アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(522)岡本隆司「李鴻章」

近年、岩波新書の新赤版にて、中国近代史専攻の岡本隆司による「評伝三部作」とでもいうべき近代中国の人物に関する新書が出ている。「李鴻章・東アジアの近代」(2011年)と「袁世凱・現代中国の出発」(2015年)と「曾国藩・『英雄』と中国史」(2022年)である。扱われる人物評価を含めて中国近代史に関する書籍は、だいたい誰の何を読んでも面白いというのが私の率直な感想だ。

以下では、李鴻章について書いてみたい。

「李鴻章(1823─1901年)は中国清代の官僚・政治家。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)として調印を行った」

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考えると、いつも私は大変に気の毒な思いになる。李鴻章については「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感慨である。

「老舗企業(清朝中国)に入社試験(科挙)を経て成績優秀で入り、実績を積んで昇進を重ねるが、創業者一族(清朝)の正統家系ではないため(漢族出身)、雇われ幹部(漢人官僚)として期待混じりの重用で社長(西太后)から直々にこき使われることとなる。本社勤務の楽な『名ばかり』名誉職の閑職ではなくて、本社から出向派遣の現場周りで、会社からすれば実に『使い勝手のよい』役回りである。社内では社員による労働運動の嵐(太平天国の乱、義和団事件)が各部署にて吹き荒れ、その都度、問題発生の現場に自身が直接に出向いて過激労組への対応に日々追われる。その労働運動抑え込み功績(太平天国の乱平定、捻軍鎮圧)の社内貢献により、後に晴れて大幹部(直隷総督・北洋大臣)への出世となるが。また社内改革(中国近代化)推進のメンバーに選ばれ、改革プロジェクト(洋務運動)に積極的に携わり責任重大であるが、創業者一族(清朝守旧派)の妨害もあって改革は順調というわけでもない。特に悩ましいのは自身が専門担当の社外交渉(国防外交)で、同業他社(日本)よりの、昔からの子会社(朝鮮)横取りの圧力の嫌がらせが相次ぎ、険悪な敵対関係(日清戦争)で負けが重なり会社はボロボロ。老舗の看板名声は一気に急落。しかし、それでも最前線の現場に立って会社建て直しのための実務を続けなければならない。退職の引退はなく、亡くなる直前まで会社(清朝中国)に奉職の激務である」

私から見て、そんな「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感がある、いかにも気の毒な李鴻章の生涯である。

李鴻章、この人は元々かなり優秀な人である。幼少時から勉学に励み見事、科挙に合格。同時期の官僚・政治家である曾国藩に師事して師弟関係を結び、科挙エリートとして実績を積んで昇進を重ねる。そして李鴻章が29歳の時に太平天国の乱が勃発。清朝政府の命令を受け、師である曾国藩が湘軍を組織し太平天国の制圧に主力として当たり、曾国藩の湘軍に倣(なら)って、後に李鴻章も淮軍を創設する。この淮軍を率いて太平天国滅亡に大きく貢献し、続く捻軍鎮圧でも功績を上げた李鴻章は、師の曾国藩の後を継いで後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼任した。ここに至って李鴻章は、清朝の重臣筆頭として西太后(清末期の権力者。清の咸豊帝の側室で、同治帝の母)の厚い信任を得る。

太平天国の乱(1951─64年)は、人々が「太平天国」という理想国家の樹立をめざして清朝に抗した、清末期に起こった中国近代史上最大の民衆の乱である。捻軍の乱(1953─68年)は、太平天国に呼応して挙兵した「捻軍」(「捻」は「一本一本の糸をひねり、よりあげる」で人々の集まり・仲間の意味)という農民軍の蜂起である。これら地方での中央政府に対する相次ぐ乱に対し、清朝皇帝の正規軍である八旗・綠営では鎮圧できないほどに清の正式軍隊は弱体化していた。そこで正規軍たる八旗・綠営の戦力低下を補う目的で「郷勇」(地方の漢人官僚らが組織した義勇軍)が組織され、この郷勇が太平天国の乱ら後の内乱制圧の主力となっていくのである。そのいくつかある地方で組織された郷勇の内、曾国藩が創設したのが湘軍であり、李鴻章が創設したのが淮軍である。特に李鴻章の淮軍は太平天国と捻軍の制圧にて活躍めざましく戦果を上げて、淮軍はその後も李鴻章の権力基盤となった。

(※中央政府の正規軍である八旗・綠営の弱体化で太平天国の乱を鎮圧できず、そのために各地方で組織された義勇軍である郷勇の相次ぐ創設は、やがて中央政府による公的政治の制御(コントロール)が効(き)かない、地方分権の独自の私的裁量統治の軍閥の乱立を招いて、複数の地方権力が各地に並立して国内で対立し合う群雄割拠の不安定な情勢を引き起こした。こうした太平天国の乱勃発由来の、地方での軍閥乱立という国内分裂の混迷は、第二次世界大戦終結時まで続き、例えば「北伐(1920年代、中国国民党が北方の諸軍閥を打倒し、中国統一のために行った戦い)」や「国共内戦(1920年代から1945年まで何度も繰り返された中国国民党と中国共産党の戦い)」など、中国中央の支配者と中国の民衆を後々まで長く悩ませることになる)

李鴻章の生涯を後に振り返ると、やはり李鴻章が科挙エリートとして勤めていた若き日の20代に、中国近代史上最大の民衆の乱である太平天国の乱という同時代の一大事件に出くわしたことの意味は極めて大きい。李鴻章は、師事していた曾国藩の湘軍と一時期、行動を共にしていたため、後にみずからも淮軍を組織し率いて太平天国の乱への鎮圧対処で頭角を現し、清朝の信任を得てやがては最高実力者の地位にまで上り詰める。この太平天国の乱に処するの時点で、李鴻章の将来の進む道はほぼ決まったといえる。李鴻章は科挙を優秀な成績で合格しエリート官僚の道を進んだが、彼はいわゆる「文民(軍人でない者)」ではない。清朝に仕える官僚とはいっても、中央で詔勅起草の政策立案をしたり、中央から地方へ文書で命令を出すような文事に携わる文臣の役職ではなかった。太平天国の乱の制圧に大きく貢献して功績を上げた李鴻章は、後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼務したというように、地方の現場にその都度出向いては内乱を鎮める実務の地方官筆頭だった。彼は血統・出自に由来する中央にての「権力の源泉」ではなく、地方の現場への奔走実務で有能であったがゆえに後に権力を付与されて、その「後付けの権力」の行使をして、さらに自身に荷重に課せられた職責に邁進する役人であった。 

事実、太平天国の乱鎮圧の後、李鴻章は直隷総督(地方長官の最高位)、北洋通商大臣(外交・海防)として外国人とのトラブルまがいの外交交渉や諸外国との戦争、そしてその戦争事後の後始末ら相当に困難な重大職務を一手に任され、それら重責を背負わせられることとなる。また洋務運動にて、北洋艦隊の設立(1988年に李鴻章が創設した清国海軍の艦隊。1988年の設立で比較的早く、創設当初は日本の帝国海軍を凌ぐ「東洋一の艦隊」と称された)に加えて、科挙の改革を李鴻章は進言するも(新たな人材育成のために科挙の科目に西洋の科学・工学ら実学を盛り込むことを提言。だが儒教を重んじる守旧派の抵抗で却下されている)、清朝政府はそれら西洋化には内心乗り気でなく、洋務運動の近代化改革は「中体西用」(伝統中国の文化・制度を本体として、西洋の機械文明の利用を目指す)といった外面的なものに終始し、改革は困難を極めた。

李鴻章、晩年最大の仕事は、朝鮮に対する宗主権をめぐり関係悪化した日本との間での日清戦争(1894年)、そして日本への敗戦を受けての講和条約である下関条約(1895年)に清側の欽差大臣(全権大使)として臨んだ批准(ひじゅん)にあるといえよう。日清戦争にて、清側の主要戦力である自身が作り上げた淮軍と北洋艦隊の練度ならびに清軍兵士の士気は低く、敗戦必至で当初より開戦反対の立場である李鴻章であったが、西太后の甥・光緒帝ら主戦派に押し切られる形で戦端は開かれ、日清戦争の開戦となってしまう。そうして黄海海戦、旅順口の戦いにて清国海軍は連戦連敗を重ね、李鴻章の淮軍と北洋艦隊は壊滅。日清戦争にて清は日本に敗北した。日清戦争敗北の後、講和交渉で全権委任された李鴻章は日本の下関に赴き、下関条約に調印する。この時の日本側全権は日清戦争開戦時の総理大臣である伊藤博文と、外務大臣で伊藤の腹心だった陸奥宗光である。戦争講和の下関条約は、(1)朝鮮の完全「独立」(清の干渉権放棄)、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、(3)日本に対する賠償金2億両(テール)の支払など、戦勝の日本にはかなり有利で敗戦の清には相当に不利な、当時の戦争講和の相場からしても破格の内容であった。

李鴻章という人は非常に優秀な人で、日清戦争後の下関講和以前に諸外国との交渉実務にて豊富な外交経験があった。そのため下関条約調印に際しても、水面下で日本への対抗として欧米列強の内の主にロシアに働きかけ、いわゆる「三国干渉」(ロシアら欧州三国の圧力にて、日本に対する遼東半島の清への返還要求)を画策しながら、同時に日本との宥和(ゆうわ)である、日清間のアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する道も模索していた。そのため中国側が日本に事前に配慮し、戦勝の日本にかなり有利で、逆に敗戦の清には相当に不利な下関条約での破格の合意形成であったともいわれている。事実、日清戦争以前の日本の台湾出兵(1874年)時から李鴻章は大久保利通に、欧米列強に抗するための「アジアの団結」メッセージを送り続けていた。

しかしながら、戦争講和で清の全権大使・李鴻章に接した日本の全権大使・伊藤博文と陸奥宗光、並びに当時の明治国家の指導者たちには、そうした「日清間でのアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する」発想は微塵(みじん)もなかった。ほぼ皆無であった。下関条約締結の講和時、李鴻章は73歳でかなりの高齢である。そのように老齢な李鴻章を全権大使にして派遣してくる清国に対し、日本側全権の伊藤と陸奥は終戦直後の自国の戦勝の高揚もあって、やがては没落する老大国・中国の姿を李鴻章その人に暗に重ねて見ていたのである。さらには李鴻章が下関に滞在時、「李鴻章狙撃事件」(1895年、日清戦争の講和交渉のため来日中の李鴻章が、終戦講和を不服とする日本人の右翼青年に狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件)まで起こってしまう。

日清戦争時を後に回顧する伊藤博文も陸奥宗光も、彼らの回想語りの中での李鴻章への印象・評価は軽蔑混じりで極めて厳しい。後の近代の日本人の基調となった中国や朝鮮を始めとする近隣東アジア蔑視の様子が、この日清戦争の時代より早くも見て取れるのであった。

日清戦争の後、李鴻章は清に敗戦をもたらした「敗軍の将」として詰腹を切らされ、直隷総督・北洋通商大臣を罷免されるも、なぜかこの人は西太后の個人的信任が厚く、すぐに外交と国防の前線現場にまたしても復帰させられてしまう(1896年)。このとき李鴻章は74歳。その後、太平天国の乱以来の大規模な民衆の乱である義和団事件(1900年。欧米ら帝国主義諸国の中国侵出により困窮した民衆の不満を背景に、宗教結社「義和団」による排外運動)などに処し、死のニカ月前まで奔走して、1901年に78歳で死去。李鴻章に引退の隠居なく、亡くなる直前まで清朝中国に尽くした激務の生涯であった。

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考える度に、私は大変に気の毒な思いを禁じ得ない。やはり、李鴻章の生涯は「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」に似た感慨を引き起こさせる。

李鴻章が逝去してまもなく、辛亥革命(1911年)時のジャーナリスト・政治家であった梁啓超(1873─1929年)は李鴻章の評伝を執筆・出版した。その中で彼はいう、

「李鴻章は洋務の存在を知るだけで、国務の存在を知らない。兵事があるのは知りながら、民政があるのを知らない。外交は知っていても、内治を知らない。朝廷の存在は知るが、国民がいるのを知らない」

李鴻章は「洋務」「兵事」「外交」「朝廷」の一方向を知るのみと断じて一刀両断に斬(き)り捨てる、後の時代の梁啓超による李鴻章への誠に手厳しい評伝評価である。私からすれば李鴻章の生涯を振り返れば、科挙エリートとしてあった若年の時代に、太平天国の乱がたまたま勃発したため、それへの制圧の流れで彼は「兵事」専門の軍務に傾注し後に一貫して携わることとなり、その過程で北洋艦隊の創設ら、軍隊の近代化などの「洋務」に着手し有能な官僚となって、さらにはそれら功績により、特に「朝廷」内で西太后からの厚い信任を得て重臣筆頭として「外交」職務に死の直前まで生涯現役で邁進した李鴻章であったのだ。

他方で、中国由来の伝統的な「国務」は西洋近代の「洋務」に当時は圧倒され、相次ぐ民衆反乱の鎮圧のための「兵事」に追われて、民権伸長の「民政」どころではなく、さらには諸外国との「外交」交渉と対外戦争にて、国内の安定平和の「内治」はおざなりにされて中国全土は荒廃し、辛亥革命以前の中国には清朝皇帝の「朝廷」が厳然としてあったため、未だ革命に至らず、中華民国の「国民」は存在していなかった。「民政」の追求や「国民」の創出に必要な外部条件の客観状況が、李鴻章が存命の時代にはまだ整えられていなかっただけのことである。