アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(148)桑原武夫「文学入門」

「文学入門」や「文学概論」の書籍は不思議だ。おそらく、どんな人でも若い10代の頃に何かしらの契機で古典や近代の小説を最初に一編くらい軽く読み、それから人によってはさらに進んで数編読み重ね次第に文学の世界に馴染んではまり込み、話の純粋な楽しみ享受を通して以後、文学と自然に付き合うようになるに違いない。

ここには最初から個別具体な文学作品があるだけで、ただそれらを読むだけであり、「そもそも文学とは何か。文学の魅力とは。文学のあるべき姿とは。文学は何のためにあるのか」の大上段な抽象的考察を施す「文学入門」や「文学概論」 が入り込んで読まれる余地はない。そうした「入門」や「概論」の面倒な蘊蓄(うんちく)なくとも、人はただ目前にある個々の文学作品の古典や現代小説を手に取り楽しんで読み進めるだけで文学の世界に浸(ひた)れるし、それで十分に事足りるからだ。加えて、個々の作品を読み重ねていくうちに文学の読み方の方法も自然と会得し上達して、その分野に特有な文学世界の作法も流儀も自ずと理解できるようになる。「文学入門」や「文学概論」は不要である。

だがしかし、ある日ふと自分の文学の読み解きの力量見識を見定め確認してみたくなり、もしかしたら、それらを読むことで自身の文学能力の指数が上がり、前よりもより深く作品を読めるようになるのでは、との邪悪な誘惑がもたげてきて、「文学入門」や「文学概論」に今まで全く見向きもしなかったのに魔が差してその種の「入門」や「概論」に手を出しつい読んでしまう。そうした事態も、ある程度の数の文学作品を読み重ねていくと人によっては起こりうるのでは、と思う。事実、私にもそうした「文学入門」に手を出し読んでみた魔が差す瞬間があった。

岩波新書の青、桑原武夫「文学入門」(1950年)の構成は以下だ。

「第一章・なぜ文学は人生に必要か、第二章・すぐれた文学とはどういうものか、第三章・大衆文学について、第四章・文学は何を、どう読めばよいか、第五章・アンナ・カレーニナ読書会、付録・世界近代小説五十選」

桑原の「文学入門」を以前に読了して、「これは読むべきではなかった。読んでも結局のところ自身の身にはならなかった。『文学入門』の類いの書籍は読んで格別の害はないが、また同様に殊更の益もない」。そういった残念な読後の感想であった。「文学入門」を通して「自分の文学の読み解きの力量見識が見定められたり、もしかしたら、それらを読むことで自身の文学能力の指数が上がり前よりもより深く作品を読めるようになるのでは」の不純な動機の期待は見事に裏切られたのだった。

桑原武夫「文学入門」の「第一章・なぜ文学は人生に必要か」の概要を、あえて要約しまとめるなら次のようになるだろう。

「人はなぜ文学を好んで読むかを考えてみると、それは文学が面白いからだ。文学の面白さは、慰(なぐさ)みもののそれとは異なり、人生的な面白さである。また作者が読者に迎合して面白がらせるのは低俗な文学である。文学の本当の面白さは、作者の誠実な営(いとな)みによって生まれた作品中の人生を、読者が他人事ならず思うことである。そして、そのように読者にインタレスト(興味)を持たせうるということは、作者が扱う対象に強烈なインタレストを持ち、ゆえにただ単に対象を虚心に冷ややかに眺めていることに耐えられなかったからである。つまり、対象に作者が強く働きかけることによって、逆に文学素材たる対象からも作者は働きかけられ、その相互作用によって一つの経験が形成される、それが文学作品であり、文学とは完了された経験なのである。

それでは、読者は文学作品の中に込められた作品と素材対象との相互作用の経験を作品を読むことを通し、さらに再経験してインタレストを持つことによって何を得るのか。それはすぐさま行動に爆発するようなものではないが、行動をはらんだ心的態度である。この文学を通して得られた心的態度は、我々の行動を規制する力を持っている。また読者が文学によって人間についての知識を獲得するということは、言うまでもないが、その知識は実感に即した実質のある知識である。そうした文学を介しての実感ある人間についての知識の裏付けがなければ、人間の理論的知識は空理に終わる。人生はあくまで合理的に生きられねばならないが、人生を充実したより良きものとするためには、理性と知識のみでは足りず、さらに人生に感動しうる心が不可欠である。そう!文学こそ実感ある人間についての知識を養成するのに最も力のあるものである。これ以上、人生に必要なものはないといえる」

長い要約となったが、これは「文学概説」の大学講義での単位認定のための論述試験にて、「なぜ文学は人生に必要か」と問われて論述答案を作るその際の模範解答に似ている。実生活にて文学を読んで楽しむ人の文学生活に何ら寄与するものではない。ただ、このように模範的に「なぜ文学は人生に必要か」について文章回答したら、担当教授が喜んで「優」を付けるその程度の「文学入門」の記述でしかない。事実、桑原武夫「文学入門」は大学での文学概説の講義テキストに以前はよく使われていたらしい。

「なぜ文学は人生に必要か」や「すぐれた文学とはどういうものか」に対する答えは、あえて考えようと思えば本書のように文面記述で考え答えることはできるのだろうけれど、よくよく誠実に真剣に熟考して、私はいつも嘘くさい、しらじらしい思いがする。「人間が生きる意味」を聞かれ、「なぜ人は生きるのか、それは…」とスラスラ文章回答する胡散臭(うさんくさ)さに類似している。「文学が人生に必要な理由」も「人間が生きる意味」も言葉のみで語って説明できるものでは到底ないからだ。岩波新書の青、桑原武夫「文学入門」は、そうした居心地のよくない微妙な読み心地が読後に残る。