年)の反近代主義の論説も同時に展開できた。大塚久雄はヴェーバーに絡(から)めていつの時代でも近代化論の是非議論にて自在であった。そうした大塚久雄から主にマックス・ヴェーバーを学び知った私には、その都度、大塚が提示するヴェーバー像の読み解きに夢中で各論の断片がバラバラにあった。そのため今回、改めて今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読めて、それが新鮮で新たな感慨であったのだった。

本新書を読んで、ヴェーバーの学問を志(こころざ)す学生時代から論文・著作執筆にて世に知られ大成する成年期、さらには精神的不調に悩まされる壮年期、晩年とその生涯の評伝記述を読むにつけ、マックス・ヴェーバーその人への理解が深まる。本書巻末の「マックス・ヴェーバー略年譜」を見るにつけても、ヴェーバーの学歴と職歴、公演録と論文・著作の発表、病歴や海外渡航の履歴まで西暦年だけでなく詳細な日付まで記述してあるのは、本文ともどもに読んで大変に参考になる。この点で本書は有益である。本新書を一読して「人に歴史あり」の率直な感慨を私は持つ。

1860年代から1920年までのヴェーバーが存命した時代の母国ドイツは、普仏戦争(1871年)でのフランスに対する勝利を経て、宰相のビスマルク、そして皇帝のヴィルヘルム2世の親政により大きく発展しドイツ帝国は世界各地に覇権を広げ英仏と激しく対立する帝国主義的世界政策を推進して、しかし第一次世界大戦の勃発(1914年)にてドイツは敗北を喫し、ついで戦時の国内反乱にてのドイツ革命でドイツ帝国が崩壊し皇帝は亡命してドイツ共和国の成立(1918年)を見るというドイツ国民にとっては激動の時代であった。そのような時代に生きて、マックス・ヴェーバーが若い時代に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗で自然淘汰の社会思想に基づき、自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えた。また第一次世界大戦の開戦時、ヴェーバーはすでに50歳で健康に優れなかったが、予備役招集に応じ自ら戦地に行っている。戦時の彼はドイツ人同胞の精神的高揚に感激し、まさに愛国的であった。ヴェーバーが第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心底願って、ある種の排外的民族主義やナショナリズムにのめり込んでしまうのも致し方ないことであった。

かのマックス・ヴェーバーといえども学問的真理や正しい倫理思想に常にたどり着けた誤謬(ごびゅう)なき超人などでは決してなく、彼も時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったのだ。

今野元「マックス・ヴェーバー」では、ヴェーバー評伝の最後に「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」の終章を置き、ヴェーバーとヒトラーの共通部分を挙げて本論記述を結んでいる。

「二人(註─ヴェーバーとヒトラー)の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。従来は、主体性(近代的自我)とは抑圧と侵略とに抗する砦(とりで)であり、その涵養(かんよう)が戦後(=第二次世界大戦後)日独の政治課題である。…主体的な人間は他者との対決を厭(いと)わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」(「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」)

ヴェーバーが没した1920年にヒトラーはドイツの政治の表舞台にまだ登場していない。1920年のヒトラーといえば、第一次世界大戦でドイツ帝国の義勇兵として戦場に赴くも、マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより病院に収監。入院中に第一次大戦が終結して、この後、ドイツ労働者党の活動に入り軍を除隊。ヴェーバーが56歳で没した1920年にヒトラーは31歳で、ヒトラーがナチ党で最初の国政選挙に臨み国会議席獲得を果たして、いよいよ政治の表舞台に大々的に登場し人々に注目されるのは、この8年後のヒトラーが39歳の1928年であり、時間的に大きな隔(へだ)たりがある。ヴェーバー評伝の最後にヒトラーを連結するのは、いかにも唐突である。

当然、ヴェーバーとヒトラーとの間に直接の交流はない。にもかかわらず、「二人の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。…主体的な人間は他者との対決を厭わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」とまで述べて、ヴェーバーにおける近代人の主体性の強調が、そのまま後の時代のドイツのヒトラーにおける排他的民族意識や軍事的侵略主義の社会国家主義のファシズムに直結して、あたかもヴェーバーが後のヒトラーの思想的階梯(かいてい)の前段階をあらかじめ用意したような書きぶりになっている。その上でヴェーバーにもヒトラーにも両者に共通するのは「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」の「悲劇」であり、それゆえマックス・ヴェーバーの生涯の評伝記述の見出しのラベルは「主体的人間の悲劇」になるのである。確かに、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」のサブタイトルは「主体的人間の悲喜劇」なのであった。

この辺り、マックス・ヴェーバーも時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったので、第一次世界大戦前後のドイツの民族主義やナショナリズムに傾倒するのも仕方のない気がする。たとえヴェーバーが一時的に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗の自然淘汰の社会思想に基づき、(後のヒトラーによるナチス・ドイツのユダヤ人排斥やファシズムの侵略主義を連想させるような)自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えたり、第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心より願って自国の勝利に熱心であったとしても、それら評伝記述の状況歴史的な言動以外の所で、ヴェーバーの学問的業績の価値や意義が損なわれることなない。思えば、ヘーゲルは同時代のフランス革命時のナポレオンに一時は心酔していたし、ハイデッガーも第二次世界大戦時の母国ドイツのヒトラーに共感を寄せ支持していた。だが、それら状況歴史的な実際の言動と彼らの哲学思想の業績はやはり別物である。

またマックス・ヴェーバーの生涯をして、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」=「主体的人間の悲喜劇」などと後の時代のヒトラーと同一視して論じまとめているが、そもそも近代という時代は、状況や対象に対し人間個人の自我が積極主体的に働きかけて認識し思考し発言して行動する「主体性の希求」発露の時代なのであって、その人間個の主体性の発露をヒトラーの自伝「わが闘争」(1926年)に暗に引きつけて「人間の主体性の希求」=「闘争の志向」などと大げさに言う必要もない。確かにマックス・ヴェーバーは近代ドイツに生きた人なので、彼に「近代的自我による主体性の希求」はあったが、それはヴェーバーのみならず、同様に近代の時代に生きたヒトラーにも、また現在この文章を書いている私にも、そしてこの文章を読んでいるあなたにも、つまりは近代の時代に生きる人には誰でも普通にあるものだ。近代の時代に生きる人には誰にでも、おおよそ「近代的自我による主体性の希求」といったものはある。

マックス・ヴェーバー評伝にて、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」、それはすなわち「主体的人間の悲喜劇」などと大げさに呼び、ヴェーバーを後の時代のヒトラーと一括し同一視して乱暴にまとめてしまうのは、本書を最後まで読んで正直、馬鹿らしい思いもする。岩波新書の赤、今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読んで、それが従来のヴェーバー研究の近接方法とは異なり新鮮で新たな感慨を引き起こす良評価の側面があったとはいえ、少し残念な結語の読み味である。

岩波新書の書評(519)川名壮志「記者がひもとく『少年』事件史」

岩波新書の赤、川名壮志(かわな・そうじ)「記者がひもとく『少年』事件史」(2022年)の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「白昼テロ犯・山口二矢、永山則夫、サカキバラ、…。殺人犯が少年だとわかるたびに、報道と世間は、実名か匿名か、社会の責任か個人の責任か、加害・被害の立場の間で揺れ、戦後から現在まで少年像は大きく変わった。二0歳から一八歳へ成人年齢が引き下げられる中、大人と少年の境の揺らぎが示す社会のひずみを見つめる」

「記者がひもとく『少年』事件史」の著者・川名壮志は本書執筆時、毎日新聞社の「記者」である。そのため、本書のタイトルは「記者がひもとく『少年』事件史」となっているわけである。現役の新聞記者が概説する戦後日本社会の少年事件史であり、全8章に渡り、戦後復興期から本書執筆時の2020年代までの、当時より社会的に注目を集め人々を騒がせた主要な「少年事件」(20歳未満の未成年者が主犯の殺人事件)を取り上げている。 

本新書の読み所のウリは、いわゆる「少年事件」の概要(犯行状況、刑事裁判の結果、事件発生の社会背景・時代傾向)に加えて、事件発生直後の第一報から後日の続報に至るまで、朝日、読売、毎日新聞の全国紙3社の見出しを必ず挙げている点である。その上で当時の日本社会で未成年者による殺人事件がどのように人々に報じられ、共有されていたかを分析している。この新聞報道に依拠している点において、本書はまさに「(新聞)記者がひもとく『少年』事件史」であるのだ。また本書のサブタイトルは「少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」であった。

なるほど、戦後から今日までの主要な「少年事件」を新聞というメディアを通し概観することの利点は確かにある。著者は本論にて以下のように述べている。

「『少年』像が時代によって変容することを示す格好の資料、それが新聞紙面だ。デジタル時代とは違い、アナログな新聞紙は、紙幅に限りがある。政治や経済、社会で起きたニュースと比較しながら、必然的に少年事件の記事の扱いが決まる。特に記事の扱いをめぐっては、大人の事件よりも、少年事件の方が、より世相と結びついている。掲載されたページ、見出しの取り方、記事のボリューム。紙面でどう扱われたかをみることで、当時の世相の関心や、時代の息づかいをたどることができる。速報性のメディアである新聞も、長い歳月でたどると、鮮(あざ)やかに『歴史』を浮き彫りにすることができるのである。そして、こうして事件をたどってみると、朝日、読売、毎日とも、紙面での扱いには、大きな違いがないことがわかる」(「なぜ新聞?時代が変える少年事件」)

私はそこまで殺人事件一般や20歳未満の未成年者による犯罪事件に日頃から関心を持ち、特に調べているわけではない。しかし、本書で扱われている「少年事件」のことは不思議とだいたい知っていた。戦後の早いの時代に私はまだ生まれていないが、「戦後復興期・揺籃(ようらん)期の少年事件・少年事件は、実名で報道されていた!」の章で扱われている、例えば連続ピストル射殺事件(1968年、19歳の少年、永山則夫による連続殺人事件。1990年に死刑判決が確定。1997年に死刑執行)は、戦後史の中の重大事件の歴史のひとコマとして知っている。永山則夫による一連のピストル射殺事件は、極刑の死刑を下す際の後の判例根拠となる「永山基準」(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を供する司法案件であり、「少年事件」であるか否かに関わりなく、戦後日本の司法の中で大変に大きな事件であった。

また光市母子殺人事件(1999年、18歳の少年による母子殺人事件。2012年に死刑判決が確定。現在は死刑囚として勾留中)は、被害者家族が実名・顔出しで会見を行い、その遺族の言動に対抗するかのように、加害側の少年も獄中からの手記や面会人との面談で自身の犯行を正当化したり、被害者遺族を挑発するような発言をなした極めて異様な事件だった。「遺族の絶望感情を回復させるために極刑の死刑を望む。被告が未成年であることで死刑が回避され、少年法による保護処分で後に加害少年が社会復帰を果たすなら、そのときは自分の手で殺す」旨の被害者遺族の過激発言で、本件を通し「社会経験少なく人格的に未熟な未成年者には刑罰と共に矯正更生も重視する少年法の精神の保持か、さもなくば遺族の無念と復讐感情に配慮し未成年者へ厳罰化の方向での少年法の改正(さらには未成年への配慮なしに成年と同様に責任を取らせるべく少年法の廃止)か!? 」の狭量な二者択一の、かなりいびつな社会議論がいつの間にか形成されていた。この頃から「少年事件」に対し、加害者である未成年者への酌量・矯正更生よりも、被害者と遺族の無念・復讐感情を満たす厳罰の方向へ大衆世論は大きく転回したのであった。この点を的確にとらえ表した、本書での光市母子殺人事件の「少年事件」を扱った章タイトル「少年事件史の転生・加害者の視点から被害者の視点へ」は秀逸である。

岩波新書「記者がひもとく『少年』事件史」の著者である川名壮志には、「謝るなら、いつでもおいで・佐世保小六女児同級生殺害事件」(2014年)という著作もある(2018年に新潮文庫に収録)。川名「謝るなら、いつでもおいで」は佐世保小6同級生殺人事件(2004年、11歳の少女が同級生少女を学校の教室で殺害。刑罰を科されない触法少年のため、児童自立支援施設に送致)を取材し、まとめたものである。被害女児の父親は新聞社支局長であり、新聞記者の著者・川名壮志の直属上司であるという。本書タイトルになっている「謝るなら、いつでもおいで」は事件を受けて後年、加害少女へ向けての被害者の兄の言葉である。佐世保小6同級生殺人事件は11歳の小学生女子が学校教室内で同級生女子を殺害するという、未成年の「少年」(20歳未満で14歳以上)ですらない、まだ「子供」(14歳未満)による殺害犯行であることに社会は衝撃を受けたのだった。少なくとも当時、リアルタイムで事件の全容を知って私は驚愕した。

川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は読んで相当につらい内容だが、やはり同時代の同じ社会に生きる人間として一度は読んでおくべきだろう。殺人事件に関するルポで事件被害者の思いを述べた名著に、以前に新宿西口バス放火事件(1980年)の被害者の手記、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」(1983年)があった。川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」を思い起こさせる力作である。両書ともに殺人事件に巻き込まれた被害者と遺族が加害者に対し、そのままの直情的な憎悪の復讐感情や仇討ちの心情で処するべきではない、凶悪犯罪への理性的で社会的な向き合い方を、他ならぬ一番つらいはずの被害者当人、被害者家族が直に読む者に教えてくれる。未読な方は是非。

岩波新書の書評(518)「シリーズ中国近現代史」全6巻

近年の岩波新書は中国史関連の書籍が充実している。19世紀の清朝から始まる現代までの中国史概説である「シリーズ中国近現代史」全6巻(2010─17年)を、それとなく手に取り、全巻読了して弾切れになった所で、今度は、黄河文明の古代から清朝の19世紀までを概説した「シリーズ中国の歴史」全5巻(2019─20年)があったので続けて全冊読んで、結局のところ数カ月のかなりの長い間、岩波新書の中国史書籍を私は読みふけっていたのだった。

こうした2010年代以降の、近年における岩波新書の中国史関連への力の入れ方は今日、中国が急速に大国化し政治的かつ経済的にグローバルな世界の中で大きな存在感の多大な影響力を有して、もはや世界の人々は中国の存在や振る舞い動向を注視せざるを得ず、そうした時流の中で今一度、現代の大国たる中国の成立から今日に至るまでの出自と展開の歴史を概観し総括しておくべきとする強い問題意識が、出版元の岩波書店にあるからだと思われる。

現代中国が強力に推し進める中国を起点として東南アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカを連続で結ぶ広域経済圏構想である「一帯一路」や、近い将来に勃発が懸念されている台湾海峡有事、すなわち中国本土に台湾を回収する中国共産党指導部にとっての悲願の念願たる「一つの中国」ら、確かに今日の大国・中国の動向に世界の人々は注目せずにはいられないのである。

私は、NHK「映像の世紀・バタフライエフェクト」(2022年─)のテレビ番組を楽しみでほぼ毎週視聴しているが、当番組での「竹のカーテンの向こう側・外国人記者が見た激動中国」「ふたつの超大国・米中の百年」など、中国関連の特集回は強く印象に残る。

近年、急速な大国化の懸念から現代中国に対する発言・言及や報告・評論の文章は多い。もともとの反共論者で、いわゆる「共産主義者嫌い」から共産党指導体制の中国をあからさまに悪く非難したり、中国への敵意の当てつけから、中国と現在敵対関係にある台湾やチベットに異常に肩入れして親身に味方する人達も多い。それら現代中国に関する言及や記述で、それが真面目に傾聴したり熟読したりするべきものであるかの私なりの判断基準を最後に示しておこう。

現代中国に関して、19世紀のアヘン戦争から1945年の第二次世界大戦の東アジア戦線終結の間まで、欧米列強と日本に干渉され侵略され領土分割され、蹂躙(じゅうりん)され続けて散々な苦杯の屈辱をなめさせられてきた近代中国の歴史を全く踏まえることなく、現代中国の高圧的なナショナリズムの高揚、国際政治における大国主義的で覇権的な中国の振る舞いをそのまま無邪気に直接に痛烈非難するような、中国や中国の人々に対する感情的な批判言辞には、大して真面目に傾聴したり熟読したりする必要はない。それらは軽く聞き流し、読み流してよい。そこには現在の中国の過剰な愛国主義や大国ナショナリズムの台頭由来への内在的考察の配慮が欠けているからである。

今日の中国に大国主義や覇権主義の高圧的ナショナリズムを読み込んで中国を悪く言い募(つの)ることは比較的たやすい。むしろ安直すぎる。それ以前に中国近現代史を学んで、「なぜ中国が今のような頑(かたく)な帝国主義的国家になってしまったのか」を考えるべきだ。中国近代史において、あそこまで日本を加えた欧米列強に中国本土が支配され蹂躙されていなければ、かつて諸外国から領土分割され帝国主義支配を受けたという屈辱のルサンチマン(怨念)に満ちた、現在のような逆上した高圧的な覇権国家の中国は成立しなかったのでは、と私には思える。近代中国史を学び知るにつけ、中国の人たちは誠に気の毒である。

特に冷戦後の東アジア情勢は、欧米諸国と日本が中国に対する後先を考えずに奔放であった、かつての自分たちの中国に対する帝国主義的侵略行為の跳ね返り、過去よりの、いわば「世界史の負債」をいまだ各国ともに払わされ続けているのだ。

例えば、幼少期から青年期に肉体的ないしは心理的虐待やいじめや貧困の相当な困難があって現在、妙にひねくれていたり、時に暴言・暴力的であったりするような問題人物がいたとして、その人の過去の生い立ち事情を知っているなら、当人に対し頭ごなしに叱咤したり感情的に激怒したりの人格否定のようなことはしない。少なくとも私はそういう人に接した際には、短絡的で直情的な非難の攻撃は絶対にやらないのである。そうした問題人物の奔放な言動を全肯定で容認し放置することはないにしても、熟考してより慎重に宥和(ゆうわ)的に穏やかに対応するだろう。

岩波新書の書評(517)田中彰「小国主義」(その3 石橋湛山)

前々回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、前回と今回で中江と石橋について改めて個別に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は、大正・昭和の経済評論家であり政治家である石橋湛山についてである。

「石橋湛山(1884─1973年)は経済評論家、政治家。 『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮のもとで、小日本主義といわれる朝鮮・満州など植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策を提唱。のちに東洋経済新報社社長。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の蔵相。1956年首相。日中・日ソ国交回復に尽力するも、病気のため2ヶ月で総理を辞任」

石橋湛山は大学卒業後、新聞社に就職しジャーナリストとして活動して、その都度、数回に渡りみずから志願し軍隊に入隊している。その後、経済専門誌出版事業の東洋経済新報社に入社する。「東洋経済新報」誌上で経済評論を発表し続け、やがて頭角を現し、東洋経済新報社の主幹(編集長)を経て代表取締役(社長)となる。石橋湛山は現場の叩き上げの経済記者から東洋経済新報社の社長にまで登り詰めたのであり、非常に優秀である。石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつも私はする。

石橋湛山は「小日本主義」を唱えた。小日本主義とは大正・昭和の時代、政府がとる軍事による大陸侵出の膨張路線である大日本主義に対し、平和的な貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州らの日本の植民地放棄を主張する立場である。特に満州事変後と韓国併合後の、満州と韓国の日本による植民地支配と外地への日本人移民の流出を強く批判したことから、小日本主義は「満韓放棄論」「移民不要論」と呼ばれることもある。石橋は小日本主義の論陣を張って、同時代の対華二十一カ条要求、シベリア出兵、満州事変ら大国主義の政治を厳しく批判した。 

石橋湛山の小日本主義の植民地政策批判に関しては、「どういった理由で石橋が、当時の政府にとっての最重要国策である東アジアへの大陸膨張路線の新たな植民地の獲得・経営たる大日本主義を批判し、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄を説いていたか!?」その内容を見極める必要があるだろう。石橋湛山による小日本主義の主張は、「青島は断じて領有すべからず」(1914年)、「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)、「大日本主義の幻影」(1921年)らの評論にてその都度、展開されているが、各論説ともに毎回連続し通底してある「日本が植民地放棄をすべき」主な論拠は以下の2点に集約される。

(1)日本が東アジアの大陸に侵出を重ね多数の植民地を獲得し植民地経営しても、何ら経済利益が見込めない。むしろ日本内地から台湾・朝鮮・満州の外地の植民地への資産持ち出しや現地支配の行政コストにより、日本の植民地経営は毎年、累積赤字が膨らむ一方であり、植民地の獲得・経営は経済的に無価値である。「日本の帝国主義的な覇権伸張」といった自国の領土拡大という目先の「小欲」の満足に溺(おぼ)れることなく、大局的見地から日本にとっての本当の意味での国益を考えるとき、一切の植民地を放棄をして、内地のみの小日本主義に徹するべきである。

(2)東アジアにて日本が奔放自由に軍事衝突の戦争を仕掛け戦勝にて多数の海外植民地を得ることは、中国分割など同じくアジア侵出を進める欧米列強の反感を買い、遂には日本が「極東の平和に対する最大の危険国」と見なされ警戒される。それで日本が国際的に孤立すれば諸外国との通商貿易にて大きな障壁となり、日本の国益を著(いちじる)しく損ねる。また軍事侵攻により露骨に中国侵略して現地の中国人に「不抜(ふばつ)の怨恨」を抱かせ結果、日本製品不買(ボイコット)運動ら海外市場からの締め出しを日本企業が喰らう懸念もあり、通商上、植民地獲得で大国化の膨張路線は日本にとって得策とは言い難い。ゆえに、わが国は植民地放棄の小日本主義に徹した方がよい。

これら石橋による、小日本主義における2つの「日本が植民地放棄をすべき」主要論拠が、いずれも日本にとっての経済的なコスト原則の損得勘定に依拠していることに留意されたい。思えば、石橋湛山は「東洋経済新報」の記者が出自の経済評論家なのであって、同時代の日本の海外政策を考える際にも最後はことごとく日本にとっての経済利益の話に収束させて、そうした経済的観点から思考判断するのが常であった。この意味で冒頭で述べた、石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつもするの、私の感慨理由も納得して頂けると思う。

石橋は台湾や朝鮮や中国の人達に対し、民族自決の原則を尊重し彼らのことを思って東アジアの人々の各国の独立を認めるような、他者の権利保障の規範原則の立場から、日本による海外の植民地支配批判の小日本主義を主張したのでは決してない。当面の日本にとって軍事侵略による植民地の獲得・経営が、日本の経済利益に全くなっていない(むしろ、逆に多大な経済損失を日本にもたらしている)という理由により、当時の日本の国策たる大国主義を批判し植民地放棄の小日本主義を彼は力説したのである。当の石橋湛山からすれば、日本の繁栄のために植民地は経済利益の点で全く必要でない。事実「朝鮮、台湾、樺太ないし満州は日本にとって経済利益に何らなっていない。だから、それら地域に対しては 『自由解放 』の政策で処するべき」旨の単純素朴な考えなのである。このように、民族自決の原則を尊重して東アジア地域の人々の解放と各国の独立を認める、他者の権利保障の規範原則の立場よりの日本の植民地放棄の主張では全くないことから、石橋は、例えばイギリスによるインドの植民地支配に関し「英国にとってインド支配は大いなる経済利益がある」ため肯定し、欧米列強によるアジアの植民地支配は積極的に認めて好意的であった。

日本にとっての経済利益の国益を考えた場合、軍事の戦争による大国化の膨張路線(大日本国主義)は得策でないので植民地の獲得・経営に依(よ)らない形で、つまりは日本は植民地放棄をして、直接の戦争による戦禍を出さない非軍事的な大陸アジアへの経済進出を果たすべき、の石橋の本意であるのだ。もともと日本が海外の東アジアへ侵出を果たすべきの日本国繁栄の念願はあるが、ただその実現のための現実的な方法として、軍事による戦争や植民地の獲得・経営のあまりに露骨な「力(暴力)の手段」に頼らないというだけなのであり、何も石橋湛山その人が戦前日本の軍国主義や日本による東アジアの植民地支配そのものを正面から問題視し、正当に批判していたわけでない。

台湾や朝鮮や中国ら東アジア領土分割の実質的な現地支配に、日本を加えた欧米各国が邁進していた当時の国際政治下にて、大陸アジアでの利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接の軍事行動(つまりは戦争)と植民地獲得以外での非軍事で経済的な日本によるアジア支配を石橋湛山は主張しているのであり、確かに戦争否定の日本の軍国主義批判で表層は「平和主義」的論調であるが、経済利益の点でイギリスによるインドの植民地支配を容認するなど、近隣アジアの人々の民族自決や独立解放を何ら強く訴えていないことから、石橋湛山は決して民主的な自由主義者、人道的な反戦平和主義者ではなかった。

ここに至って、石橋湛山が戦前の軍国日本の植民地政策を現象的に批判し、植民地放棄の「小日本主義」を主張したからといって、近代日本にて大勢を占めた当時の戦争翼賛の軍国主義に抵抗する、「例外的で貴重で希(まれ)な自由主義者であり反戦平和主義者」と即断して安易に石橋を称賛するような軽率は慎(つつし)まなければならないだろう。「真のリベラリスト」といった安直な石橋評価は、もともと経済評論家であり、そのため極めて「経済的な」石橋湛山その人に対する本質的理解を欠いている。

さて、石橋湛山の生涯には戦前・戦中の小日本主義の論説をめぐる経済評論家としての活動に加えて、戦後にもう一つの人生のクライマックスがあった。石橋は以前の小日本主義に基づく日本の植民地政策批判(植民地放棄の主張)の過去から、敗戦後は戦時から日本のアジア侵略の軍国主義を批判していた数少ない「正統な自由主義者」「筋金入りの反戦平和主義者」であると一部の人達に相当激しく誤解されていたのである(苦笑)。そのため敗戦時の石橋湛山は「リベラルで民主的な好人物」と見なされ、世間の評判はそこそこ良かった。そこで戦後日本の新しい平和憲法の国政下にて衆議院議員総選挙に出馬し(石橋は左派リベラルの日本社会党から誘いを受けるも、これを断わり、あえて保守政党の日本自由党公認で出馬している)、何度か選挙に挑戦の末、見事当選を果たし、石橋は東洋経済新報社の記者・経済評論家から転身し晴れて政治家になる。初めは日本自由党に所属し、1955年の自由党と日本民主党との保守合同を経て現在の自由民主党(自民党)に参画した。石橋は自身が専門の経済分野に精通し、数々の経済政策で着実に実績を積み重ねて、後に自民党総裁となり、当時自民党が政権与党であったため、遂には石橋湛山は第55代内閣総理大臣となって、1956年に石橋内閣の組閣に至る。

だが、ここが石橋湛山という人の全くのツキのなさと言うか、不運の極みの人生の酷薄さと言うか、石橋は総理就任直後、脳梗塞の発作に倒れ、2ヶ月で内閣総理大臣を辞任。石橋内閣は早々に退陣を余儀なくされてしまう。石橋の首相在任期間はわずか65日であった。幸いなことに病状は回復し、1957年の内閣退陣の後も長く生きて石橋は1973年まで存命であったが、肝心の首相就任の大切な時期に脳梗塞の病に襲われ、内閣総理大臣の重責をまっとうできずとは、何よりも石橋本人が無念であったに違いない。部外者の私からしても、戦後の石橋湛山はいかにも気の毒である。

岩波新書の書評(516)田中彰「小国主義」(その2 中江兆民)

前回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、今回と次回で中江と石橋について、特に「小国主義」という観点にとらわれることなく自由に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は明治の思想家、中江兆民についてである。

「中江兆民(1847─1901年)は高知出身の思想家。岩倉使節団と共にフランスに留学、74年帰国。東京に仏学塾を設けた。1881年以降、『東洋自由新聞』で自由民権論を説く。1890年、衆議院議員となったが、翌年自由党土佐派の妥協に憤慨して議員を辞職。『三酔人経綸問答』を著す」

中江兆民は自身のフランス留学の経験からフランス流の急進的自由民権論を唱えて、民権運動の理論的指導者となった。近代日本における自由民権運動の理論的指導者では中江兆民、植木枝盛あたりが一流の一級である。彼らは薩摩・長州の藩閥政府以外の出自のために自身が明治新政府の要職に就(つ)けない個人的不満とか、維新後の四民平等による旧士族が没落の私的怨念や、地方出身者で自由民権運動を足がかりに何とか立身出世を果たし世に出てやろうの下流の野心もなく、確かに西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景があって、理論的であり理性的であった。中江兆民なら人民主権に裏打ちされた社会契約論、植木枝盛ならば天賦人権論に裏打ちされた抵抗権・革命権の主張というように。

中江兆民は、もともと漢学の心得がある上にフランス語の外国語ができるので、思想内容以前に兆民による人々の耳目を強くひき付けるフレーズや彼独自の造語など文筆の才にあふれており、非常に優秀である。同時代の自由民権論者や啓蒙思想家の中で中江兆民は頭ひとつ抜けている。

例えば、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(「日本人は昔から自分で作った哲学を持たず、確固とした主義・主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がない」の意)の兆民の指摘は有名である。また明治憲法発布の当日、弟子の幸徳秋水によれば「兆民先生、通読唯(ただ)苦笑する耳(のみ)」で、中江兆民による「恩賜的民権から恢(回)復的民権へ」(「為政者から人民に施しとして与えられた限定つきの民権ではなくて、人民がみずからの手で獲得した権利へ発展させなければならない」の意)での、「恩賜的民権」「恢(回)復的民権」といった兆民独自の造語センスが抜群である。その他、兆民が帝国議会の衆議院議員辞職時の「(議場は)無血虫の陳列場」(「無血虫(むけっちゅう)」とは「血のない虫」で「冷酷でむごい人」の意味)という最後の去り際の捨てぜりふなど、実に傑作であり最高だ。私は今でもテレビで国会中継を視聴するとつい中江兆民の「(議場は)無血虫の陳列場」の言葉を思い出し、それを言い換え「議場は虫けら共の陳列場」とつぶやいて独り勝手に苦笑してしまう。

中江兆民はルソーの「社会契約論」を漢文調で抄訳した「民約訳解」(1882年)を出して日本に人民主権説を紹介したため、「東洋のルソー」と呼ばれることがある。「社会契約論」(1762年)を著した本家フランスのジャン・ジャック・ルソーは猜疑心が強く陰気で、いつも対人トラブルを起こし恋人や友人やパトロンらとの間で交際が長続きせず、自称「人間嫌い」の厭人病を発病して結果、すぐに孤立して孤独になってしまう、かなり気難しくて交際しにくい、周りの人達からして非常に扱いにくい困った人であった。他方「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は無類の酒好きで、皆と酒を飲んででいきなり下半身露出して往来に晒(さら)したり、宴会席で紙幣を100枚ほどばらまき芸者たちに拾わせては「ああ愉快、愉快」と大はしゃぎするような破天荒で人付き合いよく、友人らといつも楽しく過ごせる快活陽気な人だったのである。そのような豪快で好人物の兆民であってみれば、彼が「東洋のルソー」と呼ばれるのは何だか気の毒な思いがいつも私はする。中江兆民は日頃の深酒の痛飲がたたってか、喉頭がん(後に食道がんだったと判明)で54歳で亡くなってしまう。

中江兆民は生涯にわたり在野の人を貫いた。明治藩閥政府への激しい対抗批判をなす自由民権運動家に対し、明治政府は政府内での要職打診をしたり、費用を援助して海外留学させたりの懐柔策で民権論者を取り込み意のままに操ろうとした。自由民権運動下で板垣退助や徳富蘇峰らは、そうした懐柔策にはまり、やがて次々と藩閥政府に取り込まれていく。だが中江兆民だけは違った。兆民は一度も藩閥政府に日和(ひよ)って明治政府側に与(くみ)することはなかった。

しかし、その一方で兆民は、いつの時でも一つの仕事を我慢強く継続してやり遂げて自分のものにできなかったことも事実である。中江兆民はすぐに仕事を投げ出して次々と新しいことをやる相当に飽きっぽい性格であった。とにかく堪え性(こらえしょう)のない人だった。兆民は学校校長となったり新聞社主筆となっても、すぐに辞めてしまう。みずから立候補し見事当選して帝国議会で晴れて衆議院議員になるも、自由党土佐派の裏切りによる政府予算案成立に憤慨してわずか一年足らずで早くも議員辞職してしまう。その後、政治から離れて材木業や鉄道事業ら数々の事業に手を出すが長続きせず、ことごとく失敗している。

ところで、戦前昭和の日本に本格の探偵小説家で小栗虫太郎(1901─46年)という天才がいた。小栗の「黒死館殺人事件」(1934年)など日本の探偵推理において、突出した異才発揮の名作である。そうした天才の小栗虫太郎であるにもかかわらず、小栗は探偵小説を継続して書き続けることなく、戦時の生活苦から陸軍報道班員として突如、海外の南方に出向いたり、地方で果糖製造の事業を立ち上げたりで、本業の探偵小説業を中途放棄してあれこれやっているうちに過労が重なり、病に倒れ44歳の早さで亡くなってしまう。小栗虫太郎には、当時まだ探偵小説の読み手が少なく広く社会に探偵推理の文学が普及しておらず、探偵小説執筆の専業では食べていけない戦前日本の文学環境が未成熟の時代的不幸があった。

この小栗虫太郎の生涯にての探偵小説執筆での大成を果たせずに早世した事例を思い起こす度に、いつも私は明治の自由民権運動の思想家、中江兆民のことを思い出す。確かに兆民には辛抱せず長続きしない、すぐに仕事を投げ出してしまう飽きっぽい本人気質の問題もあったけれど、それ以前に兆民が生きた近代日本の明治期にて、自由民権論を唱え明治政府を批判しながら、そのことで自身の思いを遂げてつら抜く在野の思想家・ジャーナリストとして生きる世論や組織や制度の社会的基盤の成熟環境がなかった。中江兆民の著作「三酔人経綸問答」(1887年)と評論「国家の夢、個人の鐘」(1890年)は、西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景に支えられ理論的に特に優れている。これら論考は近代日本の民主的な思想潮流の中で時代的にかなり早く、完成度が高くて早熟である。

しかし、そうした民主的な民権思想家の中江兆民を許容して支える市民社会的基盤がまだ明治の日本にはなかった。結果、優れた自由民権思想家の中江兆民は学校校長や新聞社主筆や衆議院議員や実業家ら、さまざまな仕事を短期のうちに次々に転々として、必ずしも成功し大成したとは言い難い生涯を送り、最期は常日頃の深酒の痛飲がたたって喉頭がんで病に倒れ54歳で亡くなってしまう。非常に残念で、やるせない思いが兆民の著作および中江兆民研究を読むといつも私には去来する。