各々個別の文学作品に対して、「この作品はこのように読むべき」という正解の正統な読み方など、そもそも存在しない。個々の文学作品を各人が自由に読んで楽しんで、その人なりに読めれば、それが自然と正解の読み方だ。
しかし、その一方で「この作品は従来、伝統的にこのように読まれてきたので、そう読むとよい」とか、「この作品では、この観点を落とすと確実に不十分な読みになってしまうので避けるべきである」の定石(じょうせき)な読み方が、古典と呼ばれる名作な文学作品にて今まで読み重ねられ評論されてきた文学的実績があることも事実であって、各人が名作古典と評される文学作品を読む際にそうした文芸批評の蓄積成果を利用しない手はない。
だから、特に文学初心者で書籍をあまり読み慣れていない人に対し文学作品を解説する場合には、「確固とした確立された正解の正統な読み方があるわけではないから、各人が自由に奔放に自己流で読んで楽しんで、それで構わないのだけれど、しかし他方で『こう読むのが常識』というような、文芸批評にて今まで評され議論されてきた、ある程度の正解の正統な読み方は、だいたいどの有名作品にもあるのだから、そのように読むべきだ」の読み方に関しての「自由と強制」の二律背反の微妙な状勢に時になってしまう。
岩波ジュニア新書の猪野謙二編「小説の読みかた」(1980年)は副題が「日本の近代小説から」であり、本書出版時の1980年代に第一線にて活躍していた文芸批評家や文学者や研究者らが岩波ジュニアの若い10代の中高生読者に代表的な日本近代文学作品の読み方を教授(レクチャー)する趣旨の新書である。
冒頭の「はしがき・編者から」にて、前述のような「確固とした確立された正解の正統な読み方があるわけではないから各人が自由に読んでも構わないないのだけれど、しかし他方で『こう読むのが常識』というような正解の正統な読み方はあるのだから、そのように読むべきだ」の入り組んで複雑な事情を編者の猪野謙二が岩波ジュニア新書の中高生読者に向けて、相当に言葉を費やし律儀に丁寧に時にクドいくらい(笑)、かなり真面目に説明し尽くす「はしがき」がまずは本書の笑い所だ。
さて、岩波ジュニア新書「小説の読みかた」は、前述のように本書出版当時に第一線にて活躍していた文芸批評家や文学者や研究者ら錚々(そうそう)たる人達が、若い中高生読者に向けて日本近代小説の読み方提案をしている。ここで本書の目次を挙げると以下のようになる。
大岡信「夏目漱石『坊っちゃん』─愛と癇癪(かんしゃく)」、阿部昭「芥川龍之介『藪の中』ほか─短編小説の魅力」、津島佑子「有島武郎『或る女』─自由の孤独」、大江健三郎「志賀直哉『和解』─『かたまり』の読みとり」、黒井千次「島崎藤村『桜の実の熟する時』─青春の固く小さな果実」、稲垣達郎「森鴎外『うたかたの記』─青春の讃歌・哀歌」、猪野謙二「国木田独歩『忘れえぬ人々』ほか─宇宙のなかの『小民』」、林京子「樋口一葉『にごりえ』─女のかなしさと苦悩」、野間宏「泉鏡花『高野聖』を中心に─日本近代小説の二つの領域」
どの人も破格の一流の人達ばかりである。こうした面々の作品解説で構成されている本書に私は驚くばかりだ。各人による10代の若い読者へ向けて書かれた具体的な文芸批評、つまりは各作品の正統な読み方指南の内容が良いことは言うまでもないが、岩波ジュニア新書「小説の読みかた」は、これだけの執筆者の面子を揃(そろ)えられただけでも素晴らしい。例えば最初から大岡信による夏目漱石論は、あまりにも王道すぎて私は笑ってしまう。
私が特に気に入っているのは、大江健三郎「志賀直哉『和解』─『かたまり』の読みとり」と、野間宏「泉鏡花『高野聖』を中心に─日本近代小説の二つの領域」である。
前者の大江健三郎は、自身が小説世界を創作し作品を執筆する際の「小説家の創作の手口」をあえて若い読者に公開し、逆に中高生の読者はその「小説家の創作の手口」を逆算して、そのように文学作品を読むように勧める、実に小説創作の仕組みの理にかなった実践的アドバイスである。すなわち、志賀直哉「和解」(1917年)を例に取り、大江健三郎が小説世界を創作し作品を執筆する際には、場面ごとのイメージ(いわゆる「かたまり」)を生成し膨(ふく)らませる書き方を心がけ、小説内にて物語が前に進むと、それまでの各場面と新たな場面の記述イメージとが重なり重奏して深みを増したり、「かたまり」イメージの組合せにより個々の場面イメージが後に変化したりする。
だから、読み手の方も作品内の細かな一字一句や一文に捕らわれることなく、また機械的に読み進みたり、単なる話の筋を追う表面的な読み方ではなくて、各場面の大きなイメージを「かたまり」として押さえながら、前場面との「かたまり」イメージからの変化や対照や発展らの生成変化を深く味わいながら読み進めていくと良い、といった趣旨の大江健三郎による「小説の読みかた」指南である。
後者の野間宏に関しては、泉鏡花「高野聖」(1900年)に対し従来の近代日本文学史にて、鏡花の「高野聖」は耽美派で神秘主義の幻想文学として語られ、「厳格な写実主義の文学立場からリアリズムの欠如」と時に軽く読み流されてきたが、本作にて登場する動物や妖怪たちを一種の比喩として、そこに資本制の近代社会にて虐(しいた)げられてきた無名の人達を暗に読み込んで泉鏡花「高野聖」をリアリズム小説として捉え直そうとする野間宏の読みの提案である。すなわち、「『高野聖』のなかのこの美女、妖怪は日本資本主義の勃興(ぼっこう)期に、すでにその社会の裏面にあっておしつぶされて行った多くの敗残者…鏡花はその妖怪(敗残者)を見る目を備えていたのである。そしてそれを作品のなかに存在させ、それを見なければならない多くの大衆と共感しあうのである」。
泉鏡花「高野聖」は近代文学の近代小説なのであるから、単なる古典説話の現代誤訳の焼き直し(リバイバル)ではなくて、確かにその作品に目下の近代社会の資本主義的問題を新たに読み込まねばならないはずである。
思えば、野間宏その人が同和問題にて被差別部落解放運動に関係したり日本共産党に入党するなど、野間の資質として元々資本主義体制抑圧下での人間の人格的平等を志向する思いが強く、耽美派の幻想文学と評されがちな泉鏡花「高野聖」に日本資本主義勃興期に敗残した人々をリアルに読み込もうとする手法も、そうした人間平等確保の思いから虐げられた無名の人達を救いあげようとする野間自身の眼差しがあるからに他ならない。泉鏡花「高野聖」に対する野間の読み方解説は、如何にも野間宏の思想や人柄がしのばれる「小説の読みかた」であり、私は相当に好感をもつ。
その他、岩波ジュニア新書「小説の読みかた」に収録の各人による各論も代表的な日本近代文学作品に対する、これまでの文芸批評の蓄積に裏打ちされた正統な読み方手本の教授であり、読んで大変に意義深い。
「だれにでも、年少の日にはじめて出会っていまなお忘れられない文学作品があるものです。この本では、いま活躍中の小説家、詩人、研究者たち九人が、漱石,鴎外,芥川,藤村など代表的な明治・大正期の小説家の作品からそれぞれ一作をとりあげて、若き日の作品との出会い、それが現代の青春にとってもつ意味、その読みかたなどを語ります。原作のもつ味わいが浮き彫りにされているので、日本の近代小説の面白さをあらためて伝えてくれます」(裏表紙解説)