アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(502)池上嘉彦「記号論への招待」

岩波新書の黄、池上嘉彦「記号論への招待」(1984年)は、まずそのタイトルが私には昔から強く印象に残る。「記号論への招待」で、「招待」である。「記号論入門」とか「記号論概説」ではないのだ。記号論の初歩を初学者にも分かりやすく伝える「入門」や、記号論の全体のあらましを概観する「概説」ではない。本新書は確かに内容は「記号論入門」的であるが、「本書を通して記号論を少し知って、本書を機に後に記号論を本格的に学んでみるとよいですよ」の微妙なニュアンスを含む、「記号論のすすめ」といった少し腰の引けた「記号論への招待」タイトルである。

本書が出された1980年代の記号論の一般的な読まれ方は、記号=言語論そのものを深く学び知るというよりは、記号論に通底する思考が当時のポストモダンの現代思想の潮流に乗っていたことが大きい。そうした時代的な読まれ方に合致して、特に記号論は1980年代に流行し広く読まれていたのだった。1980年代には、いわゆる「ニュー・アカデミズム」のブームがあって、近代化論やマルクス主義ら従来の正統学問とされるものから少し外れた、記号論や構造主義や文化人類学やメデイア論やサブカルチャー批評などの新たな学問が「ニューアカ」と称され、80年代の日本では流行していた。その時代には、ポストモダンな現代思想がもてはやされていた。

岩波新書「記号論への招待」は1984年発行であり、本新書は当時のニューアカ・ブームの下にあった。本書で強く意識され論述の基調となっているのはソシュールの記号論である。80年代の日本のニューアカ・ブームの際によく読まれていたのはソシュールの記号論だった。ソシュールの記号論は、それまで主流であった言語論での、言語の記号は単に物事を指示したり人間間の伝達の道具として言語を捉える言語道具論と、言語はある特定民族や地域国家に先人を通し連綿と伝えられてきた文化的アイデンティティとする文化言語論との両極を退け、新たな言語理解の地平を切り拓く記号論の画期であった。それまでの近代の、割り切った指示伝達の手段としての単なる道具言語論と、「言霊(ことだま)信仰」など言葉に歴史伝統の継起を過剰に読み込むロマン主義的な文化言語論の双方を、ソシュールの記号論は容易に超えることができた。また各国、各地域の個別の言語に専門特化して偏向することなく、ソシュールの記号論は人間が使う言語一般を幅広く考察対象に置くこともできた。それゆえ80年代の近代批判=ポストモダン(脱近代)の文脈にて、ソシュールの記号論は流行人気でよく読まれていたのである。

例えば犬の鳴き声表記について、一般に英語では「バウワウ」、日本語では「ワンワン」である。英語圏のアメリカの犬と日本語圏の日本の犬とで実際に鳴き声が異なるわけはなく、犬の鳴き声はどこの国でも万国共通であるから、英語と日本語とで犬の鳴き声表記が異なるのは、言語そのもの(音韻表記のあり様)と、言語を使う人の背景文化(ある文化圏にて共通する人々の音声の聞こえ方・認知の仕方)に起因するのである。このことから言語(記号)は必ずしも指示対象を厳密に捉え反映しているわけではなく、対象と言語の間に結び付きの恣意性(恣意的な関係性!)があることが認められる。言語は決して物事の正確な反映ではない。しかしながら厄介なことに、必ずしも指示対象の正確な反映の厳密な結び付きがない恣意的言語の記号を使い続けていると、その恣意的結び付きの事実がいつの間にか忘却・隠蔽され、あたかも言語そのものが物事の正確な表記のように人々に錯覚され共同化されて、恣意的虚構の言語が新たな現実(らしきもの)を構成してしまう。先の犬の鳴き声の例でいえば、日常的に日本語を使っている私たち日本人には、確かに犬は「ワンワン」と鳴いているように実際に聞こえるし(決して日本人の耳には「バウワウ」と鳴いているように聞こえないのだ)、日本語を使う皆は、犬が「ワンワン」と鳴くことを少しも疑わない。同様にアメリカ人は、犬が「バウワウ」と実際に鳴いていることを信じて疑わないのである。

ところで、近代とは先天的にある絶対的な普遍規範から降りてきて現実を意味づける思想の時代であり、近代社会とはそうした普遍価値を志向する社会である。近代の先天的で絶対的な価値規範とそれに基づく制度・システムといえば、例えば人間主体、個人、権利、民主主義、科学合理主義…というように。そして前述のような、物事の実体に即した価値規範がそもそもないのに、ある時からその価値規範が共同化され普遍価値として、あたかも本来的に存在しているような倒錯的な価値形成のあり様を端的に暴く記号論は、極めて近代的な人間の記憶や意識、制度やシステムの当たり前の自明性・正統性を疑う、人間主体や人間を取り巻く外部環境的なものを果てしなく相対化していく脱近代(ポストモダン)の思考に上手い具合に接続していた。物事の関係性に着目した価値規範に関しての相対主義たるポストモダンの時流に、記号論の倒錯的な価値形成の考察指摘は見事、合致していたのである。

加えて、言語は壮大な差異の体系の精密な記号システムでもある。各語の音韻音節や概念や評価の言葉はそのものの実体があるため、それに対応して言語も後にあるというよりは、そもそも最初に言語という物事の相互の違いの関係性を示す差異の体系がまずあって、その違いの関係性から後に各実体が生ずるの思考である。記号論でのこうした考え方は、実体が先天的にまずあってそこから事物が絶対的に存在するのではなく、差異など最初に物事相互の関係性があって、そこから副次的に個々の事物の存在やそれへの評価が生じるとする関係の相対性に着目したポストモダン思潮に確かに合っていた。

よく指摘されるように、言語学者であり記号学者であったフェルディナン・ド・ソシュール(1857 ─1913年)は存命中に公的な著作を一冊も出していない。ソシュールの記号論の概要が広く知られるのは、彼が晩年にやった大学での一般言語学の授業を聴講した学生記述の講義ノートが後に出版されてからであった。その講義ノートを手がかりに皆が後の80年代に「ラングとパロール」とか「シニフィアンとシニフィエ」など、ソシュールの記号論を読み解こうとし、またソシュールの記号論を超えることを各人が目指していたのである。ソシュールの記号論の1980年代のポストモダン時流での主な読まれ方は、記号論・言語論そのものを深く学んで知るというよりはソシュールの記号論を通して、そこに通底し集約的にある、価値形成の倒錯や差異の体系など物事の関係性に着目した相対主義の思考を摘出し、それを近代批判のポストモダン(脱近代)の文脈に乗せ、記号論以外での他学問や現代社会の解析にて幅広く読み継ぐことにあった。そういった意味で80年代に異常人気で跳(は)ねた浅田彰「構造と力・記号論を超えて」(1983年)は、なるほど記号論に依拠しながらも最後は「記号論を超えて」のポストモダン潮流に乗ったニューアカ・ブームの当時の時代の空気を如実に示す、ある意味、名著であったと思う。

岩波新書の黄、池上嘉彦「記号論への招待」に関しては、まず最終章の「記号論の拡がり・文化の解説のために」から読み始めてポストモダン時流での記号論の読まれ方、文化一般への記号論的思考の活かし方の全体像を押さえた上で、その後に冒頭の第一章「ことば再発見・言語から記号へ」に戻り詳細な内容を順次読み進めて記号論自体を学ぶ、の方法をとるとよい。

「いま広範な学問・芸術領域から熱い視線を浴びている『記号論』。それは言語や文化の理解にどのような変革を迫っているのか─。ことわざや広告、ナンセンス詩など身近な日本語の表現を引きながらコミュニケーションのしくみに新しい光をあて、記号論の基本的な考え方を述べる。分かりやすくしかも知的興奮に満ちた、万人のための入門書」(表紙カバー裏解説)