アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(351)姜尚中「姜尚中と読む夏目漱石」(その1)

岩波ジュニア新書は10代の少年少女向け読み物(ジュヴナイル)であるから、岩波ジュニア新書の姜尚中(かんさんじゅん)「姜尚中と読む夏目漱石」(2016年)は、夏目漱石の名は知ってはいてもまだ漱石作品を読んだことがない、ないしは漱石の小説は読んだことはあるが、そこまで精密に深く読み込んではいない10代の中高生の若い読者に向けて、大人の姜尚中が「若い読者諸君と一緒に漱石を読む」のスタンスで漱石文学の読み所をレクチャーする内容になっている。

姜尚中といえば政治学専攻の政治学者であるから、本新書を一読して当然、政治学視点からの漱石作品の読みが目立つ。事実、著者の姜尚中自身も本書冒頭で次のように述べている。

「この本では、みなさんに私の大好きな漱石の魅力をお伝えしたいと思っているのですが、残念ながら私は漱石の研究家ではありません。私の本業は政治学者で、文学研究、漱石研究についてはまったくの素人です。…そんななかで私が漱石についてお話しするのは、実は冷や汗ものなのですが、漱石に対する思い入れだけは、他の人には負けないつもりです。漱石を読むたびに新しい発見があって、私はそれを人生の糧(かて)としています。勝手に私は漱石を自分の人生の師だと思っているのです」(「はじめに」)

なるほど、「私の本業は政治学者で、文学研究、漱石研究についてはまったくの素人です」というだけあって、本書での姜尚中による漱石作品の読みの力点は政治学的なものを多く含んでいる。例えば、当時の「後進的な」新興国の知識人であるがゆえ、また共に神経症にも苦しんでいた日本の夏目漱石とドイツのマックス・ヴェーバーとの共通苦悩の指摘(10・11ページ)だとか、個人主義の成熟といった中身は何らないのに富国強兵や殖産興業の外面だけを強迫的に外張りで急速に目指し「一等国」を以て任じた結果、神経衰弱的で上滑(うわすべ)りな明治日本の「近代化」の皮相な滑稽さについての漱石による文明批評の指摘(119─123ページ)だとか、「こころ」(1914年)での先生の「明治の精神に殉死する」自殺のうちに、政治学者の丸山眞男「忠誠と反逆」(1992年)での「忠義を尽くすがゆえに抗議のために反逆する」という日本人の異議申立の精神を見出す読みの解釈(176─185ページ)など。確かに文学研究や漱石研究では「素人」なのかもしれないが、政治学者の政治や思想史の視点から繰り出される姜尚中の漱石文学に関する読み所のレクチャー指摘に、私は「なるほど」といった納得で感心の思いがする。

ところで、夏目漱石研究に関しては、漱石の存命中の同時代評論から戦後より現在に至るまでの主な漱石研究の主要研究書と論文を集め、その概要をコンパクトにまとめた石原千秋「漱石はどう読まれてきたか」(2010年)という誠に便利な書籍がある。それを読むと、これまで積み重ねられてきた漱石作品への文芸批評や漱石研究に様々な視点・分野のものがあることが分かる。例えば近代化論、都市論、女性論、ポストモダン批評、テキスト論ら。その中でも、本新書で政治学者の姜尚中が主に指摘する政治学的立場からの読み、特に漱石による「近代」批判のそれは外せないものだと私は思う。同時に、これまでの漱石文学の批評の常套(じょうとう)として、作者の漱石が作中主人公らに暗に、時には明確に語らせる人間の死の影の実存的不安をすくい上げるような読みが昔から伝統的にあった。前者の政治学的なものなら「それから」「現代日本の開化」「私の個人主義」などを、後者の人間の死の実存的不安については「行人」「こころ」「硝子戸の中」らを取り急ぎ参照すればよい。

岩波ジュニア新書「姜尚中と読む夏目漱石」では、それら政治学的立場からの読みと人間の死への衝動の実存的不安のそれの二つが手堅く押さえられ、若い10代の読者へ向け解説されている。特に後者の人間の実存問題について、最終節の「この時代に伝えるべきこと」のなかで、本書出版前に起きた東日本大震災(2011年)の未曾有の自然災害と原発事故を踏まえ、「どんな悲劇や絶望に陥っても、それでも涙を飲んで前に進んでいく『覚悟』のようなもの」(198ページ)という「ポスト東日本大震災」の時代にての今日の人間の生き方を、夏目漱石を通して漱石文学の中から引き出す姜尚中の手際(てぎわ)は、なかなかのものだと思う。この生き方「覚悟」の指南が、今まさに青春時代の人生の途上にある若い読者を対象にした10代の少年少女向けのジュヴナイルである岩波ジュニア新書の結語の落とし所として、極めて適切で絶妙に思えるからだ。

思えば夏目漱石という人も、自身の容姿や心身の不調の病気や、身辺の妻や養父母との家族・親族との人間関係や弟子筋の世話や世俗の付き合いから、近代日本のあり方や西洋対東洋の世界の大きな問題に至るまで様々な悩みを抱えながら、しかし「どんな悲劇や絶望に陥っても、それでも涙を飲んで前に進んでいく『覚悟』のようなもの」を携(たずさ)えて生き抜いた人であった。漱石の小説「道草」(1915年)での主人公・健三の最後のぼやき「世の中に片づくなんてものは殆(ほと)んどありゃしない」は、その生涯にて夏目漱石が連続していつも持ち続けていた偽(いつわ)らざる人生の本音であったに相違ない。