アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(123)藤木久志「刀狩り」

岩波新書の赤、藤木久志「刀狩り」(2005年)は副題が「武器を封印した民衆」である。本書のおよその概要は以下だ。

「秀吉の刀狩りによって民衆は武装解除されたという『常識』がつくられてきたが、それは本当だろうか。調べていくと、それに反する興味ぶかい史実が次々と浮かび上がってくる。秀吉からマッカーサーまで、刀狩りの実態を検証して、武装解除された『丸腰』の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換を提言する」(表紙カバー裏解説)

本書は豊臣秀吉の刀狩りによって、それまで武器を持っていた戦国時代の農民は武器を没収され「丸腰」になってしまった、秀吉の刀狩令は人民の武装解除であったとする俗説に疑義を呈するものである。著者はいう、「だが、史実の世界はおのずから別であった」と。史料から確認できる史実として、秀吉の刀狩令以後も民衆の間で帯刀習俗は残っていたし、農村には刀(時には鉄砲まで)の武器が相当数あったことを指摘する。

秀吉の刀狩り政策を継承したとされる徳川幕藩体制下にても同様であり、農民の傍らには常に刀の武器が大量にあった。例えば1632年、肥後(熊本)藩の加藤忠正(清正の子)が改易され、その後に豊前(福岡)小倉から細川忠利が移ってくる。その翌年に忠利は、庄屋はみな帯刀し百姓はすべて脇指を指すよう指令した。これは義務である。忠利は脇指を指さない庄屋を見て、ことのほか立腹したという。それには入国したばかりの肥後の国内で百姓たちの刀に寄せる名誉の心情に訴えて、村々の秩序を安定させようとした細川忠利の政略の狙いがあったと推察される(139・140ページ)。百姓の武装解除という従来の「刀狩り」の通念とは、全く逆の事例も実際にあったのだ。

刀・脇指の武器は人々の身分表象であった。中世より刀は成人した村の男たちの人格と名誉の表象(シンボル)であった。秀吉の刀狩令は、その威厳に満ちた刀を百姓たちから奪うことで武士と百姓との差別を明確にする身分統制に他ならなかった。ここでは武力抵抗の実質的手段として刀を没収する武装解除ではなく、帯刀習俗が武士階級の表象(シンボル)であるという刀が持つ象徴的意味を踏まえた上での、農民からの名目的な、ゆえに刀狩り以後も村々には多くの武器が留保され農民は刀を所有してはいるが、ただ人前にて帯刀・脇指してはならないというレベルでの武器「没収」の刀狩りなのであった。

刀狩令は、すべての百姓の武器の没収を表明していた。しかし、現実には村の武器の根こそぎの廃絶というよりは百姓の帯刀権の規制として進行した。ただし、百姓が刀の武器を所有していることは農民蜂起の村の武装につながる。そこで村の武装権の規制と百姓らの武力行使の封じ込め制御のための政策は秀吉において、刀狩令とは全く別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村々に対し発せられた喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担(にな)うことになった。つまりは、豊臣政権下にて農民を武装解除させる意図は確かにあったが、その政策は前より目されてきた刀狩令ではなくて、むしろ喧嘩停止令の方で主に規制されていたのだ。

以上のことを踏まえ著者は「刀狩り=百姓の武装解除」の俗説を排し、「刀狩令の歴史的意義」を次のようにまとめる。

「つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は、村に武器があるのを自明の前提として、その剥奪(はくだつ)ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元に武器はあるが、それを紛争処理の手段としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。百姓の武装解除という私たちの刀狩令の通念と、『村の戦争』を前提にした喧嘩停止令のあいだのギャップを、しっかり見定めておきたい」(124・125ページ)

さらに本書の後半では「三つの刀狩り」として、近世初期の秀吉の刀狩令に加えて、明治維新の廃刀令と第二次大戦後の占領軍による民間の武装解除についても論じている。その際に著者は、「武装解除された『丸腰』の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換」の提言、「三つの刀狩り」によって一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回を執拗にやろうとする。例えば、

「(いわゆる『三つの刀狩り』を通して武器の保持や携行が国家権力により厳しく取り締まられ、民衆は、あらゆる武器を徹底的に没収され武装解除されて完全に無抵抗にされてしまったという歴史の見方の通念に関し)この見方は、いま、ほとんど国民の通念ともいえるほど根強く、『強大な国家、みじめな民衆』という通念は、…決定的な影響を与えてきた。…だが、この通念ははたして事実であったか。『みじめな民衆』像ははたして実像であったか。あらためて、日本の『三つの刀狩り』を、豊かな史実の中に、じっくりと追ってみなければならない」(17ページ)

なぜ著者は「三つの刀狩り」を通し形成された、一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回を、そこまで執拗にやろうとするのだろうか。その答えは本書を最後まで読むと分かる。最終章の「エピローグ・武装解除論から武器封印論へ」にて、冒頭から「日本国憲法」第九条「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」の文章を著者は引用し載せている。その上で以下のように続ける。

「(いわゆる『三つの刀狩り』における歴史上の)民衆の非武装は、秀吉のせいでも、廃刀令の結果でもなかった。敗戦後の武装解除の後も、銃も刀も、害獣用の鉄砲として、猟銃として、美術刀として、登録して認められれば、もつことができた」「時として起きる個々の悲惨な逸脱を別にすれば、私たちはこれだけ大量の武器の使用を自ら抑制し凍結しつづけて、今日にいたったわけである。その現実のなかに、武器を長く封印しつづけてきた私たちの、平和の歴史への強い共同意思(市民のコンセンサス)が込められている。そう断定したら、いい過ぎであろうか。少なくとも国内で、私たちが武器を封印しつづけてきたのは、銃刀法の圧力などではなく、私たちの主体的な共同意思であった。そのことをもっと積極的に認めてもいいのではないか。素手の弱腰を秀吉(歴史)のせいにしないで自前の憲法九条へのコンセンサスにも、もっと自信をもつべきではないか。強大な国家権力による民衆の武装解除論(丸腰の民衆像)から、民衆の自律と合意による武器封印論(自立した民衆像)へ、『秀吉の刀狩り』をめぐる、歴史の見方を大きく転回することを、ここに提案しながら、私の『三つの刀狩りの物語』を閉じることにしよう」(230、223ページ)

「三つの刀狩り」を通し形成された、一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回に著者が執着しこだわるのは、大量の武器の不使用を自ら主体的に選択し武器の所有や使用を自発的に抑制し凍結しつづけて、そこに民衆の平和への強い共同意思(市民のコンセンサス)を歴史的に見出したい著者の半(なか)ば願望の思いからであった。刀狩令を通し武器を封印してきたのは、国家権力の上からの強制による武器没収の武装解除ではなくして、私たち民衆の側からの強く平和を望む主体的な共同意思の選択結果であったのだ、と。

ここにおいて、強大な国家権力より実施される民衆の武装解除論にての強制的で一方的に武器を取り上げられる無力で「丸腰」の「みじめな」民衆像から、自律と合意により武器「封印」を自発的に選択して平和を志向する武器封印論の自立して主体的な誇らしい民衆像への転回が鮮(あざ)やかになされる。

そうして、この「自律と合意により自ら武器の封印の平和を選択する武器封印論での自立して主体的な誇らしい民衆」は著者のなかで、憲法第九条の「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」の精神を支える今日の日本国民の精神に繋(つな)がるのであった。著者の藤木久志は憲法改正に反対な立場の、現行の日本国憲法、特に憲法第九条に関し相当に熱心な護憲論者であるに違いない。

岩波新書の「刀狩り」は、前半は「刀狩り=百姓の武装解除」の俗説を疑って排する、史料の検証を絡(から)めた精密な日本史研究の実証的考察になっているが、後半から秀吉の刀狩令を含めた「三つの刀狩り」論にて、民衆の武器封印についての歴史を概観する段階になると、急に政治的になる。なぜなら、現行の日本国憲法の第九条を主体的に支持し九条改正を標的にした改憲に反対する著者の護憲の立場から、「三つの刀狩り」にて一方的に武器を没収され武装解除されて「丸腰」になってしまった「みじめな民衆」イメージの撤回が強力に要請されるからである。その代わりに本書の副題でもある「武器を封印した民衆」という、自律と合意により武器「封印」を自発的に選択して平和を志向する、自立して主体的な誇らしい民衆像への転換の提言がなされる仕組みだ。

このような現在の憲法改正をめぐる著者の生々しい政治的立場に暗に強力に支えられて、「刀狩り」という民衆の武器封印に関する歴史的な検証議論が展開されている所が、岩波新書の赤、藤木久志「刀狩り」の大きな特徴である。それは本書の長所であるといえるし、同時に問題点であるともいえる。