アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(496)四方田犬彦「『七人の侍』と現代」

映画人(俳優、監督、プロデューサー、脚本家、カメラマン、美術技師ら)に関する書籍の中で映画監督・黒澤明(1910─98年)についてのものは、他の人に比べ圧倒的に多い。ただ黒澤明の評伝や黒澤作品の映画批評など、監督デビューから晩年までの黒澤の複数作品に幅広く触れるため、読んで話が拡散して案外取りとめのない内容が薄いものが多いのも確かで、その点でいえば岩波新書の赤、四方田犬彦(よもた・いぬひこ)「『七人の侍』と現代」(2010年)は、黒澤明が監督・脚本の「七人の侍」(1954年)のみ、本作に特化した映画批評で全216ページに渡り黒澤「七人の侍」だけに集中し掘り下げた「黒澤明・再考」の深い考察の論考であり、読んでそれなりの読みごたえの充実感がある。

「七人の侍」は、1954年に公開された日本の時代劇映画である。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。モノクロで207分。長編で本編時間が長いため前半部と後半部に分かれ、中途で「休憩」という5分間のインターミッション(中途休憩)をはさんでの上映形式となる。私は「七人の侍」の初見は、ドルビーサラウンドを施しオリジナル版を音声改良した上での全国東宝系での劇場公開時、1991年の秋に映画館の大スクリーンでの鑑賞であった。その時まだ黒澤明は存命で、黒澤のフィルモグラフィーからして黒澤明は「八月の狂想曲(ラプソディー)」(1991年)を完成・公開の直後であった。当時、前知識なく「七人の侍」を映画館に観に行って、中途でいきなり「休憩」の静止画面と音楽がしばらく流れ、意表を突かれ非常に驚いた思い出がある。

(以下、本編あらすじからラストシーンにまで詳しく触れた「ネタばれ」です。黒澤明「七人の侍」を未鑑賞の方は、これから本作を観る楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

黒澤明「七人の侍」は、日本の戦国時代を舞台とし、野武士の略奪に悩む百姓に雇われた七人の武士が、身分差による軋轢(あつれき)を乗り越えながら、協力して野武士の襲撃から村を守る物語である。岩波新書「『七人の侍』と現代」は、黒澤映画の「七人の侍」に関し、国内封切り公開当時の新聞・雑誌を主とする主要メディアと映画評論家の反応・評価、海外の映画祭に出品に際しての外国の、特に同映画人(監督やプロデューサー)による本作への高評価の熱烈な賛辞の様子、物語の構造と主に「七人の侍」の役割分担とキャラクター造型の工夫の妙、本作の舞台となっている日本の戦国時代(劇中の菊千代の偽系図の巻物のシーンから、時代は1586年の天正年間と分かる。1586年の天正14年は、史実では徳川家康が豊臣秀吉に臣従した年であり、この二年後に室町幕府が滅亡して豊臣秀吉は刀狩令を発令している)の農村と百姓の実態、つまりは映画「七人の侍」にて見受けられる史実を踏まえたリアルな当時の百姓描写と、それとは逆に娯楽大作の時代活劇であるため歴史考証を無視して大胆に改変し劇化した、歴史的事実とは明らかに異なる本作での農民および農村設定のちぐはぐさを同時に指摘する考察らによりなる。

映画「七人の侍」では、かの「七人の侍」を雇って野武士に対抗する百姓の、武士に対する警戒と拭(ぬぐ)えない根源的不信、侍を利用し尽くす百姓の狡猾(こうかつ)さがあえて描かれている。そのように、劇中で野武士の略奪にあい、絶えず抑圧され虐(しいた)げられている弱者の百姓農民が必ずしもそのままの弱者で同情すべき被害者なのではなく、彼らも自分達本位でズルく時に冷酷非情であり、ゆえに本作では暴力を振るい略奪して収奪し尽くす悪者の野武士と、それになすすべなく力で押さえつけられ収奪され常に抑圧されて、しかしその不条理に健気(けなげ)に耐え続ける善良な百姓との善悪の単純な対立があって、その百姓に助けを請われ雇われた「七人の侍」が加勢し、野武士の襲撃から村を守って共に野武士を打ち倒す勧善懲悪な「悪の野武士vs善の百姓+七人の侍」の単純二元対立の美談の話では決してない。

事実、劇中にて百姓らは、疲弊し敗走する武士を探して殺害し刀や鎧(よろい)や金目のものを略奪する「落ち武者狩り」を日常的に繰り返しやっていたし、野武士との戦いの中途で捕虜となり助けを請う一人の野武士を集団で取り囲み、私的制裁の私刑(リンチ)にて吊し上げ殺そうとする。そうした復讐心に燃え興奮状態の無秩序(アナーキー)にある百姓らに対し、「七人の侍」は彼らを必死で止めようとする。戦いにおいて負けた者、殊更(ことさら)に命乞いをする者に対し、さらに制裁を加え殺害することは戦闘時の人間的倫理からして、また侍たる者が誇りとして持つ「武士の情(なさ)け」から到底許されることではないからだ。しかし、興奮する農民集団の中から「倅(せがれ)の仇(かたき)を」と鋤(すき)を持ち捕虜の野武士に一撃加えようと一人の老婆がよろよろと歩み出て、彼女の仇討ちに助太刀しようとする百姓らを見て、「七人の侍」は農民たちの怨念の凄(すさ)まじさに絶句し、彼らの思うがままにさせてしまう。

また「米の飯を腹いっぱい食わせる」の契約にて百姓に雇われた「七人の侍」であったが、明日の命が保障されるかも分からない決戦前夜となると、農民たちは酒盛りを始め酒と酒の肴(さかな)を「七人の侍」にも初めて心を開いて提供する。彼らは酒や食料を豊富に隠し持っていて、しかし決して容易に他人に提供したり他人と共有したりしない。決前前夜のいよいよの時に、これまで隠し持っていた酒をはじめて出され、「七人の侍」は百姓の用心深さに苦笑するしかない(彼らは酒も食料も金も何でも慎重かつ狡猾に山に隠しておいて、いよいよの時には「なるほど、菊千代の言ったとおりだ。何でも出てくる」)。

このように、映画「七人の侍」では、かの「七人の侍」を雇って野武士に対抗する百姓の、武士に対する警戒と拭えない根源的不信、侍を利用し尽くす百姓の狡猾さがあえて積極的に描かれている。劇中で野武士の略奪にあい、絶えず抑圧され虐げられている弱者の百姓農民が必ずしもそのままの弱者で同情すべき善良な被害者なのではない。彼らも自分達本位で狡猾で時に冷酷非情であるのだ。

そして岩波新書の四方田犬彦「『七人の侍』と現代」によれば、本作での暴力を振るい略奪して収奪し尽くす悪者の野武士と、それになすすべなく力で押さえつけられ収奪され常に抑圧されて、しかしその不条理に健気に耐え続ける善良な百姓といった極めて単純で勧善懲悪な「悪の野武士vs善の百姓」の対立図式を否定の発想・思考は、「七人の侍」の脚本が書かれた1950年代の戦後の民主化運動の中での、いわゆる「東宝争議」にて映画会社と労働組合との激しい闘争の両者の間にいて、メデイアの民主化や戦時に戦争意識高揚のプロパガンダ映画を制作していた日本の映画産業の戦争責任追及、俳優・技術者ら組合労働者の大量解雇反対と各人の生活保障のために組合側に当初は共感し支持していた黒澤であったが、組合が力をつけ大規模ストライキを起こしたり、黒澤が企画・脚本の映画内容に対し、政治的見地から組合執行部よりの変更圧力の妨害が起こり、東宝争議の過程でやがて労働組合の方が強大な権力を持つようになると、一見、虐げられた弱者側の労働組合側が一種の「弱者権力」として逆に権力を振るうようになる現象、本論中の言葉でいえば黒澤明にとっての「東宝争議の傷跡」がそのまま映画「七人の侍」の農民像に組み込まれているというのである。

本作での、絶えず抑圧され虐げられている(ように思われる)「弱者の」百姓農民が必ずしもそのままの弱者で同情すべき被害者なのではなく、むしろ逆に彼らも自分達本位でズルく時に冷酷非情で、ある種の権力を有している姿は、そのまま映画「七人の侍」が企画構想され脚本執筆され撮影制作された1950年代の敗戦後の日本社会の「現代」の東宝争議にての映画会社と闘争する労働組合に属する映画人の労働者たちの現実の姿そのままの投影であるというのだ。この旨の分析考察は、本書にての「第三章・一九五四年という年」と「第九章・敗北と服喪」に詳しい。

黒澤映画の「七人の侍」は単なる架空のアクション時代劇の娯楽大作なのではなくて、制作当時の現代社会の時代背景や社会問題も暗に、しかし明白に時代劇の物語の中に組み込んでよくよく深く考えられ制作されている。だから、その制作当時の「現代」的な社会問題が反映され明確に取り込まれている点を踏まえて映画「七人の侍」を再考し分析考察して批評するので、四方田犬彦による岩波新書の本書は「『七人の侍』と現代」のタイトルになっているのである。加えて、その他の優れた着眼の映画「七人の侍」に関する指摘や分析が本新書には多くある。特に後の黒澤映画の「夢」(1990年)と「七人の侍」とを「死者の服喪」という主題で結びつけ、論じた考察は優れている。

映画「七人の侍」のラストは、野武士を撃退した村に平和な日常が戻り、晴天の下で村人は笛や太鼓で囃(はや)しながら田植えにいそしむ。活力に満ちて新たな生活を切り開いていく農民たちとは対照的に、その様子を離れて見つめる「七人の侍」の表情は浮かない。七人のうち今回の野武士との戦いで生き残ったのは三人。年少の勝四郎(木村功)は、決戦前夜には、あんなになかば強引に誘惑され結ばれた村娘の志乃(津島恵子)から、まるで何事もなかったように通りすがりに振り切られて、見事に一時の女心に翻弄(ほんろう)され呆然(ぼうぜん)としている。「七人の侍」のリーダー格である勘兵衛(志村喬)は「今度もまた、負け戦だったな」とつぶやき、そばにいた七郎次(加東大介)が「えっ」と怪訝(けげん)な顔をすると、「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」という。勘兵衛は、新たな土饅頭が増えた墓地の丘を見上げる。その頂上には墓標の代わりに刀が突き立てられた4つの土饅頭があった。その下に四人の侍が葬られている。生き残った勘兵衛ら三人は平和が戻った村の百姓らに迎え入れられることもなく、土着して彼ら百姓と共に生きずに、やがてまた浪人の侍としてあてのない放浪の旅に出るだろう。菊千代(三船敏郎)を始めとした仲間の四人の侍を失ったことは、あまりにも大きな損失の大打撃であった。かつて共に協力して野武士と戦った「七人の侍」と百姓たちとのその後の明暗は、きっぱり分かれた。確かに、今回の野武士との戦いで勝ったのは百姓たちだけだったのであり、勘兵衛ら「七人の侍」は今度もまた負け戦であったのだ。

映画「七人の侍」を観かえすたびに、本作にて絶えず抑圧され虐げられている(ように思われる)「弱者の」百姓農民が必ずしもそのままの弱者で同情すべき被害者なのではなく、むしろ逆に彼らも自分達本位で時に冷酷非情で狡猾であって、ある種の権力を有している一枚上手の権力者に私には思えてしょうがない。そして「七人の侍」たる勘兵衛の「今度もまた、負け戦だったな」「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」のつぶやきに共感して毎回、後味の悪い虚脱の苦々しい思いが本映画の鑑賞後に残るのである。

「日本映画を代表する古典的名作として、幾重にも栄光の神話に包まれている黒澤明の『七人の侍』。しかし世界のいたるところで、いまなお現代的なテーマとして受容され、その影響を受けた作品の発表が続く。制作過程や当時の時代状況などを丹念に考察し、映画史における意義、黒澤が込めた意図など、作品の魅力を改めて読み解く」(表紙カバー裏解説)