アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(530)中村とうよう「ポピュラー音楽の世紀」

私が中高生の頃の1980年代から90年代は、まだ今のようにインターネット環境が不在でダウンロードやサブスクはなく、音楽を聴くのに街のレコード店に頻繁に行っては新譜や旧譜のレコード・CDをその都度購入していたし、新作情報やアーティストのインタビューらの音楽記事もネット上の記事配信がなかったので、紙媒体の音楽雑誌をよく読んでいた。

洋楽雑誌に関する限り、渋谷陽一の「ロッキング・オン」と、中村とうようの「レコード・コレクターズ」と、森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」の3誌を私は必ず読んでいた。各雑誌に各人の名が付するのは、実は音楽雑誌、特に洋楽ロック系の雑誌は1980年代当時はまだ歴史が浅くて、それぞれの雑誌にだいたい創業者で編集長の名物で有名な人がまずいて、彼らがもともと趣味の小規模誌でやっていたものが人気が出て多くの読者を獲得し、やがて商業誌としてビジネスベースに乗って全国書店に流通し、そうすると彼らの個人商店のような形態で会社化して、創刊時の編集方針はそのままに、大手出版社の傘下の一音楽雑誌部門に課されるような制約なく、各雑誌がかなり自由にやっていたのである。だから当時は各誌とも、それぞれに特徴があって読んでいて面白かった。

渋谷陽一の「ロッキング・オン」は、来日ミュージシャンへのインタビューやライブ・レポートが早かったし充実しており、カラー写真も多く掲載されていてビジュアル的に綺麗な雑誌で気に入っていた。また海外雑誌から記事購入し翻訳して載せていて、文字的にも毎号読みごたえがあった。中村とうようの「ミュージック・マガジン」は毎月新譜のレビューと採点評価があってチェックしていた。また音楽評論家の萩原健太の連載コラムなども毎号、私は楽しみにしていた。

森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」はパンク・ガレージロック系の専門誌で、他雑誌にはないパンク・ガレージのバンド紹介や新作情報が目当てでよく読んでいた。編集長の森脇美貴夫による多少の鬱(うつ)が入った暗い無気力な連載エッセイも、私は何だか好きだった(笑)。当時、私が住んでいる街には輸入レコード店がなかったので、その時はインターネットもないし、「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」には東京や大阪の輸入レコード店がパンク・ガレージ系の外盤の入荷情報を載せた広告を毎号掲載していて、私は雑誌を見て店に電話してよく通販利用していた。

昔は音楽雑誌の編集者やライターは現在のような社会的地位になく、だいたいバカにされていたのである。「あれこれ音楽について述べて評論記事を書く以前に、そんなにエラそうに言うなら自分で作曲して演奏して歌って実際にパフォーマンスしてみろ!お前ら音楽雑誌の編集者・ライターは、文筆でミュージシャンと音楽作品そのものに単に寄生しているだけだろう(怒)」のような口吻が昔はよくあった。「ミュージック・マガジン」の中村とうようは歌手の高田渡を酷評したが、逆に中村は高田から「そんなにいうなら、あんたが歌えばいいじゃないか」と突き放して冷たく言われるあり様だった。

だが他方で、各音楽雑誌を編集・販売する彼らの方にも編集者・ライターの立場からのそれなりの主張があって、「既存の音楽雑誌はレコード会社やプロモーターのヒット拡大の意向を汲(く)んだ御用雑誌で、ミュージシャンのアイドル的な写真とピンナップ掲載や絶賛太鼓持ちの提灯記事ばかりで、ロック雑誌に批評性が皆無じゃないか。新作でもライブでも良い時は好意的な記事を書くけど、悪い時は正直に批判の酷評の記事も載せる」というようなこと。また世間一般にまだあまり知られていないミュージシャンでも、これはよいから編集部が積極的に取材し記事を出して猛プッシュして行くような動きも彼ら音楽雑誌にはあった。

前者に関していえば、「ミュージック・マガジン」での、マイケル・ジャクソンのアルバム評で中村とうようが0点を付けた、あの件である(笑)。「ミュージック・マガジン」は毎月、新譜レビューで講評して10点満点で採点するのだが、マイケル・ジャクソン「スリラー」のクロスレビューで中村だけ、なぜかやたらと厳しくて10点満点で0点を付ける。マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」(1982年)は80年代の当時からリアルタイムで聴いて、現在の2020年代に聴いてもよくできた良作の名盤だと私は思うけどなぁ。中村とうようという人はワールドミュージックに造詣深くて、世界の民族音楽を収集の大家で一家言あって、マイケル・ジャクソンのような「民族性や地域性に根差した大衆音楽の歴史の重みに対する尊敬の念を欠いて、単に黒人音楽を商業ロックの流行に乗せチャート急上昇で世界中で売れまくって大ヒット」のようなことが(おそらくは)とにかく気に入らないのである。それで中村とうようによる採点では、マイケル・ジャクソン「スリラー」は最低点の0点←(爆笑)。大手出版社の傘下の既存の音楽雑誌でレコード会社やプロモーターのヒット拡大の意向を汲み利権が絡んだ御用雑誌では、絶対にあり得ない事態である。

後者に関し特に印象に残っているのは、日本のバンド「エレファントカシマシ」のことだ。今でこそ宮本浩次のエレファントカシマシは人気のバンドで代表曲もヒット曲も多くあって売れて有名だけれど、昔はエレファントカシマシは知名度が低く、そこまで売れず、売上不振のため中途でメジャーのレコード会社から契約打ち切りとなり、一時期はインディーズのバンドになって相当に苦労していたのである。渋谷陽一の「ロッキング・オン・ジャパン」はデビュー時から宮本浩次らのエレファントカシマシをやたら高評価し激賞してかなり猛プッシュしていたし、エレファントカシマシがメジャーのレコード会社から契約解除され地下漂流している時でも、誌面で全力応援していた。私はエレファントカシマシというバンドのファンではないが、昔に渋谷陽一の「ロッキング・オン・ジャパン」がエレファントカシマシに異常に肩入れして熱烈応援していたことが、今となっては非常に懐かしく思い起こされる。

さて、「ミュージック・マガジン」の創業者で元編集長でミュージック・マガジン社の代表取締役であった中村とうように関しては後に、中村の投身自殺というショッキングな出来事があった。

2011年7月、東京都内のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されるも、後に死亡が確認された。警察は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったものとみている。中村とうよう(1932─2011年)、79歳没。

晩年の中村とうようは、「ミュージック・マガジン」のレビュー執筆者を降板して、同誌ではコラム「とうようズ・トーク」のみ担当していた。私は「とうようズ・トーク」を毎号だいたい読んでいたけれど、最後の方のコラムはもはや音楽には関係がなく、政治や社会問題への急角度からの突っ込みで、自民・公明与党の政権批判とか、地方の過疎化や高齢者の介護医療問題らの内容が多くて、中村とうようは非常にいらだっていつも激怒しているような、どこか暗い袋小路の鬱状態に入ったような少し心配になるコラム内容で正直、私は敬遠気味であった。そうしたら、後に中村とうよう自殺の報を聞くことになるとは。

それで中村とうようが亡くなってすぐ、自死の直前に中村が書いて編集部に渡した最新で最終の「とうようズ・トーク」が中村の絶筆の遺稿として「ミュージック・マガジン」に全文掲載される。もうこれから死ぬことを決めて覚悟した「遺書」のような壮絶内容の中村の「とうようズ・トーク」最終回で。その時の号が今は手元にないので正確な文面は忘れたが、「こんな雨に日に飛び降りたら後で片付ける人は大変だろうな」「年を取っても他人の世話にはなりたくない。…ぼくという少し変わったやつがいたことを覚えていてもらえるとうれしいです」「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかったってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません」というような事が書かれてあった。

音楽雑誌「ミュージック・マガジン」での「とうようズ・トーク」最終回の掲載は近年のメディア史でも、それなりの衝撃の「事件」であったと思う。編集部は中村の自殺を受けて、社内協議の上で最後に渡された故人のコラム原稿に一切手を入れることなく、そのまま全文掲載したという。あのような編集者個人の私的な遺書に近い原稿をそのまま全文、自死の直後に不特定多数の誰もが購読参照できる全国流通の商業誌に載せることは、通常はない。このような故人の私的な遺書めいた最期の文章が遺族の意向で後日の「お別れの会」や後年の法要の積み重ねの節目に、印刷され関係者にのみ配布されることは時にある。だが、それが死の直後に即のリアルタイムで全国流通の商業誌に載せられることは、やはり珍しい。

大手出版社の一編集部門の音楽雑誌であれば、こうした編集者の私的な最期の文章を何の検閲もなしにそのまま全文を雑誌に載せることはありえない。しかし、中村とうようの「とうようズ・トーク」最終回の場合にそれができたのは、音楽雑誌「ミュージック・マガジン」の創業者が他ならぬ中村とうようであり、もともと中村主宰の小規模誌でやっていたものが人気が出て多くの読者を獲得し、後に商業誌としてビジネスベースに乗って全国書店に流通して結果、ミュージック・マガジン社という中村とうようが創業者で元編集長で代表取締役である個人商店のような形態を取っていたことによる。同時代の渋谷陽一の「ロッキング・オン」や森脇美貴夫の「DOLL・MAGAZINE(ドール・マガジン)」らと同様、既存の大手出版社下の一編集部門ではなく、小規模誌出発の個人創業から始めて創刊時の編集方針を保持し自由にやる編集経営の形態にて発展してきた、日本の音楽雑誌の特殊なあり方ゆえと思うのである。