アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(150)安藤宏「『私』をつくる」

岩波新書の赤、安藤宏「『私』をつくる・近代小説の試み」(2015年)の表紙カバー裏解説には次のようにある。

「小説とは言葉で世界をつくること。その仕掛けの鍵は、『私』。日本近代小説の歴史は、明治期に生まれ普及した言文一致体によって、いかに『私』をどうつくりだすかという作家たちの試行錯誤の連続であった。『私』とは何か、小説とは?漱石や太宰らの作品を鮮やかに分析。近代小説がの本質に迫る、全く新しい小説入門」

さらに「はじめに」にて著者は「本書の効用」について、以下のようにもいう。

「潜在する『私』がどのようなパフォーマンスを繰り広げてきたのかを歴史的にふりかえってみると、その立ち現れ方には、いくつか興味深い法則のようなものがあることに気がつく。それはまた、日本語表現の特色や奥行きの深さについて考えるきっかけにもなるだろう。同時に『私』を使いこなす術(すべ)を身につけることは、文章を書く実践的なコツ、あるいはまた『小説』を書く創作方法のヒントになるかもしれない。本書を手にした読者は隠れた『私』の役割に着目することによって、近代の名作と言われてきた小説群がこれまでとかなり違って見えてくることに、おそらく新鮮な驚きを感じることだろう。その意味でも本書は近代小説の読み解き方のガイドであり、小説表現の歴史を大きく概観するための道案内でもある」

「日本語表現の特色や奥行きの深さについて考えるきっかけになる」「文章を書く実践的なコツ、あるいはまた『小説』を書く創作方法のヒントになる」「近代小説の読み解き方のガイドであり、小説表現の歴史を大きく概観するための道案内でもある」など、「本書の効能」は誠に絶大である。実際どうであるかは各自で本新書を手に取り熟読して確かめてもらうしかないが、少なくとも私は読んで「なるほど」と腑(ふ)に落ちた。

本書の特色は、日本語の特徴として叙述の背後に一人称の「私」が潜在しており、その「私」が小説世界でさまざまなパフォーマンスを展開していると考えてみることによって小説の解釈にあらたな視点を提示した点にある。それは近代小説における、作者たる書き手の「私」から不特定多数の読み手の「あなた」へ向けられた語りの構造を明らかにすることに他ならない。それら構造の仕組みは、著者がいうところの「なりきり・目隠しの法則」や「ひとりごと化」や「メタ・レベルの法則」ら、日本語の小説表現におけるいくつかの法則として説明されている。

日本は近代以降、西洋の影響を受けてジャンルとしての小説の内容が大きく変化した。一つには、話し言葉(「言」)と書き言葉(「文」)の一致をめざす「言文一致」運動によって文体が大きく変わったという経緯があり、またもう一つには新たに「人称」の概念が入ってきたことにより、小説の視点を日本語でどのように設定するかをめぐり、さまざまな試みがなされてきた経緯があった。本書では、こうした構造的カラクリの観点から日本の近代小説の歴史と展開をわかりやすく解説している。その際に実例として挙げられ引用されるのは、二葉亭四迷、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、志賀直哉、泉鏡花、川端康成ら日本の近代小説の一節である。

そこで改めて「日本近代文学における言文一致とは何であったか」の定義や、「メタ・レベルの法則」など見られる「メタ××」の言語の意味用法を再確認できたり、新しく学んだりもできる。この点からして本書は近代小説を新たに読み始めたり近代文学をこれから本格的に学ぼうとする人に向けた、まさに「小説入門」たるに相応(ふさわ)しい。

岩波新書「『私』をつくる」における、近代小説の成立装置たる「私」は、そのまま作者を指すとは限らない。小説のなかで立ち現れてくる「私」は必ずしも作者自身ではない。著者に言わせれば、「念のために言っておくと、ここに言う『私』は作者を連想させつつも、あくまでもそれとは別物だ。作者の意図を受け、作中を自由に浮遊しながら小説に独自の奥行きを造り出していく虚構の言表(げんぴょう)主体なのである」。

本書では、その「私」を「人形浄瑠璃にて、舞台の世界を円滑にスムーズに演出するために八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をなす黒子の存在」に模している。どのような小説にも目には見えるが、存在しないものとして隠れたことになっている背後の演技者である黒子のような「私」が潜在しており、作中のさまざまな矛盾を解消すべく独自のパフォーマンスを繰り広げているというわけだ。だから本書は、近代小説におけるその黒子たる「私」の働きぶりを可視化し明るみに出して、構造分析的に法則化して見ていこうとする趣旨である。

安藤宏「『私』をつくる・近代小説の試み」は、そのタイトルから一読して誤解されやすい。「私」と「近代小説」の組み合わせからして、あたかも近代小説にて作品中の主人公に実在の作者の「私」を重ね合わせて読もうとする「私小説」的読み方の奨励や、例えばバルトのポストモダン文芸批評のように特権的な「制度としての作者」をいくら脱構築し解体してテキストを時代や読者に委ねても、作者その人の自我や思想信条は除去できないのだから、作品を介して、それら作者の「私」性を読み取る本筋に回帰することが、あたかも今日における小説の読みであるように説く、そうした文脈での「近代小説のなかの私」を時に連想させてしまう。小説の全てが作者の近代的自我の「私」に回収されていく、典型モダンな文芸批評の復権が本書にて説かれているように思われがちだが、それは違う。

著者がいう近代小説のなかの「私」とは、小説内での語りの表記を根本から可能にするような、著者が強調するところの「表現に潜在する私の演技性」とでもいうべき、より根源の技術的な小説の語りの装置のようなものである。

このことは「私小説の定義」に関する以下の記述の中で著者の考えが明確に表明されている。安藤宏「『私』をつくる・近代小説の試み」における「私」とは、「私小説」をめぐる作家論(書いた作者はどのような人物であったのか)の「私」性や、「文化論的視点」の歴史的・社会的な文化コードにより規定される「私」ではなくて、「表現に潜在する演技性」を発揮する小説それ自体の仕組みのような、近代小説にてより根源たる「私」なのであった。

「近年の研究では『私小説』というのはそもそもジャンルなのではなく、モード(読書慣習)であったのではないか、と考えられるようになってきている。つまり『私小説』なるものがあるのではなく、主人公に作者その人を重ね合わせて読もうとする読者の慣習(モード)こそが『私小説』をつくっていくのだ、という発想である。…こうした動向は『私小説』をめぐる歴史的な状況(読みの慣習)を明らかにしていく上で大きな意義を持っていたが、その一方で、もしも文化的な制度の問題としてのみこれを捉えてしまうのであるとするなら、先に述べた虚構それ自体の仕組み、『私』の持つ演技性は、やはり見えなくなってしまうのではないだろうか。『私小説』をめぐる問題は、作家論(書いた作者はどのような人物であったのか)だけでは解決できないし、表現論的視点(純粋に言語の構築物として作品を検討する立場)だけでも解決できないし、また文化論的視点(社会的歴史的な表象として小説を捉える立場)だけでも解決できない。あえて言えばそれらのすべてを視野に入れた上で、作者と読者がそこでどのような綱引きを演じていたのかを、表現に潜在する『私』の演技性、という観点から明らかにしていく複眼が不可欠なのである」(「『私小説』の定義」)