アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(526)西林克彦「わかったつもり」

(今回は、光文社新書の西林克彦「わかったつもり・読解力がつかない本当の原因」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、西林克彦「わかったつもり」は光文社新書で、岩波新書ではありません。)

私は今ではあまり人の来ない、つまらない書評ブログを細々とやっているが(笑)、書評文を書く際には、それなりに書評俎上(そじょう)に載せる本を読み込んで、「内容はだいたいわかった。自分としてはこの本は読み切れた」の確信を持ってから書く。ところが、文章を完成させ投稿した後で、たまたま他の方が同一の書籍について書いている書評ブログやブックレビューを読んでみると、時に私が気付かないような事にも触れ、私とは別な視点から深く広く読んだ上で書かれていることに驚かされ、自身の読みの浅さを痛感させられることが多々あった。

そういった思いに日々苛(さいな)まれていたところ、先日、西林克彦「わかったつもり」(2005年)を目にしたので購入して読んでみた。私には、まさに「わかったつもり」の弊害が自分のこととして痛く思い当たるフシがあったのである。

西林克彦「わかったつもり」のサブタイトルは「読解力がつかない本当の原因」である。著者によれば、読んだ際には「わかった」が、後から自身で考えて、また他者から指摘されて実は不充分であったというわかり方を「わかったつもり」と呼ぶことにするという。本書を通して「読解力がつかない本当の原因」を解明し理解することを通して、その原因の弊害を取り除き改善して結果、「わかったつもり」の状態から深い読みの「わかる」「よりわかる」に到達できるという、本書は極めて実用的な書籍なのである。著者の西林克彦は本書執筆時は宮城教育大学教育学部教授であり、認知心理学の観点から「わかったつもり」の弊害とそこから脱するための「わかる」「よりわかる」へ移行の方法・ヒントを述べている。

西林「わかったつもり」は、案外内容が細かい長い文章(長沢和俊「正倉院とシルクロード」など)を掲載し、それを実際に読者に読ませて後に文章内容に関する設問(「読めているかどうかの質問」)に答えさせた上で、実はこの設問は、全世代の中で比較的読みに習熟していると思われる現役大学生であっても、正答率が2割以下であるという、多くの人が一読して容易に正確に内容把握できない、いわゆる「わかったつもり」で済ましている文章読解の実際を読み手に認識させ、その「わかったつもり」の読者の不手際を著者が時に厳しく責めるような書きぶりで(笑)、本論は進む。そのため著者の指示に従って、本文中にあるいくつかの「読み」の問題をこなしながら、本書は決して読み飛ばすことなく最初から最後まで丁寧に精読したほうがよい。

よって本書の概要や要旨を、あらかじめここに詳しく書くのは適切でないと思われる。著者がいう「読解力がつかない本当の原因」には、例えば「『文脈』がわからず、『スキーマ』の発動のしようがなく、スキーマが『活性化』せず文章の処理に当たれていない」「文章における『全体の雰囲気』という魔力(読み違えの誘発など)」「間違った読み・不充分な読み(読み飛ばし)」「文脈の魔力から来るミスリード(「結果から」「最初から」の先入観・類推・早とちり)」「『いろいろ(ある)』 というわかったつもり(それ以上に読みが深まらない停滞)」「ステレオタイプのスキーマ(「善きもの」への安易な「当てはめ」、「当たり障りのない」「無難」という魔力で常識的理解に流される)」「読みの解釈にて他の部分との、より緊密な関連・整合性の欠如(スキーマ・文脈の非活性)」などがある。これらの内容は実際に本書を各自手に取り精読して頂きたい。

以下では西林克彦「わかったつもり」の中で「第1章・『読み』が深まらないのはなぜか?」にて主に述べられている、また本論全体に通底してある基本の考え方である「わかったつもり」=「読解力がつかない本当の原因」の心理的機制の精神面からの指摘(アドバイス)についてのみ書いてみる。

なぜ人は自身で後に考えて、もしくは他者から指摘されて実は不充分であったという「わかったつもり」の事態になってしまうのか。それには何よりも読む本人の意識の問題であるという。人は往々にして自分の読む行為に関し、一読して「わかった」とする感触や判断を安直に下しがちである。しかしながら、「わかった」という安易な感触・判断の意識こそが「わかったつもり」の何よりの原因であって弊害であるのだ。文章を読んで「わかった」と即に合点(がてん)してはいけない。この「わかった」という状態は、本当は不充分な「わかったつもり」の状態に他ならず、安定で、しかし実は停滞の心理状態である。不充分な読みの「わかったつもり」の状態に自分があることを、まずは冷静に認識することから始めるべきである。

「わかった」と即断した時点で人は、それ以上の「わかりたい」「よりわかる」への回路は閉ざされてしまう。「もっとよい読みが存在するはず」「より深く広く本質的にわかりたいと思う」地点にまでたどり着けなくなる。しかも「わかったつもり」の状態に陥ることで、本当は自分は「わかっていない」の現状を認識できなくなってしまう。だから、読みに際して「わかった」と即断せず慢心せずに、「本当に自分はわかっているのか」「今以上のよりよいわかり方があるのでは!?」の模索を絶えず続けるべきである。みずからの読みの解釈の「正しさ」を素直に信じたり、自身の読みの「正しさ」を誇示し強調することは、実は他の読みの解釈の可能性を排除することにもつながる。そのような既に「わかった」の硬直した読みではなくて、読み進める内に自分の中でその文章に対し矛盾や無関連の不明の理解箇所が出てくれば、読みの過程で「もっとよい読みが存在するはず」の立場から、自身の読みを修正しその都度、読みの方針や精度を更新(アップグレード)して柔軟に読み進めていけばよいのである。この意味で、読みの中途における矛盾や無関連の出現は次のよりよくわかるための契機といえる。

文章を読んで「わかった」と即断してはいけない。読みの心構えとして、「わかった」と慢心せずに「本当に自分はわかっているのか。これは『わかったつもり』なのでは!?」「今以上のよりよいわかり方があるのではないか 」と絶えず自分を疑いながら謙虚に読み進めるべきだ。本書にて著者がいうように、まさに「敵は自分である」。

最後に、西林克彦「わかったつもり」の表紙カバー裏に引用されている本文抜粋を載せておく。

「後から考えて不充分だというわかり方を、『わかったつもり』とこれから呼ぶことにします。この『わかったつもり』の状態は、ひとつの『わかった』状態ですから、『わからない部分が見つからない』という意味で安定しているのです。わからない場合には、すぐに探索にかかるのでしょうが、『わからない部分が見つからない』ので、その先を探索しようとしない場合がほとんどです。『わかる』から『よりわかる』に到る過程における『読む』という行為の主たる障害は、『わかったつもり』です。『わかったつもり』が、そこから先の探索活動を妨害するからです」