アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(521)中野敏男「ヴェーバー入門」

(今回は、ちくま新書の中野敏男「ヴェーバー入門」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、中野敏男「ヴェーバー入門」は岩波新書ではありません。)

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。中野敏男「ヴェーバー入門」(2020年)は、そのうちの一冊である。

中野敏男「ヴェーバー入門」は、直裁(ちょくさい)に言ってマックス・ヴェーバー研究ではない。本書はヴェーバーに関連した現代評論の思想的読み物である。ヴェーバーの思想内実を明らかにした厳密な学術研究ではなくて、「私ならヴェーバーをこのように読む。こう読み解いてヴェーバーを現代思想に活かす」程度の話の「ヴェーバー入門」なのであった。

つまりは、著者である中野敏男が「実はヴェーバー社会学には、このような深い考察の広い問題射程まで有するものであるから、そこを押さえてマックス・ヴェーバーは正統には読まれるべき」旨の、没後百年の節目に当たり、2020年の現代に生きる中野自身による個人的な独我的読みの解釈披露たる「ヴェーバー入門」なのであって、マックス・ヴェーバー当人の本意を汲(く)んだ、20世紀初頭のドイツに生きた実際のヴェーバーその人についての厳密なヴェーバー研究ではない。しかも「ヴェーバー入門」といいながら内容はそこそこに複雑高度であり、今回初めてヴェーバーに接する初学者に向けての分かりやすい解説記述に必ずしもなってもいない。そのため、著者の中野敏男をあまり知らない人、これまでの彼の社会学研究の問題関心や政治的立場を共有できていない者、全くのマックス・ヴェーバー初心者には、中野「ヴェーバー入門」は訳が分からず、本新書に関し酷評の低評価も十分にあり得る。

ここで本書の目次を見よう。中野敏男「ヴェーバー入門」は「はじめに」「おわりに」を巻頭巻末に置いて全四章よりなる。

「はじめに・ヴェーバー理解社会学を再発見する、第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生、第2章・理解社会学の最初の実践例・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む、第3章・理解社会学の仕組み・『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む、第4章・理解社会学の展開・『世界宗教の経済倫理』を読む、おわりに・理解社会学における『近代』の問題」 

まず「はじめに」にて、これまでの「ヴェーバー入門」と称する先行書籍がことごとくヴェーバーの理解社会学にほとんど触れていない無理解を批判し、そうして「第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生」でヴェーバーにおける理解社会学の原理的概要を解説し、次の「第2章・理解社会学の最初の実践例」で、先の理解社会学の手法に基づいてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)を実際に読んでみせる。さらに「第3章・理解社会学の仕組み」で、「経済と社会」(1921年)の中の「宗教ゲマインシャフト」の項を読み、そこから社会を「行為と秩序」の二元論的構成でとらえて、それまで社会を漠然とした一元論で単純認識していた、いわゆる「二つの流出論」「自然主義的一元論」に対する批判をヴェーバーの著述から読み取る。また「第4章・理解社会学の展開」では、同様に「世界宗教の経済倫理」(1915年)を読んで、そこからピューリタンを始めとする各種宗教の倫理から「合理主義の系譜」=宗教的担い手における意味への問いの否認(反知性主義)を読み取る。その上で、これまでの本論を踏まえ「おわりに」でヴェーバーの理解社会学により、

(1)社会を「行為と秩序」の、行為者とシステムの二元論の概念構成にて相対的かつ相補的な関係性で理解することを通して、文化領域の社会システムに人間主体が容易に囲い込まれ硬直する(「精神なき専門人、心情なき享楽人」の人間疎外の深刻状況になる)ことを批判的にとらえ、そうした事態にならないよう「人間と社会の脱一体的理解」へと導く。

(2)ある種の宗教倫理から来る、宗教的担い手における意味への問いの否認を、物象化した合理化・専門化である所の反知性主義と否定的に措定して、それへの対抗たる、世界を分裂・矛盾の連続過程として問題的にとらえ人間主体の世界認識である知性の更新を絶えずはかるような「知性主義」を、この反知性主義に対置させる。

こうして(1)(2)により、人間社会への静的理解である「物象化」の弊害を回避し、動態的理解の更新を絶えず重ね続ける脱近代(ポストモダン)な理解社会学を基礎としたヴェーバーの読み解きを行うことこそが、例えば本書にて著者の言う「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」ことの意味であるとする。

しかし、それにしてもヴェーバーの理解社会学から社会の物象化批判とか、宗教倫理を通しての反知性主義への対抗まで勝手に読み込む、中野「ヴェーバー入門」でのポストモダンなヴェーバー像の提示に、さすがに私は度肝を抜かれる。20世紀初頭に生きた社会科学者のマックス・ヴェーバーに、近代社会の物象化批判や脱近代の知性主義を過剰に万能に読み込み過ぎである(笑)。ここまで超人的な洞察でヴェーバーが現代社会の物象化や反知性主義の問題にまで論及できていたとは、にわかに私には信じられない程である。もはや、ここにあるのは現実に生きた歴史上のヴェーバーではない。

私はヴェーバー全集での主要著作もヴェーバー研究も、それなりに読んでいる。私の知る限り、マックス・ヴェーバーという人は、若い頃からドイツの軍隊に何度か志願し入隊して、50歳を過ぎた晩年にも健康が優れない中で第一次世界大戦に従軍し母国ドイツの戦勝を心から願って、だが第一次大戦にてドイツは敗北し、しかも戦時のドイツ革命を経てドイツ帝国の崩壊からドイツ共和国への移行に伴い、合理性の観点から新生ドイツ再建のために政治論文を意欲的に執筆した、彼はせいぜいよく言って近代の健全な国家主義者(ナショナリスト)といった程度である。ヴェーバーは決してポストモダン論者などではなかった。

本書を未読の人は、以下のような妙に力の入った(笑)、著者による並々ならぬヴェーバー読み込みの決意が表れた表紙カバー裏解説文を踏まえた上で実際に本書に当たるとよい。また本書を既読の方には本論内容に照らして以下の、著者のかなり熱い思いが込められた表紙カバー裏解説文を今一度、確認し味わって頂きたい。

「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える。これが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった。だが、奇妙なことに従来の議論では、彼自身のこの問題意識が見落とされている。本書では、ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす。主要著作を丹念に読み込み、それらを貫く論理を解き明かす画期的入門書」(表紙カバー裏解説)

何しろ「理解社会学こそが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった」の強い断定の上で、かのマックス・ヴェーバーに関し「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」の壮大で過剰な読み込みの中野敏男「ヴェーバー入門」であるのだ。ゆえに本書を読んで現実のマックス・ヴェーバー、社会科学者のヴェーバーの実像とは異なるなどと激怒して、安易に批判してはいけない。

私も中野と同様、理解社会学がヴェーバーの社会科学の思想的営みの中心の根底にあったと考える。ただ「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える」理解社会学は何もヴェーバーのみが突出して唱えた彼の専売特許であったわけではない。ヴェーバーが生きた20世紀初頭のドイツでは、ディルタイ(1833─1911年)やジンメル(1858─1918年)ら同時代の他の社会学者にも「生の哲学」として一般的に広く見られた研究手法であり、理解社会学の方法は当時の社会科学での時代の流行(トレンド)だった。ヴェーバーの時代には、社会事象を考察する際に、個人と事柄の外面的な因果関係の説明で無難に済ませることでは不十分で、もはや許されず、社会行為をなす行為者当人にとっての主観的な意味・動機の了解(理解)機成にまで踏み込み、掘り下げなければならない近代社会学の学問になっていたのである。

ヴェーバー読解のヴェーバー把握にて、ヴェーバーの理解社会学の試みを不当に軽く見て看過することは出来ないが、また他方で本書「ヴェーバー入門」での中野敏男のようにヴェーバーの理解社会学の要素を余りにも前のめりで過剰に多く見積もり、そこまで高く持ち上げる必要もないというのが、本書読後の何よりの私の率直な感想である。

最後に。ここまで散々に書いてきて、もう誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こう見えて私は昔から中野敏男のファンである。中野の論文や著作や座談など今まで公的に刊行されたものは全てだいたい読んでいる。中野敏男の仕事にはヴェーバー、丸山眞男、大塚久雄、北原白秋、高村光太郎、近代法システム、戦時動員と戦後啓蒙、日本の戦争責任、沖縄基地問題ら多岐に渡って優れたものが多くある。

なかでもマックス・ヴェーバー関連でいえば、日本人にヴェーバーを大々的に紹介した日本でのヴェーバー研究の第一人者である大塚久雄(1907─96年)に関する中野の研究は特に優れている。中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」(1997年、中野「大塚久雄と丸山眞男」2001年に所収)は、十五年戦争時の戦中の戦時動員から、1945年の敗戦後の戦後啓蒙へと大塚がみずからの思想的立ち位置を大きく変える際に、戦前初出のヴェーバーに関する研究である大塚「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」(初出1943年、改訂1946年)の結語を戦後の改訂版では都合よく、こっそり大塚が書き換えて改変しているという大塚久雄のヴェーバー研究における巧妙な書き換え策術を指摘し明らかにしており、読んで非常に面白い。中野「ヴェーバー入門」に続いて、中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」をまだ未読な方には是非、本論文まで手に取り読んで頂きたい。